Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/22(月)の気持ち

今日はしっかりとあれこれやっていきたいという気持ちがあったものの、起きたら行き付けのチェーンの定食屋のラストオーダーの時間が近づいていてやべぇやべぇと思いながらメシを食いに行って帰ってきたら日付が回るくらいの時間になってて、それからまったくやる気も湧かずにうだうだうだうだしていたところこんなような時間になってしまったので定時報告というか、ここにあれこれ書くようなことだけはしておこうと思った。生活破綻者なのでそういったリズムで生活している。多少は直さなければとは思っているが、日曜日(というか月曜日の午前中)のどのタイミングで寝るかに月曜日の全てが掛かっているので、まぁこんな結果になってしまったことからもわかる通り、生活リズムを完全にしくじってしまったワケだった。

起きた瞬間に由来するメンタルコントロールってめちゃくちゃ難しいですよね。別にテンション高く誰とも会わない休日を過ごすなんてことはここ数年殆ど無かったわけだけど(独りで勝手にテンション高いヤツがそもそもヤバイという話は置いておく)、起きた瞬間に感じる「あ、今日無理かも」とでも言うような、その決め付けがその日1日を完全に支配する感じが割と結構久しぶりで、まぁ起きた時間が時間だったし明日の(今日の)予定というかルーチンもあるわけだから今更今日を充実した1日にするなんてことも難しいわけだから、そういった諦念みたいなものも結構あるわけだけど、なんだろう、ここ数日熱心に本を読んでいたにも関わらず「本読むのもだるいわ」みたいなコンディションだったので流石に驚いたのだ。まぁ自分に鞭打って(鞭打つと言って良いのか微妙だが)新しい本開いて30ページくらい読むなどしたわけだが、これを「読書した」と呼んで良いものかはかなり微妙だ。割と気に入ってる方の作家の本なので結構面白そうだったし先は楽しみだ。基本的には開いた本はその日で読了してしまいたいとは思っているタチなのだが、まぁそういうこともある。ここ最近読んでた本は結構ヘヴィな本が多かったので、そのタチがあまり発揮されていなかったのも自分に甘くなっている原因だろうか。

やろうやろうと思っていた、ここ最近読んだ本の感想でも垂れ流しておくか。そうすることにしよう。

 

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

「このひとの薦める本は間違いが無い」というひとが数年前にオススメ……と言うか、名前を挙げていた本。アンナ・カヴァンの『氷』。知るひとぞ知る小説というか、なんかそういう界隈でカルト的な人気を誇っているような印象を持っているが、復刊された時に買うのを渋ったら(ちくま文庫高いんですよね)書店で新刊を見付けるのが割と難しいような状況になっていて(大型書店に行けば見付かると思うが)、そんな折に行き付けのブックオフに行ったらたまたま置いてあったので喜び勇んで買った。それももういつのことだか忘れたが(ここ1年以内の話だとは思うが)、部屋に転がってたこの本を、翻訳小説も読んでいかなければ、と思って引っ張り出してきて読んだのが先月、9/17の話だ。

某所に感想を載せたのだが、なんだろう、とにかくすげぇ小説だった。

アンナ・カヴァンという作家に特別詳しいわけではないのだが、ウィキペディアなどを見ればこの作家がどういう作家かは多少なりとも知ることが出来る。『氷』は彼女の晩年、と言うか亡くなる1年前に発表された小説だ。有名なのは彼女がヘロイン常用者だった、ということだろうか。たぶんそのエピソードと強く紐付けられて語られることもあるのだとは思うが、それはあまり鋭く無い読みではないかと、僕はこの小説を読みながら考えていた。

何がすごいって、描写がめちゃくちゃ繊細なんですよね。まずここでラリラリになったひとが書いた文章では無いと思った。でも、にも関わらず作中で起こっていることが全部嘘っぽい。めちゃくちゃ丁寧に組み立てられた記述から読み取れる全ての出来事が、語り手の脳内の中だけで起きている状況のようだと、僕は感じた。この辺は確かにラリラリっぽいが。それは登場人物に名前が無かったり(基本的には私と少女と長官という3人の人物が登場して、彼らは始まりから終わりまで固有の名前で呼ばれることが無い)、翻訳者だったか序文に寄稿したクリストファー・プリーストだったかが言及していた通りプロットが用意されずに書かれたかのような(あるいは用意されていたが、基本的な物語運びとは違った意図で組み立てられたのかもしれない)右往左往した物語運びに由縁するものだったり、タイトルにもある「氷」が一貫して作中では世界の終焉にまつわる重要なファクターとして登場しているにも関わらず、それに明確な説明が成されないということも関係しているのかもしれないし、主人公である「私」の言動が本当に脈絡が無かったり、それら全てが複雑に絡み合って、僕にそういう印象を抱かせた。本当に不思議な小説だった。

僕は基本的には綿密な作品が好きで、重厚なプロットを元にアップテンポに組み立てられためちゃくちゃ熱いクライマックスを迎える小説がドストライクに来やすいタチなんだけど、でもこの小説はめちゃくちゃ読後が良かったんですよ。それは真に迫る筆致だったり、状況だけ見れば本当にどうしようも無いのに、にも関わらずある種の爽やかさを伴ったあのラストシーンが大きな割合を占めるのはそうなんだけど、そのラストシーンに辿り着くためだけにこの小説を読むのをオススメしたいという気にさえなった。もちろんそのためだけにこの本を布教して回りたいかと言うと、そんなことは一切無い。正直途中は読むのがつらかった。し、納得が出来るラストでもないとは思う。綿密な小説がドストライクだけど別にそれだけがドストライクなわけではないので、これは読み手の好みにも大きく関わってくる話だとは思う。なので、プロットが明確ではない迷路のような小説に抵抗感が無い方は手に取ってみてほしい。唯一無二の読書体験を約束する。

ところで『氷』がちくま文庫から復刊される前に、サンリオSF文庫とかバジリコ?という出版社から出版されていたみたいで、まぁ絶版になって長らくこの本が手に入らない期間が続いていたようなのだが、僕は見付かるはずが無いそれらをまぁ思い出した時に探すようにしていたのだが、そのタイミングで単行本が出版された『アサイラム・ピース』という短編集が新刊で出ていたのを見付けたんだけど、それが2500円くらいだしハードカバーだしで買うの諦めたんですよね。読みたいのは『氷』だったし。で、今それ手に入れようとすると(具体的にはAmazonマケプレだが)倍以上の値段払わないと手に入らないみたいなんですよね。

……つくづくこういう本は新刊で見付けたタイミングで即買いしておかないと後々面倒なことになるのだなぁと思いました。『アサイラム・ピース』の新刊置いてある書店情報は随時募集しておりますのでよろしくお願い致します。

 

 

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 

みんな大好きチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』。

知り合いがこの小説の話をしてくれたのをずっと覚えていて、でもその時に「誤訳がひどすぎる」という話をされて、なら『ペルディート・ストリート・ステーション』から読むかなと思ってそちらを手に入れてから読み始めたもののあまりに読み進めるのが大変そうだったので、単巻で完結してるこちらからやはり読んでいこうと思って読み終えた。ゆうて500ページ越えてたが。

一応読む前に誤訳の件を軽く調べてみるなどした。するとAmazonのレビューにそういったことが書き連ねられていたものを発見した。が、他には見付からなかった。件のレビューも「誤訳がひどすぎる!」とは散々のように書いているものの、具体的にどういった箇所がどういう風に誤訳されていたのかは一切言及されていなかった。ネタバレに配慮してくれたのだろうか。自分のレビューの正当性をほったらかしにしてまでネタバレに配慮してくれるなんてまったく頭が下がる思いだが(実際問題ネタバレされるのは嫌だしね)、それを信じるべきか信じないべきか原書を読めないクソ雑魚英語力の僕には確認のしようが無いことなので、まぁ、という思いだ。思えば他のひとが書いたレビューに「原書で読めば面白いですよ」とかなんとかコメントしまくってたひともいたような覚えがある。訳者に親でも殺されたのだろうか。僕には窺い知れないことではあるのだが。

