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Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

『境界の彼方』を観ました。

感想

 

 

 

 

時折、強烈な「ちから」を持った作品に出会うことがあります。

 

僕こと八神きみどりは、それほど沢山のアニメを観てはいません。小説も映画もマンガも、そしてアニメも。どれも自信を持って語れるほどの言葉も持ちません。消費者という立場にせよ、多くの作品を観たり読んだりしていれば、それはそれでプロフェッショナルと呼べる者になれるのだろうと、僕は考えています。作品を多く摂取することは誇るようなことではないと、言うひともいます。量より質、という考え方には納得出来るところはあります。凡百な作品を無数に摂取したところで、得られる読書/映像体験は自分を満足させてはくれないだろう、という予測は立ちますし、経験則として理解出来るところでもあります。ともあれ、多くを知ることで自分の中には確固足る価値観が生まれるはずですし、語る言葉も生まれるはずです。それは時として頭の固さに繋がることもあるでしょうが、主観として語れる迷い無い言葉には強さがあります。そういう価値観や言葉を得たいという欲求は、少なからず僕の中にあるのではないかと思っています。

さて、『境界の彼方』は、2013年の秋アニメです。つまり3年前のアニメなわけですが、このアニメを今更観ようと思ったのには、深い理由はありません。

僕は『dアニメストア』というアニメ配信サービスを利用しているのですが、先日その新着ラインナップの中に『境界の彼方』が追加されていたからです。

あらかじめ明言しておくと、僕は京都アニメーションの作るアニメが好きです。とは言っても、僕が京都アニメーションというアニメ制作会社の名前を知ったのは『AIR』からです。『涼宮ハルヒの憂鬱』であったり、今期絶賛放送中の『響け!ユーフォニアム2』であったり、好きな作品は沢山ありますが、『フルメタルパニック』であったり『らき☆すた』だったり、『Kanon』『CLANNAD』あたりは観ていませんので、あまり熱心な視聴者ではない自覚はあります。

そんなこんなですので、『境界の彼方』が地上波で放送されていた時も、視聴環境が無かったという理由はありつつも、注目さえしていませんでした。ちょうどKAエスマ文庫発の作品がアニメ化し始めた頃の折ですかね。『中二病でも恋がしたい!』の1期は放送中も追っていましたが、僕は伝奇モノ(公式はダークファンタジーというジャンル付けをしているのですね)というジャンルに興味をそそられないたちですので、当然のようにスルーし、話題も6話終盤以外は僕まで届いてこなかったので、今の今まで作品の存在さえ忘れていたというのがこの作品を観るまでの、僕の、『境界の彼方』という作品に対する認識(というと違うかもしれませんね)でした。

 

結論から言ってしまえば、僕はこの作品が大好きになりました。

本編12話を2日で分けて視聴し(本音を言えば1日で全部観終えたかったのですが、生活がそれを許してはくれませんでした……)、その後Amazonビデオのレンタルで劇場版である『過去編』と『未来編』も2日に分けて観ました。『未来編』は、この記事を書いている直前に観終えました。その熱気が冷めない内に言葉にしておこうと思い、今この記事を書いています。

時折、強烈な「ちから」を持った作品に出会うことがあります。

冒頭に書いた言葉ですが、僕は『境界の彼方』という作品から、その「ちから」を強く感じました。

まず、これは明言しておかなければならないことですが、『境界の彼方』は所謂「完璧な作品」ではありません。

この作品には致命的な欠陥や粗が沢山あります。僕が抱いた違和感は、他の視聴者も同じく抱くであろうという予想も付きます。

例を挙げるならば、「妖夢」という存在に対する視聴者への説明が圧倒的に足りません。

妖夢」が本来どのような存在なのか、それが人間に憑依した結果どういう結末を迎えるのか(これは登場人物の言葉で語られるものではなく、実際にそれがどのように起こり、どのような作用をもたらしてどのようにその人間に末路を迎えさせるのか、その後、末路を迎えた人間と「妖夢」はどのように変化するのか{憑依した「妖夢」とは別に、死んだ人間も別の「妖夢」になる? 憑依した「妖夢」が死んだ人間を取り込み、その人間の怨嗟等を吸収して、より強力な「妖夢」になる? そもそも憑依する目的は? 強力な「妖夢」になることが目的だとして、それを行う果てにあるものは? 世界を滅ぼすという目的だとして、それを達成した暁に「妖夢」たちが得るものとは?})。

妖夢」を狩ることで街や人々を守り、自らの生計も立てる「異界士」たち。彼らが使う異能の力の源は? どういった理由で作用するものなのか? 血筋? 素質? 一般人視点での情報が無いので、「異界士」たちが現代日本でどのような立ち位置にいて、一般人からどのように認識/非認識されているのかも不明。日本円で取引される「妖夢石」の存在。金を払ってまで得るのには深い理由があるはずだし、取引しているのが「妖夢」であるのも不穏な憶測を招くが、それに疑問を抱かない作中「異界士」たち。そんな「妖夢」に渡った「妖夢石」の行き先とは?

と、僕の拙い頭で考えたところで、根幹設定に対する疑問は尽きませんし、まだまだ突き詰めようとすれば出てくることでしょう。

境界の彼方」という、作中最強の「妖夢」については、その多くが語られません。なぜその「妖夢」が主人公である神原秋人の体内に宿っているのかも、同じく。その「境界の彼方」を「呪われた血の一族」の末裔であるヒロイン、栗山未来だけが倒せる理由も。理由を知る登場人物も、その理由を言葉にし、説明しません。

ですが、それらについて正しく説明すること、されることが、この作品をより強い「ちから」を持つ作品にすることかと問われれば、そうではないと僕は考えます。

 

境界の彼方』は「まったく同じ境遇の、正反対の位置にいる男女が、過去から繋がる結ばれない/結ばれてはならない/戦わなければならない宿命を背負ったその二人が、その宿命を断ち切り、どちらかが失わなければならない現状を否定し、自らの真の想いや、自らの望む幸せと向き合い、二人手を取り歩んでゆく未来を勝ち取る物語」です。

 

語られない設定や登場人物たちの過去は、それを補強しません。神原秋人と栗山未来の関係性をより強いものにもしません。それは1話~4話までの「虚ろな影編」から匂わされていました。『境界の彼方』には多くの登場人物がいますが、誰と誰にスポットライトが強く当たっていたかを考えればそれは明白です。神原秋人と栗山未来です。この二人の関係の変化を中心に描くこの作品において、設定や他の登場人物は、この二人の物語を最大限魅力的に描くために用意されたものたちであるはずです。であるならば、それらにより強くスポットライトを当てる必要はまったくありません。

……と、言い切ることが出来れば良いのですが、そうするためには「境界の彼方編」での情報不足は致命的です。尺が圧倒的に足りなかった、と、僕は考えています。「虚ろな影編」である4話までのエピソードはとても丁寧に描かれていて、「半妖」である秋人が「妖夢化」し、栗山未来によって我に返るまでの作劇に、情報不足という枷はありながらも、ほとんど隙が無い完璧に近い展開運びだったと僕は感じました。ですが、そこから「境界の彼方編」に繋ぐまでの5話~7話から綻びが出始めました。

具体的に尺が足りないと感じたのは伊波桜と栗山未来が和解する7話『曇色』です。

伊波桜は、栗山未来が背負う重苦しい過去の象徴です。「虚ろな影」は、栗山未来がその手で殺した伊波唯を幻影として出現させました。栗山未来はそれを払うことで、「虚ろな影」に憑依された伊波唯を殺した過去を、ある程度受け入れる(納得するのとも、払拭するのとも違う、現状を正常に認識する行為です)ことが出来ました(5話で栗山未来が「妖夢」を躊躇無く倒せるようになった描写がありますが、それを表す象徴的なシーンでしたね)。

ですが、栗山未来が真に向き合わなければならないのは、姉である伊波唯を失い、復讐に駆られる伊波桜です。

「虚ろな影」は確かに、伊波唯に憑依し、「異界士」である栗山未来の討伐対象となる直接的な原因を作った「妖夢」です。ですが「妖夢」に人間が理解出来る意思や目的は、作中では一度も示されてはいません。同様に、その「妖夢」が持つ能力によって現れた伊波唯の幻影にも、栗山未来の心の弱さを突き、動揺させる以外の意図や目的は無いと考えられます。であるのならば、それを倒したことで得られるものは、過去への正しい認識で留まるのは妥当です。認識は出来ても、精算は出来ない。栗山未来は自責の念に苛まされていますが、無二の親友を、「妖夢」に取り憑かれていたとはいえ、その手で殺したのなら、抱くそれが尋常なものではないことは想像の範疇です。それが許されるものなのか、精算出来るものなのかは、僕にはわかりません。それがどういうものかを想像することは出来ても、その状況が当事者にとってどれほどの呪縛になるのかを感覚的に理解することは難しいです。ただ、それを許すことが出来、精算出来る存在がいるとしたら、それは肉親である姉を殺された、伊波桜以外には有り得ないとは考えられます。

ならば、それを7話の決闘と、それに付随するやり取りだけで許せてしまった伊波桜の心情描写は、まったくと言って良いほど足りません。それまでの話数で、伊波桜が栗山未来に向けていた感情を考えれば、あれで許せてしまうのはあまりも性急です。

以降の伊波桜は、栗山未来と神原秋人を繋ぐメッセンジャーという役割を持たされた人物であると感じました。二人の仲をより繋ぐ、栗山未来寄りの立ち位置です。ですが、作劇上ではそれほど重要な役割を持たされてはいません(武器を失い、戦闘に参加出来なくなったほとんど普通の人間である伊波桜が、「異界士」や「半妖」である主要人物の輪からやや外れた位置に落ち着くのは必然です)。