ともあれ、『都市と都市』。基本的には最初に起こる殺人事件を刑事の主人公が捜査していくというミステリや警察小説の体裁で進んでいくこの現代を舞台にした小説がなぜハヤカワSF文庫で出ているのか、という疑問は散々色々な方や巻末の解説で言及されていることではあるが、敢えて僕からも言わせて欲しい。これはれっきとしたSF小説だ。

この小説を他人に紹介する際に、この小説の舞台の説明をまず綿密に行わなければならないのだが、それはまぁ不可能だ。読んでくれとしか言えない。殺人事件が起こる冒頭から順を追って不親切ながらに説明されていくそれは、恐らくこの小説を読み進めることでしか理解出来ない。僕がここに「これこれこういうことで……」と早口オタクを披露して言葉を重ねたところで説明されるあなたはまったく飲み込むことが出来ないだろうことは簡単に予見出来る。それは購入を検討するためのあらすじを読んでも同じことが言える。正直この小説の舞台がどうなっているのかを、そこから正確に読み取ることは出来ない。その殺人事件を取り巻いている特異な状況、その異常性についても同じことが言える。

だが、どこかしらのタイミングで、その状況や異常性について、ストンと飲み込むことが出来るようになるはずだ。だいたい1章の後半くらいだろうか。残念ながらこの小説のレビューや感想を漁ると「意味がわからない」「納得が出来ない」など読解力が至らない方々の声がめちゃくちゃ出てくるので保証は出来かねるが、そうなってからは読むのが止まらなくなるはずだ。チャイナ・ミエヴィルという作家の脳内がどうなっているのか、その想像力や構築力に恐れおののいて読み進めましょう。

色々な方々が言及されている通り、と言うかそもそもミエヴィルはミステリ作家ではないのでその辺りに不満が無いかと言えばあるのだが、それはそれでこれはこれ。この作品を形作る上で絶対に欠かすことの出来ない『都市と都市』という舞台を想像し、構築し、カタチにしたそれを目にするだけでもこの本を読む絶対的な価値がある。

「ブリーチするとブリーチが現れてブリーチされる」

こうとしか説明の出来ない事象について、読んだ方と文脈を共有したいですね。

 

 

おいおい八神ィ、今更『ソラリス』かぁ!?と言われるのを承知でここに感想を書く。

僕は結構SF小説を読むんだけど、なんだろう、ラノベ作家進出以降のハヤカワJA作品は結構読んでるんだけど、こう、往年の名作というか、読んでおくべき古典というか、そういうのはからっきしなペラッペラな読書遍歴を持つニワカSF読みだ。クラークの『幼年期の終わり』とかホーガンの『星を継ぐもの』とかキイスの『アルジャーノンに花束を』だとか、たぶんそれくらいしか読んだことが無い。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』やハインラインの『夏への扉』、ギブスンの『ニューロマンサー』あたりは途中まで読んで投げた。なんだろう、古典の全てがそうだとは言わないんだけど、古くさい雰囲気が本当に苦手なんですよね(『ニューロマンサー』に関しては事情が異なるが)。特にこの前ヴァーリィの『逆行の夏』の表題作だけ読んだんですけど、あの60年代とか70年代SFの、銀色で、流線型で、とにかく宇宙を目指して、みたいな、当時のアメリカSF的というのだろうか、セピア色のフィルターを掛けて粗いフィルム映画のような絵面で想像されるそういう雰囲気がもうそれだけでダメなのだ。僕は食にしても作品摂取にしても食わず嫌いがめちゃくちゃひどいので、読んでみればまた変わるとは思うのだが、まぁ、徐々に改善していこうとは思っている。だってアシモフを1冊も読んでないなんてたぶんお外に出て大きな声で言えることじゃないと思うんですよね……。知らんけど……。

さて、先日KindleでハヤカワSFの半額セールがありましたね。よーしいっちょ小川一水先生の著作でもまとめ買いしますか!と思って開いたらハヤカワSFのセールなのだからハヤカワJAの作品が対象作に含まれているはずもなく、まぁでもハヤカワSFは文庫といえど結構値が張るし、ここらで5冊くらいまとめ買いしておきますか、ということで選んだ内の一作が今作、レムの『ソラリス』だった(前述した『逆行の夏』も一緒に買った)。

ブックオフの海外小説コーナーにて、いつも手に取っては戻す小説ってあるよね。だいたい僕は『ソラリス』とブラッドベリの『華氏451度』、イーガンの『祈りの海』や『ディアスポラ』あたりを手に取っては棚に戻すなどを繰り返してきたのだけど、ようやく買うことが出来たカタチだ。

SFマガジンか何かを立ち読みしたときに、年代別読者のオールタイムベストみたいなランキングを見たことがあって、その時40代以上(曖昧な記憶に依る情報なので間違っている可能性大)の読者から圧倒的な支持を受けていたのが『ソラリス』(あるいは『ソラリスの陽のもとに』)だった。ならば読んでみるに越したことは無い古典だろう、と思ったのがこの作品を知るキッカケだったわけだ。

いやぁ、すごい小説だった……(語彙力消失オタク並みの鳴き声)。

異星人とのファーストコンタクトものという事前知識はあったのだけど、ファーストコンタクトする相手が異星人かこれ!?というところにまず驚いた。それに関して並べ立てられる情報、情報、情報。巻末に訳者と作者両方の解説が載っていてその意図に関しては改めて僕が書くようなことでも無いのだが、その、なんだろう……。こう、漠然と思っているわけじゃないですか。ファーストコンタクトものに対する印象って。『幼年期の終わり』にしてもチャンの『あなたの人生の物語』にしても、コンタクトする相手って基本的には相互理解とまではいかなくても、コミュニケーションが成り立つ存在という前提がどうしても刷り込まれているわけじゃないですか。そうじゃないと小説というか、物語として成り立たないくらいなことは思っているわけじゃないですか。そういう思い込みを完全に破壊されました。し、それを60年近くも前に試みて、こうしてカタチにして、年代別のオールタイムベストに選ばれるくらい大勢に読まれて親しまれている、という状況に愕然としたよね。別に60年近くも前の小説なのだから、僕が義務教育受けてるときに読んだからって全然早いわけじゃないし、なんだろう、遅かれ早かれという問題でも無いんだけど。もっと早くに読みたかったと思ったよね……。大体往年の名作とか古典とかって読んだ後そういう印象抱きがちだよね。まぁ、僕は大概アホなガキだったので(今も大概アホだ)その時読んだからって血肉になっていたとは到底思えないけど。

コミュニケーションとはどういうことなのかについて結構考えさせられた。まだ噛み砕けていない部分は多々あるし、もう何度か要点に絞って読み返すなどしたいとは思っている。

ところでこの小説をラブロマンスとして消費している層なんて本当にいるんですかね。ソダーバーグだっけ。映画化の2作目はだいぶそういった方向に特化して映像化されてレムの機嫌を大変損ねたみたいなことが解説に書かれていたけど、そういった、商業的な戦略とは別の部分でこの作品をそういう風に見なしているひとがいるのなら、僕はそういうひとの話を結構真剣に聞いてみたいと結構真面目に思っている。

あとどうでも良いけど惑星ソラリスについての記述を読めば読むほどクトゥルフ神話のアザトースのことを考えてしまった。今アザトースのウィキペディア記事を読んで大概的外れな想像だったなと自戒しているが、なんかこう、白痴の神、みたいな想像をしてしまったんだよな。本当にどうでも良い話を繰り広げてしまったね。

 

 

クロニスタ 戦争人類学者 (ハヤカワ文庫JA)
 

みんな大好き『ハーモニー』以降について。

3作続けて翻訳小説について感想というか所感を書いて、まぁそれで終わらせても良かったんだけど、『ソラリス』について書いてたら興が乗ってきてしまったのでこの小説についても書いておく。

柴田勝家先生の小説は『ニルヤの島』を読んでいて、まぁ何かしら思ったことはあるんだとは思うけどその記憶は思ったより不鮮明でどういう終わり方した小説なのかあまりよく覚えていないんだけど、まぁ『伊藤計劃トリビュート』だね。それにこの小説の1章が丸々載せられていて、後に完結させてハヤカワ書房から出版されるということが書かれていたので、この小説は発刊されるのが結構楽しみだったと記憶している。発売されてから結構早い内に確保したはずだ。読むのが2年後になってしまったのは……、まぁ、愛嬌だ。愛嬌では無い。買った小説は読もう。