となると、やはり、栗山未来と和解し、彼女が過去の精算を始められるキッカケを作るために用意された人物であることは明白なわけです。

6話『ショッキングピンク』は当時も話題になりましたが、所謂ギャグ回です。ですがあの回は本当に良く出来ていて、京都アニメーション特有の尋常じゃなく凝ったダンス描写やテンドンを駆使した展開に目が行きがちですが、栗山未来が神原秋人を中心に構成するコミュニティに馴染むシークエンスが、非常にスムーズに描かれています。

丁寧にも丁寧すぎるくらい慎重に描かれていた、栗山未来とそれ以外の人物の関係性の構築が一気におざなりになってしまった7話『曇色』は、視聴者の没入感を削いでしまう強烈な痛手となったであろうことは、実感として僕の中に強く残っています。

もう一つ決定的な綻びは、神原秋人から抜けた「境界の彼方」との最終決戦から、12話『灰色の世界』終劇まで続く一連です。

視覚的な情報のみで、決定的な情報を欠いたまま進められる戦闘や、展開の数々。何が起こっているのか、視聴者がよくわからないままに映像は続いてゆきます。訳知り顔で何も語らない大人たち。「境界の彼方」が舞台である長月市直上に現れた理由。消えたはずの栗山未来がそこで孤独に戦う理由。結局、藤間弥勒が企んでいたこととは。「境界の彼方」へと吸い寄せられる「妖夢」たち。「異界士」としての力が弱まる名瀬博臣。クライマックスにて起きる、栗山未来と神原秋人のやり取り以外の全て。栗山未来が、神原秋人の前へと戻ってきた理由。

それらは何も理由が語られません。これは致命的です。語られない設定は物語を補強しない、とは前述した僕の言葉ですが、これはそれ以前の問題です。

ですが、それらに納得出来る理由を見つけることは可能です。

それは「文脈」です。

物語終盤で最後の戦いを起こす必然性は言うまでも無いでしょう。であるならば、それ以前に主人公とヒロインが離れ離れになってしまったのなら、再開する展開が望ましいです。主人公が力を失ってしまっていたのなら、それを僅かでも取り戻す展開が望ましいです。敵が強大であるなら、主人公とヒロインが共に戦う展開が望ましいです。敵が「妖夢」であり、人間の心の弱さに付け入ってくるのなら、それを視覚的にわかりやすく表明する描写を用いるのが望ましいです。幻影が晴れた後に現れるのは、当然無数の「妖夢」たちでしょう。それを全て倒す展開は必然です。神原秋人の体内から「境界の彼方」を排除した栗山未来の方法から考えれば、神原秋人が自己肯定の末に「境界の彼方」を取り戻した後、栗山未来が消えるのは必然です。物語の方向性を考えれば、栗山未来と離別したまま終劇するのは望ましくありません。ですので、栗山未来は戻ってきます(劇場版をご覧の方はご存じだとは思いますが、それは代償を伴った、決して幸せとは呼べない終劇ではあるのですが)。

もちろん、これは納得出来る理由ではありません。視聴者の期待を裏切らない展開を用意したとはいえ、その理由が全く示されていないのなら、納得出来る作劇とは呼べないものになってしまうからです。

ですが、映像作品としては、唯一無二の作品に仕上がっていたと僕は感じます。

その唯一無二の映像体験を得ながら、僕が考えていたことは「惜しい。あまりにも惜しすぎる」という、ただ一点です。

最低でも、あと2話あったのなら、と考えます。

7話『曇色』を補強する1話と、11話『黒の世界』と12話『灰色の世界』を補強する1話があれば、『境界の彼方』はとんでもない傑作として語られる作品になったのではと思って止みません。

僕が感じた欠陥や粗については、「もしかしてこいつは『境界の彼方』が嫌いなんじゃないのか?」と思われても仕方が無いくらいあれこれと書きました。

そうでは無いのです。僕はこの作品が秘めたポテンシャルを身を以て体験しました。だから勿体なく思うのです。もちろん、僕が列挙した通りに改善すれば『境界の彼方』が傑作として語られる作品になるとは限りません。僕はアニメの作り方を知らない一視聴者です。脚本も書けません。ただ、思ったことを思ったまま書くだけの、自分勝手な消費者です。そんな人間が挙げた改善点など、実際に現場で活躍する方たちには一笑に付されるものではあるかもしれませんが、そう思ったことを言葉として残そう、自分の中で消化するためのキッカケを作ろうと思ったので、この記事を書きました。

ここ数年で、僕はようやく感想を並列して持つことが、少しばかり出来るようになってきました。

列挙した疑問点などは、実際に視聴中に浮かべたものです。ですが、それと同時に、僕はこの映像体験が得難いものであるとも考えていました。とても良いと、同時に思っていました。それは決して矛盾しません。

理由や納得とは程遠いところで、僕は『境界の彼方』が持つ「ちから」を感じました。

感性を揺さぶられ、琴線に触れました。エモーショナルな映像体験に理由はいりません。「虚ろな影」に蝕まれる神原秋人が、自分を刺すように栗山未来を駆り立てるあのシーンの強さに理由はいりません。自らが消えても神原秋人を救いたいという、「境界の彼方」を殺すためだけに長月市へとやってきた当初の理由を捨ててまで、彼のためだけを考える栗山未来の強い想いに不感症などではいられません。ようやく取り戻したと思った栗山未来が、掴む間も無く消えてしまう展開に説得力などいりません。それらを越えた場所にあるこの作品が、本当に好きだと感じたのです。だからこそ、それをもっと、すんなりと受け入れられる展開として用意して欲しいと思ったのです。余計な疑問を抱く暇も無いくらいに仕上げてほしいと思ったのです。

と、僕が『境界の彼方』を観て感じたことは、以上です。

 

さて、散々フルネームで記述し、愛着の欠片も持っていないような扱いをした栗山未来ちゃんですが、この子がヒロインだったからこそ、僕は『境界の彼方』が無二の作品であると感じたとは思っています。

あの可愛い生き物は何なのかと、視聴中に数知れないくらい思いました。あの可愛い生き物は何なのでしょう。どこまで可愛ければ気が済むのでしょう。どうしてアニメ塗りなのにあんなにふわふわもふもふしているように見えるのでしょう。不思議です。理由を確かめるためにサンクトペテルブルグへと取材班が向かうレベルです。

あと、眼鏡に対する作画のこだわりが尋常じゃ無かったですね。眼鏡のリムやテンプルって省略するのが一般的なんだと思っていましたが、一切省略されないあの赤ブチ眼鏡には並々ならない執念が感じられました。眼鏡キャラの表情は、省略しない眼鏡のパーツも含めてのものだろう、と言われているような錯覚さえ覚えました。

画面作り、という点にはおいてのこだわりもすごかったです。画面が常に、何かしらの色を重ねたような色合いになっているんですよね。恐らくそこには何らかの意味合い(色によって登場人物たちの感情を表すような意図など、でしょうか)があるのでしょうが、残念ながら僕の頭では「そうなのでは?」という程度にしか読み取れなかったので、まだまだ研鑽が足りないなと思う次第です。

散々書き殴って、少しずつ消化出来始めているのでは、と思えるようにはなりました。もちろん感想を書き殴る程度で消化など出来るわけが無いので、何らかの形で、この思いを払拭し、糧にしていこうとは考えています。どんな形になるのかは未定ですなのが。

絶賛放送中の『響け!ユーフォニアム2』はサイコーのアニメとして続いてくれていますが、僕としては『境界の彼方』と同じくKAエスマ文庫発である『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のアニメ化がとても楽しみです。

続報を待ちたいですね。上巻を買ったので、下巻が出る前には読み終えなければ……。

 

以上です。

僕の好きな小説を紹介します。

オススメ

ブログを書いた!やった!という気持ちに包まれているときが一番危ないと思います。

以前からブログを書こうという思いはあったものの、いざ実行に移す気力には恵まれず、その低迷状態を克服し、ようやく実行に移した達成感はひとしおです。僕はやれば出来るんだ!この低迷状態に勝った!気力に満ち溢れた生活が、この先には広がっているんだ!という思いが、実際にどんな状況を招くのかは予測が容易です。

一応は、このブログを放置したくは無いという思いがあります。人間というのは単純な生き物で、どんなことでも無理矢理ルーチンにしてしまえばある程度は継続出来ます。僕はiPhoneを使っているのですが、5Sの電池保ちが異常に悪くなったのを契機に6Sに機種変更しました。そこでケータイ屋さんのおねいさんに「こちらのサイト、とりあえず1ヶ月は使ってみてください。規則ですので……」的なことを言われて月額制の動画見放題サイトに登録させられたのですが、そこでアニメを観始めた僕には「アニメを観る」という習慣が出来ました。別のアニメ見放題サイトに自ら登録し、それなりの頻度でアニメを観続け、現在に至ります。要するに、そういうことです。「それをしていないと気分の据わりが悪い」みたいな状態に自分を持っていくことが大事なのだと思います。継続は力なり、なんて敢えて言葉にする必要も無いんですけど。

 

さて、前回書いた初めての記事では、僕のパーソナリティにはほとんど触れずにいきなり作品の感想を書くなどという見切り発車をしてしまいました。

作品の感想は、感想を書いた人間の主観やパーソナリティに密着しています。その人間が普段何を嗜好し、何に心動かされ、どんな要素に心躍るのかがわかっていなければ、他者へ示す意義が全くと言って良いほど存在しないと思います。まぁ、それを感想に落とし込んで提示するのが感想の本来の在り方だと思うのですが、これからこのブログに色々な作品の感想を書いていく上で、僕が普段どんな小説を読み、どんな要素に心動かされるのか、くらいは予め示しておくことがフェアなんじゃないかなと思ったので、この記事を書くことにしました。あと、好きな本は他者にオススメしたいものですよね。自分の中でぼんやりしている感想を明確にしておきたいという意図もあります。