南十字星』というタイトルで『伊藤計劃トリビュート』に載っていた1章を読んで、僕は割と衝撃を受けたんだよね。伴名練先生と長谷敏司先生の作品とこの『南十字星』が特に気に入って、この作品が完結した暁には伊藤計劃にまつわる流れにある種の決着が付くのではないかとさえ思っていた。

『ハーモニー』世界以降の世界にて、『虐殺器官』に登場する虐殺の文法を、限定的な状況とはいえ方法論としてしっかり説明して登場させたことに衝撃を受けないはずがない、と言ったら大袈裟に聞こえるだろうか。

人間の「意識」に関する『ハーモニー』以降の流れというか、僕も大概読書歴が浅い内に『ハーモニー』を読んでしまってめちゃくちゃ感化されてしまってその流れを追おうみたいな感じになってあれこれ読んだりしたのだが、まぁあまり手応えを得られない読書体験をおくっていた。

結果的に言えば、物語作品として、『クロニスタ 戦争人類学者』は僕を満足させる小説足り得なかった。この感想が感想として正当かどうかは微妙なところだが、結局、故伊藤計劃に対する追悼小説だったな、というのが最後までこの小説を読んだ僕の所感だ。それは『屍者の帝国』で、円城塔先生が既にやったことだと、僕は思った。盟友である円城塔先生がやったことを改めて他の作家がすることに、たぶんその作家以外に働きかけるちからは無いように思った。まぁ初出が『伊藤計劃トリビュート』という、公式アンソロジーだ。ならば意義的に間違っているとも思えないと思い直したが、ともあれ、内容に関しても一辺倒な展開が立て続いたり、ページ数を稼ぐ以上の意図が読み取れないシーンが多かったりで、前述したような感じで終わってしまったので、もうちょっと頑張って欲しかったな……と思ったのがこの作品に対する感想だった。

ただ、「意識」に関する定義問題に関しては収穫があったと感じた。

言語的な思考やそれに由来した認知が生み出しているのが人間の意識であり、動物や昆虫がその脳内で繰り広げるものは人間が言語的に読み取れないものであるから意識とは定義づけられない。人間が定義づけられないものだから人間としての意識ではない(逆説的に、その脳内に生み出されているものは人間が定義づけられないだけで、決して意識ではないとは断定していない)。というような風に僕は読み取った。読み取りとして甘いということはあるだろうし、そもそも作中でこれが詭弁であることは示されているが、「意識が無い」という状態が、我々が共有する言語を由来とした意識活動の類に当てはまらない状態=我々が認識出来ないだけの状態=「意識が無い」わけでは無い、かもしれない。という可能性を提示してくれたのは面白いと感じた。意図的に作中システムを除外した読み取りなので筋が外れてしまっているかもしれないし自信が無いが、まぁ作中のヒユラミールちゃんの変化や変遷からしてそう見当外れな読みでは無いようにも思う。

WatchMeによって意識を無くしたトァンたちは、ただ我々の想像も付かない見地に到達しただけなのかもしれない。何もかもが自明の世界に葛藤は無いかもしれないが、彼女たちはそれでも意義を見出して生きているのかもしれない。想像もつかないけど、きっと素敵な感じなのかもしれない。僕にはわからないことだけど。

 

こんな感じだろうか。

結構時間を費やしてあれこれ書いてしまったが、たぶんこれを残しておくことは僕にとって意義のあることなので、また本読んで思うことがあったら書いていこうと思う。読む方々にとって意義のあることなのかはわからない。まぁ、あまり無いんじゃないかなとは思っているが。

2018 10/16(火)の気持ち

この場所に普段悶々と考えていることを出力し始めてから、なんかこう、精神の調子が良くなってきているように感じる。

別にそれが身長が10cm伸びたり恋人が出来たり宝くじの1等前後賞が当たって人生マジで変わりました!というような自意識や人生の転換が行われたということはこれっぽっちも無いが、なんとなくこう、思考の捌け口を手に入れたことで自らを安定させる術を身に付けられた、という感じがする。

僕が日々の中で起きる大概ちっぽけなことに都度蹴躓いて自分の状態を良くない方良くない方へと押しやっている、というようなことは以前のどこかの記事に書いた覚えがある。これでも数年前に比べて全然マシになってはきている、というようなことも書いた覚えがある。数年前の僕は本当に酷くて、おそとで起きた大概ちっぽけなアクシデントをわざわざおうちに持ち帰って、答えも出ないし解決もしないそれについて延々悶々と勝手に脳が思考し、本当に調子が悪くなる、というようなサイクルを結構な頻度で行っていた。それがどれだけ非効率的で不必要な行いであるかについては自覚的であったものの、脳が勝手にする思考を閉ざせるワケも無く、そういう性質だからと諦めていたし、その性質が実際良い創作意欲として出力されていた経験もある以上何とも言えないことではあるのだが、まぁどこかしらのタイミングで人間関係とか公共の場での振る舞いに対する考え方を改めるようなことがあったのだとは思うが、そうなってからはおうちの玄関をくぐれば大概のちっぽけなアクシデントに対するお気持ちなどは払われるようになり、こうして暢気にインターネットに思考を垂れ流すことでよりフラットな状態に移行することが出来るようになっている気がする。これに関しての賛否に関しては今考えている。負の感情でしか良質なクリエイティビティを発揮出来ない性質は是か非か。まぁ、フラットなお気持ちというのは実際精神の階層の中でも表面上のものでしか無いようにも思うので、また違う話なのかもしれないとか今考えているが。別にそういうこと考えても大概ロクでも無いとは思うのだけど、まぁ自分をコントロールするためには必要なことかもしれないとは考えている。別の機会に考えようとも思う。

 

さて、ブログの管理画面にある「記事の管理」とかいう項目を見ると、割と定期的な頻度で僕が新しい記事を書いていることが確認出来る。ここ3記事は週1のペースだ。この記事をアップロードすることでその周期は乱れるが、果たしてここに思考やお気持ちを垂れ流すことが自分にどのような作用をもたらしているのか、ということについて思いを馳せてしまったのだ。

長らく、本当に長らく使っているソーシャルネットワーキングサービスがあるのだが、最近それに対して色々な感情を抱くようになっている、ということに気付いた。

気に入った著名人の生活や思想を覗けるもの。好意的な感情を抱いている友人知人と気軽にやり取り出来る場所。それに当て嵌まらない例外もあるかと思うが、そこに、割と僕はここに書き殴っているようなクソデカ感情を気軽に持ち込んで垂れ流すなどをしていた。僕は基本的には他人からどう思われても構わないとは思っているが、自分のそういった意識はまぁ置いておくとはしても、それを垂れ流すことで見る相手に色々な感情を想起させてしまうかもしれない(どんなリスクもリスクとしては付きまとう。どんな可能性も基本的には僅かでも起き得るものとして存在する)、ということを考えたときに、そういったことはしないに越したことは無いんじゃないかという意識が芽生え始めたのが、割とここ最近のお気持ちの変化だ。

僕がクソデカ感情をそこに垂れ流すスタンスは、まず「基本的に僕の感情は他者に興味を湧かせない」というもの、「ゆえに誰も反応を返してこない」というもの、「ここは僕の感情の肥溜めだ」というものだ。かなり利己的で独善的なものとしてその場所を活用していた自覚はある。だが、基本的にその場所は情報を得に行く場所ではなく、情報が勝手に流れてくる場所だ。リスクの話は前述した。基本的にはその他者に興味はあるが、その他者の全てに興味があるわけではなく、その情報の中でも取り分け興味をそそるものがあるという理由で繋がりを得る、あるいは片方向的な読者となる、ということは別にそう珍しくない動機だろう。まぁ、端的に言ってしまえば、僕はその仕分け作業のノイズとして機能してしまっているんじゃないかと思ったのだ。僕がそもそもノイズとなってしまっているケースもあるだろう。まぁなら向こうからアクションしてくれるだろう、という向きもあるかもしれないが、そういう手間を掛けさせてしまうこともそれはそれで問題なのかもしれないとは思う。これはこれで自意識過剰な想定だ。僕は基本的に、自分が特定他者や不特定他者に対して正負どちらかの感情を抱かせる多少関わらないあらゆる意味で特別な存在である、と考えるのは傲慢だと考えている。「俺がいないと」だとか「私が皆の邪魔をしている」だとか、だ。正負どちらに関わらず自分が誰かしらにとって意味のある存在だと考えるその思考そのものが自意識という小さな檻に閉じ込められた、自分中心の世界の出来事しか捉えられていない視野の狭い発想だと、割と本気で信じている。皆そこまであんたに(あるいは僕に)興味無いよと思うのだ。べつにそこに限らず大概が狭いコミュニティの中でその内側に肥大した自意識を満たすためだけの振る舞いに一生懸命になってどうするのだ、と、思ってしまうのだよな(もちろんあらゆる場面でそう思っているわけではないが)。だから僕はあまり他者からどう思われるかに構わず振る舞っていた。誰も見ていないという前提、というか心構えは、まぁ簡単に用意出来る。そう振る舞うことも容易い。だが、基本的には衆人環視なのよな。だとしたらそれを想定した振る舞いを無意識に行ってしまう。誰だって自分を取り繕おうとするし、弱みは見せたくないと思っている。僕がどれだけそう思っていないような振る舞いに終始したところで、誰も見ていないと信じていたところで、誰かしらが見られる環境なら誰かしらは確実に見ているものだし、そもそもそういう場なのだから前提から破綻した態度なのよな、ということにようやく思い至った。そう思ってから、その場をここに移した。いや、移すように心掛けている。

誰も見ていないし誰も反応を返してはこない、とは思っているものの、そういった折に実際に反応が返ってくると本当に困る、というのもある。それが気軽に出来る場所なのだからそういう想定はそもそもしておくべきものなのだが、まぁ、基本的に思考リソースって限られてるし、僕はそのリソースが随分手狭だと認識しているということもあるので、まぁ反応が返ってこないと思っているものに返ってくる反応に対してまで考えを回して行動することはとても難しい。実際それが出来るんだったらなぜそんなに迂遠なことをしているのか問い詰めたくなる。まぁ、それが実際僕の精神に負荷を掛けるような本末転倒なことにも容易になり得るということも、理由としては挙がるのだろうか。まぁ、他人のせいにしたいんだろう。それが一番楽だし、自分に正当性を与えられる簡単な方法であることは言うまでもない。

 

で、実際にここに気持ちを書くようになって、その身軽さに本当に驚いている。

実際、ここ数日定期的にひとは訪れているが、誰が訪れているのかは本当にわからない。僕の知人友人かもしれないし、まったく関係無い赤の他人かもしれない。僕はここに僕のお気持ちを書いていることを、基本的には誰にも知らせていない。一応は公開ブログだし、外に対して開けた場所ではあるのだが、こんな誰かもわからんしヤバイやつかもしれない輩が自分の思考や感情の整理してますよ~なんて書き殴った記事を好きこのんで探し当ててやってくるやつがいるとは到底思えない。まぁ僕がどっかしらに公開した小説を読んで僕自身に興味を抱いて頂けたり(可能性の一つとして挙げているだけです)、話題になっているものに触れた記事を書いたりもしたので、それ経由でやってきて「このひと他に何書いているんだろう~」とか思って最新記事開いてこんなの読まされたひとには本当に謝りたい。僕は僕の書きたいことを書いてるだけなのであなたを満足させることが目的じゃないんですよ、とは再三書いておくべきなのかもしれないし、ブログあらすじみたいなあのブログ名の下に書いてあるやつも更新するべきかもしれない。まぁ、ブログという媒体の特性上、その記事を読んでどういう感情を抱いたって記事を開いて読もうと思ったあなたのワンクリックという能動的な行動が招いた結果なので自己責任ですよ、としか本心では思っていないが、そうは言ったって自分が過去に自分の意思で開いて読もうと思って読んだもので悪感情浮かべさせられて憤った経験が無いとは言えないので、まぁ……、という感じだ。ごめんなさいね、本当に。

 

自分がこの場所に感情や思考を垂れ流すサイクルを把握しておきたかった。

把握したそれが理由として挙がるかはさておき、幸いにも創作意欲は高まり続けている。創作意欲の高まりが創作行為に直結しない性質ではあるので、その組み立てを未だ脳の外には移せてはいないし、だからダメなんだとは自分でもほとほと思っていることだが、まぁ良い言い方をすれば頃合いを見計らっているのだ。前回の記事で言語化することについて触れた。これは本当に気を遣っていることなのだが、しっかり作ろうと思っている創作物を闇雲に言語化してしまうのは本当に危ういと思っている。早々な方向性のキメ打ちで難産したり早産してしまった経験が多いからそう思うのかもしれない。先日僕の敬愛する先生が「小説を書くのは(好きで)気安いことだと思っている」と仰っていて、それは決して大変ではないということではないとも仰っていたのだけれど、そう思えるようになりたいなぁと切に思った。人間って身体能力は別にしても、自分の限界って案外伸ばせるものだと思っていて、真剣に試みてもいないことに対して「出来ない」の烙印を押して諦めるのは本当に愚かな諦念だと僕は思っているのだけど、だとしたら出来るのは、するべきは、黙って真剣に試みていくことだけなんだよなぁ、というのもわかっていることなんだけどね。気安く出来たらなぁって、本当に思うんだよ。だって失敗するのって本当に怖いじゃんね。失敗を前提に考えたくはないし、失敗したから小説を二度と書けなくなる、というわけでもないけれど、それがもたらす本震と余震は本当に大きい。それは今の僕が身を以て体現していることなので、余計にそう思うんだよね。

小説を書くことが好きか、嫌いか、ね。『ガーデン・ロスト』の三章『echo』でオズに対してエイ兄が言うじゃん。「(ベースが好きか嫌いかなんて)考えたことねぇよ」って。もう初読から7年8年も経っているし、僕って読んだ小説の台詞とか一文とか本当に印象に残らない薄情な読者なんだけど、この一文だけ(『ガーデン・ロスト』に関してはこれ“だけ”では無いのだが)はずっと、ずっとずっとこころに残っている。いや、普通は考えるでしょ、とは思うのだ。創作物における登場人物特有の飛躍した思考や、それに類するある種超人の域にあるものだとは思っている。でも、そう在れたらどれだけしあわせか、とも思うのだ。好きか嫌いかを考える必要も無くただそれだけにひたすら真摯に向きあえたらどれだけしあわせか。

僕にはもうわからない。小説を書くことが好きか嫌いかの二元論なんかでは到底語れない。ただ、これしか無いとは思っている。僕が出来るのは、本当にこれしか無いと、書けない期間が続けば続くほどその期間に反比例するようにそう思えてきて仕方が無い。なんたる皮肉かと、自分でも笑ってしまう。書けていないのにこれしか無いとはどんな冗談なのか。でも、本当にそう思うのだ。好きか嫌いか、無理矢理どちらかに当て嵌めるなら当然好きだ。でも、あんなに苦しい思いをして書いて、誰かに読んで貰うために書いているのに苦しすぎて書けなくなって、誰にも読まれることなくハードディスクの中で眠ってる未完のあの小説やこの小説、脳の中で未だカタチにならないこの小説未満を産み出すことが本当に「好き」とか「嫌い」とかで片付けて良いのかは、本当に、本当にわからない。

書くつもりなど無かった気持ちを書いてしまって、若干自己嫌悪に陥っている。でも書かなければいけないことだと思ったので、消さずに残して公開しようと思う。綺麗事を言っているなとも思う。他者に対して何らか働きかけるように書いているなとますます自己嫌悪に陥る。僕は創作物における登場人物ではない。だから文面に起こしていない場所に打算や計算は存在するだろう。それが嫌だよね。せめて、創る物語の中にはそういったものを持ち込まないようにはしたい。物語にだけは誠意ある態度を心掛けたいと思う。願わくば早産してしまわないように。

 

また性懲りも無く5000字も書いてしまった。こういう記事を書くことで、感情や思考を消費することで創作意欲の妨げになるようだったら、こういうことはもうやめようとは思っている。