と言うわけで、僕の特にお気に入りの本を数冊ここに記しておきたいと思います。

 

ガーデン・ロスト

『眠れない夜を生きる少女たちの失花園』

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

 

僕が好きな小説を語る上で、この小説は外せない1冊です。

僕はあまり読書歴が長くありません。読んだ冊数も人並みか、それ以下くらいで、幅広く色々なジャンルに手を伸ばす好奇心とも縁遠い人間です。

そんな僕が、小説を嗜むようになった直後くらいに読んだのがこの『ガーデン・ロスト』です。

紅玉いづき先生は僕が敬愛する作家の一人なのですが、先生の作品との出会いは、確か『19』というメディアワークス文庫から出版されたアンソロジーの一編、『2Bの黒髪』だったと記憶しています。

初めて読んだ時は衝撃を受けました。独特の美しい言語感覚、自分の呼吸のタイミングと全く違うタイミングで打たれる読点たち、主人公を追い込む、彼女にとっての容赦の無さ。大学受験に失敗して一浪した女の子が抱える色々な感情が濁流のように押し寄せてくるあの作品を読んだ時に、僕は他の作家の短編を読むのをやめて『ガーデン・ロスト』を何としても購入する意欲に包まれていたような覚えがあります。

僕はあらすじ生成マシーンではないので、内容に関してはそこそこに留めますが、『ガーデン・ロスト』は4人の女の子がそれぞれ春夏秋冬に割り当てられた4章の内、1章ずつを担当する連作短編小説です。時系列は繋がっていますが、女の子たちはそれぞれに問題を抱えていますので、基本的には1章で完結します(女の子たちの人物描写、性格などはある程度、順を追って示されますので、例えばいきなり2章から読む、というのはあまり推奨されません)。

僕は4章で視点を持つ女の子、シバが大好きです。

シバは毒舌家で、愛想もお世辞にも良くはなく、精神がすぐ体調に影響を及ぼすような不安定な女の子です。そんな彼女が、母親からの圧力に耐えながら泥沼で藻掻くように大学受験に備えるのが4章、表題作の『ガーデン・ロスト』です。

僕は、センター試験を受けたことがありません。それに伴う受験勉強に高校3年生の貴重な青春を費やしたこともありません(大学は自己推薦で合格しました)。

ですが、彼女が苦しむ様は、僕の中に共感出来るものが無くとも、強烈な痛みを僕に与えました。シバは孤独です。受験勉強に限らず、そういった限られた枠を、高望みして得ようと手を伸ばす戦いは、往々にして、他者と競い合っているにも関わらず、他者とは無縁です。シバは不器用な女の子です。他者に優しくする術を知らず、他者から優しくされる術も知りません。彼女は受験勉強に身も心も磨り減らされる日々の中で、僅かに持った居場所や拠り所さえ失っていきます。

僕は気高い女の子が大好きです。3章までで示されていた他者視点でのシバからは読み取れなかったそれが、彼女の視点に入った途端に、強烈に感じられました。

シバは気高い女の子です。そして、とても脆い。そのアンバランスさが美しいと思いました。だから僕は4章、表題作『ガーデン・ロスト』が好きです。彼女が孤独な戦いの末に何を失い、何を手に入れるのか。その行く末を、是非見て欲しいと思います。

と、4章にピックアップして紹介しましたが、1~3章ももちろん大好きです。

特に、2章『チョコレートブラッド』のラストは必見です。

 

 

花咲けるエリアルフォース

『桜は舞い散り、少年と少女は戦空を生きる』

花咲けるエリアルフォース (ガガガ文庫)

花咲けるエリアルフォース (ガガガ文庫)

 

最近はめっきりと読まなくなってしまったのですが、杉井光先生の作品を、数年前までは割と追っていました。

とは言っても、それほど熱心に既刊を集めていたわけではないので、先生の膨大な作品の中でも僕の本棚に収まっているのはほんの一部です。『さよならピアノソナタ』や『神様のメモ帳』と『生徒会探偵キリカ』を途中まで、後は『終わる世界のアルバム』と、今回紹介する『花咲けるエリアルフォース』です。

今作は先生の作品の中でも、強烈な痛みを伴った物語だったと思います。

分断された日本、東西に分かれた同じ民族による両国の戦争、投入される超兵器とその適合者である少年少女。成人前の彼ら、彼女らを適合者だからと戦争に投入せざるを得ない大人たちの思惑。そんな彼ら、彼女らを待ち受ける過酷な運命。

僕は『新世紀エヴァンゲリオン』を観て育った世代なので(正確には本放送で観ていたわけではないので、世代で言えばもう少し後になります)、この要素を取り出しただけで、初読から数年経った今でも背筋がゾクゾクする感覚があります。