現状は上手く働いているような気もする。わからないけど。何事も試していくべきだとは思う。それが創作行為であれば最良、なんだけどねぇ……。

2018 10/15(月)の気持ち

今日は久しぶりに友人と小説の話をした。小説をまた書き始めようと思ってから初めて、小説に関して有意義な話が出来たと実感した。僕が温めてるネタについてまだまだ掘り下げが出来ていない状態なので、それについて突っ込んだことが相談出来なかったことだけが無念という感じだったが、別にいつでも話せる友人なのでまた相談に乗って貰おうと自分勝手にも思っている。

何にせよネタを温めてカタチにしていかなければ相談に乗ってもらうことも出来ないので、そうしていこうと思っている。得た創作意欲を無駄にしないためにも頭を働かせていかなきゃならないよな。もちろん話を聞いてもらうだけなのは不釣り合いなので、友人の相談にも全力で応えていきたいとは思っているが、教養が無いので的を射たことを言えるかが心配だ。その友人に限らず、友人たちの話をどう聞けば良いか、というのは都度考えることだが、肩肘張らずに背中を押してあげる、というだけでも違うものなのかもしれないとも思う。難しい話だし、答えが出ない話だとも思う。もっと考えていきたい。(持ちつ持たれつ、という価値観が過ぎているような自覚は多少はある。やってもらったことは必ず同等以上のことで返さなければならない、と、半ば義務的以上の感覚で思ってしまっているようにも感じるが、この価値観が既に肩肘張りすぎているもののようにも感じる。たぶん、自分が誰かにとって必要な存在にはなり得ない、という強すぎる劣等感がまず根底にある気がしている。もちろんそれは一側面的なものでしかないので、必ずしもそういった価値観のみで行動しているわけでは無いのだろうが……。人間は矛盾を容易に孕めるので、平気な顔で二枚舌しながらそれでも自分は正しいと思って生きていける愉快な生き物であるからして……、全然関係無い方向に話が逸れだしたのでこの話はこの辺にしておこうと思う)

 

先日、労働をしている最中に革命的な閃きを得た。今までずっと書きたいものの外枠は揃い始めてるけど肝心の核が見当たらない状況が続いていて、その核を埋める手助けになる閃きだったのだが、友人に相談しようと思って言葉にした途端に(え、思い付いたときは革命的だと思ったけどこれ、まだまだ全然足りなくない!?)と気付いてしまったので、革命的という言葉を気分で使うのは良くないということを学んだ。まぁオタク特有の誇大表現はともかく、方向性が定まったことは事実なのだが、「こういう話にしたいんスわぁ~」と伝えただけで伝えられるものがあるなら苦労はしないので、その方向性に適した肉付けをしていく必要を切に感じた。まぁ、ずっと悩んでいたことなのだ。それの一部とはいえ答えを導き出せたのは純粋に先に進むための、大小関わらず確かな一歩に違いないので、別に卑屈になる必要はないとは思っているが。ともあれ、言葉(音にせよ文字にせよ)にすることで気付くことは多い。大概僕は、脳の中で保管しているその言葉未満の情報が、言葉として出力することで存外情報量を持っていなくて驚くことが多い。言葉にする、ということは、誰かしらにそれを伝える必要があってそうしているということじゃんね。ということは、それが誰かに伝える情報として足りないということは、転じてみれば自分の中でその情報がその言葉以上の意味合いを持っているということもあるのかもしれない。希望的観測だが。さっき(全然足りなくない!?)とかゆうてたやろが。うん。

あまり積極的に友人知人に自分のアイデアをプレゼンするという機会に恵まれていたわけではないので(単純に苦手意識を持っているだけかもしれないが)、その辺りの技術がまだまだ稚拙というのはあるだろう。誰かに伝えられる情報まで昇華出来れば、それは情報として確かな意義を持っているように感じる。もちろんそれが面白いか、つまらないか、という判断基準は存在するが、それはアイデアそのものに依存した話になるので今は置いておく。ともあれ、他者が判断出来るまで固められた情報には、何にせよ意図が込められているはずだと思っている。それはそれで一つの判断基準になるはずだ。要するに、自分の中で作品として出力出来る状態になっているかどうか、ということじゃないだろうか。

先日、SF作家の大御所の先生たちが「冷静に考えて書けなくなる場面でもないのに、次の一文が出てこないという現象が度々起きる」という話をされていた。なるほどこれは僕にも心当たりがあるぞ、と思った。まぁそれはだいぶミクロな話ではあるのだが、前述した僕の判断基準に通じるものがあるのかもしれないと、今ふとそれを思い出して思ったのだ。僕は別段妄想ぢからに得意意識がある書き手では無いとは思っているが、まぁ僕の話は置いておくとしても、「冷静に考えて書けなくなる場面ではない場面」というのは、おおよそどこかしら、それ以前や今書いているその場面に欠けているものがある状態なのではないかということは、大御所の先生が指摘されていたことだ。その通りだと、僕も心中で同意した。一文でそうなのだから、大枠ならもっと大袈裟な話になるはずだとも思った。こう、確かにスイッチみたいなものが存在する気がしている。「これは書けない」時と、「これは書ける」時が。それは客観的に見てあまり納得を得られる状況ではないのだが、自分の中でそうとしか言えない(「これは書ける」、あるいは「これは書けない」)状態は、他の書き手の方にも同意してもらえる状態なのではないかと勝手に思っている。どれだけ下準備するかは人それぞれだし、それがいつ訪れるかも大概定かでは無いが、そこを目標にして考えていくべきだろうな、とは、まぁここまで言葉を尽くしてまで再確認することではないのかもしれないが、そう思っている。なんか大して広げようと思っていたわけではない話題なのに無駄に広げてしまって「そっか」という感じだが、メタ的な視点で見て頂ければ幸いだ。つまり、これを言葉にして再確認して、他者に対して説明出来る規模感で言葉にすることで自分に言い聞かせようという魂胆だ。本当だろうか……。

 

本題。僕の思考基盤が消費者目線になりすぎている傾向について。

最近割と本を読んでいる。読んだ端から新しい本を買ってくるので積んでる本が一向に減らないのだが、それは置いておくとして。

僕は読書した本を管理出来るサイトを使っているので読書記録というか、まぁそういうものを付けているのだが、どうやら9/6から読書を再開して、今日10/15(日付が変わっているので10/16だが、寝るまでが“今日”だと僕は信じている)までに11冊の小説を読んだらしいということをそのサイトから知ることが出来る。今は12冊目の本を読んでいる。幸いにも良書ばかり引き当てていて、またここで紹介出来ればと思っているが、需要があるのかどうか定かではないので「紹介」という名目でやるかどうかはわからない。よほどの本では無い限り細部までは記憶出来ないにしても印象くらいは覚えているので備忘録を付ける必要性みたいなものも考えてしまうわけだが、まぁ鮮度が高い状態で感想を記録しておく意義みたいなものは普通にありそうだし、無駄では無さそうだ。まぁ、それはそれとして、大体3~5日に1冊くらいのペースで本を読んで、それが良質な読書体験だったと思えば思うほど、自分の考え方が普通の消費者じみてきているな……という実感が増してきているように感じる。別に普通に僕は普通の何者でもない消費者だし、こう、別に普通に面白い小説は面白い小説として楽しみたいわけじゃないですか。面白くなかった小説に対して露悪的である必要は無いとは思うが、別に好意的である必要も無いと思っているので、「これこれこういうところがつまらなかったよ」と、心中で分析したりはするかもしれないし、それは面白い小説に対しても変わらない(面白い小説だからといって手放しで100%褒められる作品も大抵希少だ)が、その体験に対してあまり貪欲ではなくなっているような気がするのだよな。

例えば、面白い小説というのは、小説を書くための技法書を読むより何百倍も実践的な面白い小説を書くための技法が詰め込まれているとは思っている。それを読み取れるか読み取れないか、読解力というそもそもの話はあるし、その小説を面白くするために使われた技術たちがその他の小説を面白くするための応用力を持っているか、という問題もあるが、何をどう組み合わせて組み立てれば自分を楽しませてくれるに足るカタチとして出力されるのか、ということはそう難儀せずとも読み取れるのではないかとは思う。このヒロインが好き、とか、クライマックスが激アツ、とか。それも充分に有用な情報だ。だが、だからといって面白い小説を技法書や教科書のように消費するのは余りにも勿体ない。それは他では得難い、唯一性の高い読書体験になり得るかもしれない。だから別に面白い小説=教科書として消費しようとは思っていない。

かといって、それがどうしてこうも僕の感情を揺さぶるのか、その構造について思いを馳せないわけでもない。何がどう良いと感じたのか言語化することは大切だ。語彙力よわよわ限界オタクたちは往々にして「好き……」「良い……」と鳴いてみせるが、極力そうならないようにはしたいとは思っている。……まぁ、なるのだが。自分なりに飲み込んで言語化することを試みようとは思っているのだが、それが最近どこかこう、自分の外に対して作用しようとする言葉しか出てこないような気がしているのだよな。抽象的な書き方になってしまって心苦しいのだが、なんだろう、うん。自分のために労しようという気概があまり感じられないことしか書けなくなっている気がしている。良くない表現をするならば、批評家になろうとしている、というようなところだろうか。別に批評家の方たちを貶めるようなことを書くつもりはないが。まぁ、批評家の先生たちに対する個人的な思いについても割愛させて頂くが。

人間が外に向ける感情というのは必ずしも一方向的なものではないとは思っている。かといって100%を上限にしたパーセンテージの中で分割して共存しているものでも無いとは思っている。好きが100%で嫌いが100%みたいな作品は節目節目で現れる。50%50%じゃねぇの?って思うかもしれないけど、この機微を正確に言語化して伝えることはとても難しい。例えば僕が数年前にプレイしたAUGUSTというブランドの『穢翼のユースティア』というえっちなゲームがあるのだが、これに関しては本当にその機微を正確に伝えることが難しい。シナリオ全体のマクロの感想と、章ごと、あるいは1シーンあたりのミクロの感想、他には例えばノベルゲームなら構成する要素として前述したシナリオだったり、他にはCGだったり演出だったり声優さんの演技だったりもうとても一括りには出来ないほどの沢山の要素があって、それを強引に1個の感想として出力しようとするからおかしなことになる、というのはたぶんその通りなのだが、それは別に他者に対して説明する義務があることではないのだよな、ということは最近薄々思っている。自分がその作品のプレゼンターとしての役割を演じて振る舞う必要性はどこにも無いのだ。それがより多くの他者に対して働きかけられる立場にいるのならそのちからを存分に振るうべきなのかもしれないが、現状僕に発信力というものは備わっていない。好きなVの者を他者に薦めたいと思っても、好きだと思った本を薦めたいと思っても、十中八九僕のプレゼンは他者には届かない。別にこれは卑屈な感情でそう言っているわけではなく、単純な事実として認識していることを事実として言っているだけなので、ここに僕の感情が挟まる余地は無い。だとしたらそれをやる必要性は、やはり皆無なのだ。それよりも自分にだけわかる言葉で記述して、それを自分のアイデアの源泉に放り投げることの方がよほど大事なのだろう。そういうことを言語化したかった。ので、割と今は満足している。なんだか上記したようなことを連ねて書いてしまった感もあるが、まぁそれは愛嬌だ。愛嬌か?

なんでもかんでも言語化しておきたいという気持ちはある。一応僕はそれなりに描写にちからを入れて小説を書こうとは思っていて、それが言語化に向いてないものほど「言語化して引き摺り出してやろう」という熱が湧いてくるヘンな性分を抱えてはいるのだが、それの危険性というのもまぁ無視は出来ないよね。言語化するということは、その曖昧な思考に確固たるカタチを与えてやるということだ。例えば熱々の味噌汁ってあるじゃないですか。あれってお碗の中で対流していて、溶けたお味噌が刻々とカタチを変えてそれをボーッと見ているだけでなんか和むみたいな危うい精神状態のときって無きにしも非ずじゃないですか。いや、知らんけど。まぁ、そういうお味噌が対流して刻々と姿形を変える混沌とした……まではいかないかもしれないが、そういう状態が敢えて良い、みたいなものはあるとは思うんだよな。その刻々とカタチを変えるお味噌汁を瞬間冷凍させて個体にすることで失われる情緒というものは確かにあるのだとは思う。例えとして適切かどうかはわからないけど、そんなようなことを今思った。自分の中で「これしか答えが無い」みたいな回答の試みは、前述した様々な個別の要素が絡み合って複合的なものとして仕上がってる作品を無理矢理1つの感想として出力して点数を付ける、みたいな、ある種危うい落とし込み方になってしまうことにも繋がる気がしている。何が正解かはわからない。わからないけど、そうだと自覚しておくことは臨機応変さに繋がる気はしている。好きだけど嫌い、嫌いだけど好き、みたいな感想の書き方は間違ってはいないのだろう、ということでここは一つ。

 

 

また6000字近くも書いてしまった。僕も大概学ばない人間なのでここにたわ言を書き込む時間で他に出来ることがあっただろう、ということには気付いてはいるのだが、まぁ思考整理のために必要な文字数って大体これくらいなんだろうなぁ、ということにも今更ながら思い至っている。

読み甲斐の無い記事ばかり書いて申し訳ない。申し訳ないが、ここは僕の日記帳なので好きに使わせてくれ。それでもし読んでいる誰かがいたとして、その誰かが楽しんでくれたら幸いだ。まぁ、正直そこまでは望んではいない。そういう混沌とした感情もまた大事だという話でした。良いオチになったね。

2018 10/08(月)の気持ち

別に書くことは無かったけど、何となくここの更新は続けようと思っていたのだが、1日空けたら「まぁ良いか、書くこと無いし」となってしまって1週間空いてしまった。まぁ書くこと無いのに記事を書こうというのも大概おかしな話なので、別にこれはこれで悪くはないとは思っている。なぜだかちょいちょい読みに来ている方もいるようだし、誰が読んでいるか定かでは無いが、僕のメンタルがヘラヘラしている様子を率先して発信していくのもおかしな話なので、ヘラヘラ記事を書き連ねることで自分を追い込んでいくのをやめるためにも良かったんじゃないかと思う。そういうの読んでぷぷぷと笑いたい方はごめんなさいね。自分の躁鬱の激しさには大概嫌気が差すが、まぁいつまでもヘラヘラしているよりは良いとは思う。そういう感じで、あれだけボコボコと書き殴った鬱屈した気持ちは記事を書いたお陰かどうかスッキリして、今はそこそこ安定を取り戻しているような気がする。躁側に振り切り始めているような気もするが、何とか安定を取っていきたいところだ。これの難しさについては重々承知しているところなので、何とか折り合いをつけてやっていきたいと思っている。

最近肉体的な疲労がそこそこしんどくて座椅子の背もたれを倒した状態で長時間睡眠に突入して負のスパイラルに陥っていて本当に良くないのだが、創作意欲の方はそこそこ取り戻し始めていて良い兆候に思える。しかし肉体疲労が創作活動の直接的な妨げになることも過去の経験からしっかり把握していることなので、この辺を何とかしていきたいとは思っている。具体的にどうすれば良いかはわからないし、普通におふとんで睡眠をしっかり摂るくらいしか無いのだろうが……、まぁ、万全な体調で創作に臨みたいという意識はあるものの、万全な体調でしか創作と向き合えないというのも大概甘えた考えのような気もするので難しい。かつて新人賞シメキリファイターとして投稿を続けていたときは、普通に体調が悪くても書けていた経験があるので、なんでこうなってしまったのかな、という思いがこう思わせている気はする。締め切り直前1週間前とかに慌てて書いてたとき、普通に3時間未満睡眠を続けて、おうちで起きているときはずっとキーボードを叩き続けていた日もあった。1日で30000字以上書いた日もあった。それは必ずしも良い結果をもたらすものではないし、だから何だという話でもあるのだが、自分がそこそこ追い詰められて無理をすれば、それくらいはやって出来ないことは無いという経験が、今の僕に重くのしかかっている節はずっと感じている。稚拙で脳直な創作行為が未来の自分のためになど一切ならないというのはわかっているが。まぁ「それくらいは出来るぞ」というヘンなプライドみたいなものが良くないのだわな。もっと真っ新な気持ちで小説と向き合いたいというのは、最近薄らと思っていることだ。それが万人に対しての面白さに繋がらないとわかっているものでも創れる勇気。自分のための創作行為を取り戻せば、小説を書くという行為に感じているハードルの高さやプレッシャーみたいなものから逃れられるのだろうか。なんか身の丈に合っていない悩みを抱いているように感じる。別に皆から望まれて小説を書いているようなご身分でも無いのにそんなことを考えるのは大概バカらしいとも思うが、別に普通に失望されたくないじゃないですかね。「昔のあれ書いてたときの八神の方が良かったよ」なんて言われたくないじゃないですか。まぁ、仲間内で小説読み合うようなこともめっきり減ったので、そんなことすら思われないわけだけど。だとしたら、尚更自分のために創作をする必要性みたいなものを感じる。別に普通にずっとそうだったけど。評価なんてものはそれに付随してくるもので、地道にやって、宣伝活動にもそれなりにちからを入れて、ガツガツでも待ちの姿勢でもない承認欲求とのシーソーゲームが必要だとはずっと思っている。そういうのを、やっていかなければならないこともずっと思っている。まぁ、現状それが出来るモノが無いので今考えることではないのだが。うん。話が飛躍してしまった。話や論理を飛躍させたがりな思考回路であることには割と自覚的だが、もっと有効的に活用していきたいものですね。具体的には、設定詰めるときとかにね。