杉井光先生と言えば、僕の中では『さよならピアノソナタ』の印象が強烈なので、青春小説を書く作家というイメージが強かったです。そんな先生がガガガ文庫で(僕は当時からガガガ文庫というレーベルに特別な思い入れがありました)、今までのイメージとはがらりと変わった小説を書くと知った時には大変驚いた記憶があります。

読んで、更に驚きました。

基本的には学園を舞台にして、先生特有のスターシステム的なキャラ配置は健在のまま、扱われている題材や迎える展開が、もっと読書経験の少なかった僕に強烈な印象とダメージを与えました。

題材については、賛否があると思われます。あとがきに先生自ら「ある意味では、これまで僕が書いてきた中で最も危険な物語でもあります。」と書かれている通り、受け入れがたいと思う方もいらっしゃると思いますが、僕はとても良く作用していると思いましたし、良いと思いました。

しかしこの作品、当時のガ報(ガガガ文庫の折り込みチラシ)や公式サイトで続刊がアナウンスされていたのに、突如としてそれが消え、以降音沙汰が無い未完の作品でもあります。十中八九続刊は出ないものと思われますが、単巻完結としても読める小説ですので、気になった方は是非読んでみてください。

 

 

塩の街 wish on my precious

『塩が世界を埋め尽くす塩害の時代。崩壊寸前の東京で暮らす男と少女に、運命が刻一刻と迫り来る』

塩の街―wish on my precious (電撃文庫)

塩の街―wish on my precious (電撃文庫)

 

僕の原点の1冊です。

有川浩先生と言えば、今や一般文芸で活躍するドラマ化作品も多数持った有名作家の一人ですが、電撃ゲーム大賞から世に出た作家である事実を知らないひとは結構いるのかもしれません。いや、僕も詳しい世間の認識を知っているわけではないのですが……。

ともあれ、僕が先生の名前を知った時には『図書館戦争シリーズ』も終わって本格的にメディアワークスから他の出版社に移行し始めた過渡期だったような記憶があります。そちらの本はほとんど読んでいません。僕は俗に言う『自衛隊三部作』と『図書館戦争シリーズ』が好きなのです。『阪急電車』と『植物図鑑』あたりは読んだ覚えがありますが、そちらについては割愛します。

さて、『塩の街』ですが、世に出回っているこの本には2種類のバージョンがあります。

電撃文庫版と、角川文庫版です(正確にはメディアワークスの単行本もありますが、文庫版が出た以上は無視しても構わないでしょう)。

僕は角川文庫版をオススメしません。こちらは電撃文庫版から一部内容を変更した改稿版であり、その後のお話も書かれた加筆版でもあります。「え、加筆版ならそっちの方がお得なんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、加筆部分より重要なのは一部内容を変更した改稿箇所です。

クライマックスシーンが丸々切り落とされているんですよね。

元々、有川先生の思惑としては、クライマックスシーンは不要とのことで、応募作の段階でも書かれてはいなかったと、確か単行本のあとがきに書かれていたのをぼんやり覚えています。それを、ライトノベルとして刊行するからにはクライマックスシーンが必要不可欠との要望があって書き足した、というような経緯があったはずで、一般文芸として売り出す角川文庫版ではそれをカットした、というような経緯があったはずです。うろ覚えですみません。生憎単行本はちょっと迂闊に取り出せないスペースに収納してしまったので確認もままなりません、本当にすみません……。

と、まぁ要するにそのクライマックスシーンがラストに作用した電撃文庫版が、僕は好きなのです。

塩害による終わった世界の中で、血の繋がりも関係性も無かった男と少女が一つ屋根の下で共同生活し、その中で、二人は様々な人間と関わります。その関わりの一つ一つが、ドラマチックだったり、どうしようも無かったり、他人だから、では済まないような痛みを伴って、二人の関係を変えてゆきます。もちろん二人には、世界が終わる前の生活や立場もあります。

そんな二人が迎えたラストが、僕はとても好きです。

なんかネタバレを避けた結果すごくふわふわした文章になってしまいましたが、間違い無いので是非読んでみてください。電撃文庫版を探すのは少し難しいと思いますが、是非そちらを読んでほしい所存です。

 

と、結構な文量を書いたような気がするのですが、3冊しかオススメ出来ませんでした。

もっと色々な本を紹介したかったのですが、あまり一気に書いてもアレですし、また別の機会に他の小説の紹介記事を書くことにします。

今回紹介した小説たちは、僕の読書経験がもっと浅いときに読んで衝撃を受けた、割と僕の深い部分に根ざした、ルーツとも呼べる小説たちです。

紹介文に頻繁に『痛み』と書いた通り、僕は『痛み』を伴う物語が好きです。

読書に対する姿勢はひとによって様々です。僕は特に、温く平凡な物語をあまり好まないような傾向があると自覚しています(もちろん、それが全てではありません)。せっかく読むからには、僕の気持ちを抉りに来てほしい。それは結末、大別すればハッピーエンドやバッドエンドに関係しません。幸せな終わり方をしてくれるに越したことは無いですが、そうである必要は無いと考えます。