どうしても、こう、誰も見たことが無いものを作りたいという意識が根底に強くある気がしている。設定にせよ、キャラにせよ、物語構成にせよ。それが理論的に不可能であることはわかっているのだが、誰かの二番煎じをやる必要性ということをまず念頭に置いてしまう自分がいる。理論的に不可能とは言ったものの、それはたぶんやって出来ないことではないんだろうけど(題材と魅せたいもののピント、という辺りにヒントがあるんじゃないかとは思っている)、ただそれが自分の納得の出来る面白さに繋がらない可能性にはまず思い至る。自分の納得がまず根底にある。それが客観性を持ち得ていれば尚良い。だとするなら敢えて二番煎じを行うことはそれほど悪い話というわけでもない。世間的に人気を博しているものから換骨奪胎してくるというのは手法としても一般的だ。要は何を描きたいか、何を主張したいか、というところが自分由来のもので固められていれば読者の印象を「これは二番煎じだ」という思いからずらせるということも何となくわかっている。物語構成に類型がそれほど無いこともわかり切っている。定番の構成、というものは確かに存在するよね。こだわるべきはそこじゃないこともわかっているのだけど、こう、同じ物語構成を流用するとなるとどうしても流用元のイメージに思考が引きずられてしまうということも感じる。流用元作品に比べて~という思いを、まずそれを描く自分がいかに逸らせるかが重要なのかもしれない。構成は書きたい物語や主張を効率良く引き立てる土台でしかないので、そこにオリジナリティを求めるのは大概お門違いだ。書きたいキャラはある。こういうお話を書きたいという欲求もある。ただ、いつぞやのヘラヘラ日記にも書いた覚えがあるが、そこに込めるべき主張が見付かっていないのが今なので、やはりそことしっかり向き合っていかなければならないことはそりゃそうなのだが、これが難しいんだよね。主張というか、まぁあんまりテーマって言葉は使いたくないんだけどテーマ的なそれって、そもそも当て嵌めるべきものではないような気もしているので、その辺が難産の大きな理由になっている感は如実に感じている。難産になるくらいなら考えない方向で、もっとこう、読んで面白かった!で終わるようなエンタメ特化娯楽至上小説として考えていけば良いんじゃないかとは今自分で思ったが、消費者としての自分があまりそういうのを求めていないのに果たしてそんな器用なことが自分に出来るのか?という疑問は真っ先に浮かんだ。正しいエンタメ作品……って言うと語弊がある言い方かもしれないけど、そういうのは得意なひとがやれば良いってのはずっと思ってるし、僕自身はあまりそういう方向でお話を考えてきたことは無かった。その主張が成功しているにせよ失敗しているにせよ、そういう仕込みをしなきゃいけないという使命感?みたいなものが占める割合は僕の中ではそこそこ大きいらしいということもわかってきた。なるほどね。これを説教臭くならない塩梅でやるのがまた難しいんだ。僕は大抵めんどくさい懐古オタクおじさんなので「語りたい欲」とでも言うのだろうか、そういうのが気を抜くと出てしまうので、上手いこと自制出来るようにならなければならないね。まぁ何度も言うけど、今はその「語りたい」ものを模索しているところなんだけどね……。

前回……と言ってももう2年半くらい経つわけだけど、某賞に送った長編も大概難産だった。僕は魔剤……エナドリジャンキーなのでエナドリをめちゃくちゃ飲む不健康な生活をおくっているが、真冬の夜中に魔剤を売ってるちょっと離れた自販機まで散歩したりしていた。この時間が結構良くて、脳内でアイデアが固まるまで、思い付いてから結局半年くらい掛かったような覚えがあるが、そういったようなことを習慣付けて自分の中で「これは書ける」と思えるまで辛抱強く続けていたのは強く印象に残っている。このある種の成功体験が今、こうして難産に苦しんでいる状況を呼び寄せているような気もするが、でもそれも思い返してみればあまり能動的な行動ではなかったような覚えもあるんだよね。アイデアを待ち過ぎるのが良くないということはわかっていても、でもそういう意識改革ってどうしたら出来るんだろうね。頻繁に小説を書き上げてる皆さんはどうやってアイデア仕入れてきているんだろうか。集中力の問題かな?という思いもあるけど。まぁ、その辺は考えても仕方ないことか。よくわからんくなってきた。

とりあえず、小説を書くということが、それほどハードル高い行為ではないんだよということを、自分に言い聞かせ続けなければならないというのはずっと思っている。

気を張らずに短編なりショートショートを書き続けたら良いのかもしれない。でもそれが自分の水準を満たす、自分を満足させるための創作にならないこともわかっている。あまり意味が無いんだよね。決してハードルは闇雲に下げれば良いというわけじゃないような気もしている。凡作を作り続けて得られるものは、「凡作を作り続けた」という結果に集約される。自分の要求を満たす自分基準での傑作的なものを作り続けるのは理想を言えばそうなのだけど、それが現実的に考えて難しい以上、その両極端な振り幅の中間を探っていかなければならないのはそりゃそうだという感じだ。

そういえば昨夜は、蒼月エリさんのおうた配信をリアルタイムで見れた。思えばおうた配信をリアタイで見れたのは初めてだったようにも記憶しているが、その貴重な体験の最中、めちゃくちゃ楽しそうにおうたを歌って、どんどん楽しくなってきておうたが止められないモードに入ってしまって「自分だけが楽しい配信になってしまった」と少し反省していた蒼月エリさんはやはりお茶目な感じでめちゃくちゃカワイイだったのだが、でもその「自分だけが楽しい配信」が4000人くらい集まったリスナーのほとんどの胸を打って楽しませていた事実が、ある種の真理なんじゃないかなという気がした。

こうなりてぇよなぁ、と、思ったのだ。

それに触発されてコメ欄でじゃんじゃかスーパーチャットを投げていたタマキさんがその後におうた配信をやり始めていたことにはもっと早く気付きたかった。そう。そういう循環というか流れというか、そういうのが本当に尊いと思うのだ。

誰かを突き動かす創作がしてぇよな。

いつになく散文的な記事になってしまった。

日記なんだからそれで良い気もしている。理解を得るに越したことは無いが、全てに対して理解を得たいと思って行動する必要も無い気がしている。たぶん。

2018 10/01(月)の気持ち

かつて僕はケータイで小説を書いていた。

もう10年も前の話だ。ガラケーという、静電式のタッチパネル液晶ではない、ボタンをポチポチと押すタイプの携帯電話端末が、今現在ほぼほぼ化石と化してしまっている事実は、今尚それを使っている方々にとってはシツレイな物言いになってはしまうが、おおよそ共通認識となっている事柄なのではと思われる。