胸が苦しくなるような読書体験を得たいですね。あと、驚きも必須だと思います。

と、ライトノベルばかりになってしまいましたが、ライトノベルを読まない層にもオススメ出来る読み応えのある小説ばかりですので、是非是非、興味を持って頂けると嬉しい気持ちです。

 

以上です。

 

『君の名は。』の2回目を観てきました。

感想

読んだ本や、観た映像作品の感想を残す場所が欲しいと思い、ブログを開設しました。

八神きみどりです。

ブログというツールは随分昔から都度開設しては飽き、都度開設しては飽きと、全然長続きしない思い出しか無いですが、「更新しよう!」という情熱を抱くこと無く、書きたいと思った時に書くことで適切な距離感を見出していきたいと思っています。と、ここまで書いて、その考え方もまた、適切な距離感を見失う要因なのではないかと思いました。難しい問題です。ともあれ、書きたいことがある時に書きたいと思います。「そりゃそうだ」と思われるかもしれないですが、僕もそう思います。

 

初めての記事が2回目を観に行った映画の感想というのも我ながらどうかと思います。

ここ最近は本を読んだり映画を観たりアニメを観たりと、意識的にインプットを増やしているので感想を書く作品には事欠かないはずなのですが、まずは直前に観た、自分の中で一番鮮度の良い作品について書くのが良いのでは無いかと思います。別の作品については機会と情熱があれば書くことにします。

 

 

――――以下、『君の名は。』のネタバレと個人的感想を大いに含みます。――――

 

 

さて、『君の名は。』。この映画を初めて観たのは1ヶ月前くらい(公開から1ヶ月経ったくらいの頃合い)なのですが、その時の僕には、出来不出来とは関係無いところで、この映画がもの凄く冗長な映画に感じられました。

と言うのも、開始20分くらいから尿意を我慢していたのです。

その日は公開2日目の『聲の形』と、『君の名は。』をハシゴする予定で映画館にやって来ていて、先に『聲の形』を観てから、ある程度時間を空けて『君の名は。』に挑むスケジュールを立てていました。間に軽食屋でコーヒーを飲んでパフェを食べたのが良くなかったことは言うまでも無いことです。僕は自他共に認めるカフェイン中毒者なのですが、カフェインを摂ると異常にお手洗いが近くなり(物理的な距離の話では無いです)、「まぁ冷コー1杯くらいなら……」という安易な考えがその後の僕を大いに苦しめることになるのですが……、後述します。

僕は新海監督の創る映画が好きです。

一番好きな作品……と言うと個人的には難しい話になりますが、『雲のむこう、約束の場所』が、作品の雰囲気としては一番好きです。『秒速5センチメートル』も好きです。特に第2話の『コスモナウト』が気に入っています。『言の葉の庭』は3回観て3回泣きました。この感覚については周囲の反応を窺ってみると、あまり一般的な感覚では無いようなので、個人的にもの凄く突き刺さるものがあった、という感じがします。『ほしのこえ』と『星を追う子ども』については、一応は観ましたが、語る言葉を持たないので割愛します。

と、まぁそれなりに過去作を嗜んだ状態で『君の名は。』に挑みました。

多くの方が仰っている通り、良い意味で「らしくない」映画だったと思います。

新海誠作品の共通点は、「此の場所」に違和感や焦燥感を抱く少年が、「彼の場所」に去ってしまう少女と出会った後、離れゆく物理的/精神的距離を独特の、湿度(雨や雪、梅雨の季節感など)を伴いながらも透明感のある空気感で描かれた作品群であると個人的には考えています。あとはモノローグですね。ある種文学的で内向的な、ポエミックなモノローグは新海誠作品に欠かせない要素だと僕は考えます。思春期の少年少女が普遍的に抱くであろう、出所のわからない「『此の場所』への違和感や焦燥感」。どこか違う場所を渇望しながらも湧き上がる衝動を御せずに、その思いがやや抽象的ながら視聴者が感覚的に理解出来る範囲で示されるあの無常感というか、やるせなさみたいなものが好きです。成人した彼らのモノローグには多大な諦観や後悔が滲んでいます。恐らくこれも、誰もが抱くであろう「自分は望んで此処に来たはずでは無い」という思いが、理解出来、共感出来る範囲で示されます。わかります。僕は望んで此処に来たはずでは無い……。

僕の後悔は置いておくとして、監督の意図とは無縁に、『秒速5センチメートル』ではそれが強い攻撃力を伴って示されていたと僕は感じました。『言の葉の庭』は、その先を再生した物語だと感じました。であるなら、『君の名は。』はどちらに振るのか、という興味がまず、僕の中にはありました。

残念ながら、『君の名は。』については、真っ新な状態で作品に挑むことが出来ませんでした。致命的なネタバレはゆるゆる避けつつも、ある程度前評判を知った状態で作品に挑みました。

新海監督が、エンタメとして優れた作品を創ったらしいぞ、と。

実際初めて観たときに、例の印象的なモノローグから始まり、ほとんど実写映像と言っても差し支えの無い中央総武線のホームに滑り込む電車視点で描いた映像を観たときは「いつもの新海監督だ」と思いましたが、オープニング映像が終わった後に用意された非常にコミカルな展開を見せ付けられた時は「マジか」と思いました。「やるじゃん」とも思いました。消費者なので上から目線でも問題がありません。いえ、本当に驚いたのです。前評判を聞いていても尚。

と、そこから『前前前夜』が流れるダイジェストまでは普通に観ていました。

ですが、気付くのです。

あれ、直前にお手洗いに行ったはずなのに、お手洗いに行きたいぞ……? と。

そこからはもう戦いです。自分との戦いなのです。映画を楽しみながらも、この尿意とどこで折り合いをつけるか、その妥協点を探るための負け戦です。

結論から言ってしまえば、僕はそれから80分、耐え切りました。耐え切ったのです。タイトルバックが表示され、エンドロールが流れ始めて『なんでもないや』が流れているのも気にせず余韻に浸った同じ列の観客たちの余韻をぶち壊すことも躊躇わずに「すみません……すみません……」と譫言のように繰り返しながら劇場を飛び出しました。行く先は決まっています。お手洗いです。そこに辿り着く前に本当に負けてしまわないことだけを考えながら、僕は競歩みたいな速さでお手洗いを目指しました。当然ながら社会的な死を迎えることなく、僕は戦いには負けませんでした。

そんな精神状態の人間が、まともに映画を楽しめるはずがありません。

もうとにかく、後半の展開が焦らしすぎだと思いました。そりゃそう思うはずです。なぜなら僕はいち早くお手洗いに行かなければならないのです。途中で抜け出して戻ってくればいいのでは? と、お思いになるかもしれません。ですが、その間に決定的なシーンが流れない保証などどこにもありません。見慣れた映画ならいざ知らず、初めて観る映画では貧乏性……というと少し違うかもですが、それが勝ちます。僕は社会的な死を迎えたくはないですが、それと同じくらい途中が抜け落ちた映像体験を得たくは無いのです。全てのシーンが決定的なシーンです。これはわがままかもしれません。たった一杯のアイスコーヒーとチョコパフェに翻弄されることを知っていれば、僕はもっと堅実なメニューを注文していたかもしれません。何を言っても後の祭りです。

ともあれ、そういった経緯で2回目に挑みました。

感じたのは、思ったよりも尺が短いということでした。

シナリオ的に過不足はありません。あれ以上何を足しても蛇足にしかならず、何を減らすことも出来ない完璧に近いシナリオだったと思います。

あぁ、人間ここまで体調が違うと、こうも感じることが違うのだなぁと驚きました。当然です。皆さんも体調を万全にして映画に挑みましょう。

散々言い古されたことですが、間違いなく『君の名は。』は新海監督の新境地だったと思います。目に入ったインタビュー記事や又聞きの情報などを伺うとやはり制作は色々と大変なことが多かったとのことですが(特に、チームで作品を作り出すのに大変ではないことの方が少ないはずですが)、今作の成功に喜ぶ自分と、今までの新海節とでも言いましょうか、監督の持ち味をめためたにぶち込んだ作品が観れなくなるかもしれない一抹の寂しさを感じないでもないですが、ともかく、『君の名は。』にはとても満足出来ました。

 

映画のタイトルを記事タイトルにまで据えてこう言うのも変な話ですが、僕は『君の名は。』について語る言葉を多くは持ちません。

何を言っても蛇足になるからです。『リアリティ』について言及した発言は幾つか目にしました。見当外れ甚だしいと思います。『この作品』を構成する『この作品の中でのリアル』に『スクリーンのこちら側に居る我々の現実』を持ち込んで鋭く切り込んだ気になった戯言には批評性も、付随する価値も無いと僕は考えます。

同時に、『君の名は。』に関しては、作品要素の何か一つをピックアップして取り上げるべき作品では無いような気がします。大きな枠で言えば、映像は良いです。劇伴も良いです。キャラも演者も良いです。テーマも良いです。オチに関しては言うまでも無いです。

ですが、それぞれ一つ一つは決して独立していません。もう少しミクロな点ですが、話題になった口噛み酒に関しても、重要なギミックを持ったアイテムの一つです。

と言うわけで、『君の名は。』の2回目を観た僕の感想は「掛け値無く良かった」以外にありません。(言うまでも無いと前述したオチに要望が無いわけでも無いのですが、これは本当に個人的で作品とも無縁なものなので、胸に秘めておきます)

 

ここまで衝動的に書き殴って気付きました。

君の名は。』、全編を通して晴れていましたね。

それ一つを取っても新境地だったなぁと思いました。

 

あと、冒頭付近に出てきたユキちゃん先生みたいな演出は本当にサイコーだと思うので、ユキちゃん先生の今後の活躍も祈りたいと思います。

 

以上です。