あの折りたたみ式だったりスライド式だったり、折りたたみ式の中でも軸の部分にボタンが付いていてワンプッシュで画面を開閉出来るものがあったり、開いた画面をZ軸方面に回転させてハンディカムのような形に出来るものがあったり、一見スライド式に見えるが実は画面をこう横に押し開いて回転させることで開くタイプがあったり、多種多様な形態(ケータイだけに)のものがあったが、まぁ僕もそれを使っていて、それのボタンをポチポチすることで小説を書いていた。たしかSO903iだっただろうか。背面に9つのボタンと小さな液晶画面が付いていて、ウォークマンのような使い方が出来る、音楽再生にも特化したケータイだったように記憶している。僕はFOMAシリーズが発表されたあたりからケータイを持っていたマセガキだったのだが、一番気に入ってた機種は?と訊かれるとたぶんこの機種名を出すと思う。その次に契約したのはSO905iで、まぁこれも良かったのだが、SO903iよりは印象に残っていない。それからXperia acroでスマホーンデビューを果たし、以降はずっとアイッピョーンを使っているのでそこからはあまり語り甲斐の無いケータイ生活をおくっている。まぁ、これから先リンゴ社がどうなるかはわからんが、Androidを使うことは二度と無いとは思うので、これからもアイピョーッンを使うだろうとは思われる。懐古に夢中になって話が逸れた。懐古おじさんはこれだからいけない。

実家に帰ったときに、なんという番組かは忘れたが、なんかのテレビ番組を観た。僕の現在のおうちにはテレビが無いのだが、実家に帰ると誰かしらが常にテレビを観ている状況になっているので、特にやることが無い僕もそれに乗じてそれを観ることになる。確かお笑いコンビのペナルティの特集だっただろうか。テレビを観なくなるとテレビに出ているひとたちが今何をしているのかも当然わからなくなるので、ペナルティのヒデさんが小説を書いているということも当然ながら僕は知らなかった。そのヒデさんが、楽屋で小説を書いているという情報が何度か出てきて、実際にその現場も映された。アイピョンで小説を書くと語るヒデさんの姿に、僕は「マジか」と思いながら大層驚いてしまった。書籍として発刊される小説を、アイピョンで……。それは僕に途轍もないカルチャーショックを与えた。

そもそもお笑い芸人の方々がある時期を境に小説家としてデビューするということにまず思うところがあるめんどくさいオタクおじさんであるところの僕だが、それをこのアイピョンの小さい画面を無限にフリックすることで出来上がる小説というものにも大層思うところがあるし、まぁ実際それは別に間違ったことではないし方法論としておかしなことでも無いのだけれど、まぁかつて実際にケータイを使って小説を書き、それをやめてパソコンで小説を書き始めてパソコンでしか小説を書けなくなった僕の身からしてみると、なんだかなぁという思いが無いわけでもないのが本心だ。

まず、小説を書くのに必要なのは、文字を書くツールだ。鉛筆と原稿用紙(ノートでも良いし、チラシの裏でも良い)があれば、その環境は容易に構築出来る。関係無い話だけど、僕はマンガやアニメや小説や、まぁ媒体はなんでも良いんだけどこう小説家として登場するキャラクターが鉛筆と原稿用紙を使って小説を書いているのを見ると無性に腹が立つんだけど(媒体に小説も含めたが、小説が元になった映像作品なんかは割とノートパソコンで小説を書かせてるイメージがあるので、小説を書いたことが無いひとにそういうイメージが強く備わっている気がしている)、そのステレオタイプなキャラ表現マジで即刻やめろって思いませんかね小説書いてる皆々様。ホントかどうか知らんが神林長平先生が『いま集合的無意識を、』だかで「僕らが最後の手書き世代だ」って言ってたぞ。何十年前のステレオタイプを持ち出してきてるんだしっかりしろ。話が逸れた。……まぁ文字が書ければ何でも良いのだ。パソコンでも良いしケータイでも良いしキングジム社様から発売されているポメラなんかを使っても良い。まぁ、ケータイで小説書いてるひとを見ると前述したような反応をする僕のことだから、ポメラを使って小説書いてるひとを見ると同じような反応しますけどね。ポメラ買うのやめてその代金分足してiPadSurface買いません……?って思うんだけど……、なんか無限にヘイトが湧いてきて本題に辿り着かないなこの話題……。こういう攻撃性はマジで良くないですね、ホントに……。

何が言いたいかと言うと、画面サイズの問題なんだよね。

これは実際にケータイで小説を書いていた環境からパソコンで小説を書くようになった人間特有の感覚だとは思うんだけど、画面サイズが大きくなるということは、表示出来るテキストの範囲が格段に広がるということなんだよね。

何を当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、例えばあなたが今持ってるそのスマホーンなりアイッピョーンなりのテキストアプリを開いて文字を打っていって、どんどんスクロールしていってみてくださいよ。画面下半分をキーボードが覆っているのだから、実際に表示出来るテキスト量ってホントにかなり微々たるものですよね。それ、パソコンの縦書き出来るソフトだと、スマホーンでどれだけスクロールしたものを一括で表示出来ます?かなり一生懸命スクロールした範囲が一括で表示出来ると思うんですけど、それって実際かなり重要なことだと思うんですけど、何が重要だかわかります?

僕は大抵自分のあらゆる能力に対して懐疑的な人間なので、だからこう思うのかもしれないけど、表示されてない文章を知覚なり把握なりし続けることって可能ですか?改行含めて10行にも満たない、300文字未満くらいの文字数、その段落だけが表示されてる状態で、それ以前に書いた情報をリアルタイムで把握し続けることってなかなか困難じゃないですか?そんな情報制御が困難な状況の中で、必要充分な情報を詰め込んだ小説が書けます?もちろん色々な書式設定があるとは思うし、パソコンで書いているからといって文庫本サイズで50ページ100ページ300ページ分の情報を1画面で表示することは不可能だけど、1ページ分なり2ページ分なりの情報を1画面で表示出来るだけでケータイの画面で見落としてしまいがちな文章や情報の粗というリスクは格段に落とせるとは思う。もちろんこれは推敲作業のことをまったく考慮していない考え方だけど、推敲するにしたって最初からボロボロな文章なんて書きたくないとは思うのだ。あとまぁ僕がフリック入力を片手でするので両手でフリック入力するひとは違うのかもしれないけど、脳内からテキストに反映する速度が遅いとそれだけでイライラするよね。キーボードタイピングが速くないひとのことも考慮していないけど、だから、それなりにしっかりと書こうと思っている文章はキーボードでしか書けないというのが僕の持論だ。

だから、小説を書く環境として、パソコン以外でやっているひとを見るとカルチャーショックを受けてしまう。別に否定しているわけではない。それで面白い小説を書けるなら、僕には到底出来ないことなので純粋に凄いことだと思う。別にツールが作品の出来不出来に関わってくるなんてことは一切無いので、それが出来るならそれに越したことは無い。WindowsXPで書いた小説よりWindows10で書いた小説の方が面白いなんてことには当然ならない。だからiOS12で書いてもAndroid9.0で書いてもポメラで書いても作品の面白さには関係しない。自分に合ったやり方で小説を書けば良いとは思う。まぁ効率はめちゃくちゃ悪いだろうけどね。

……というのが、ケータイで小説を書くのをやめて、パソコンで小説を書き続けてきた僕が今まで抱いてきた偏見に充ち満ちた考え方だった。

そういう考えを意識の内か無意識の内か抱き続けてきて、つい先ほど、自分がこういう考えに支配されていることに気付いた。自分がどうしてケータイで小説を書かないのか少し考えてみたのだ。上記した幾つもの理由は理由としてあるが、そこからその考えに至った道筋にも考えを至らせてみて、どうやらそれは自分が捨て去ったやり方なのだから、それを克服した今、改めて試すなりやってみる価値がある方法論では無いだろう、という凝り固まった思考が原因していることを突き止めた。

なるほど、と僕は思った。いつぞやの記事に僕は自分が過去の自分を八つ裂きにしたいと常々思っている、といったようなことを書いた覚えがあるが、今回の件もそういった動機によって成されている可能性が強くなってきたことに気付いた時、僕は戦慄した。上記した理由は確かに自分の中では理路整然……とまではいかないかもしれないが、それなりに納得出来る理由だと僕は思っているが、だがそれはケータイからパソコンに執筆環境を移した自分が無意識の内に、より良い環境になったと思い込むがために構築していたかもしれない理由だったのだとしたら、その偏見は多少なりともほぐしたいと思ったのでこういう記事を書き始めた次第だ。

まぁ別に、改めてケータイで小説を書こうと思っているわけじゃない。前述した理由が、持論として僕の中で確立しているのは確かだ。情報制御が困難な状況で小説なんか書きたくない。ケータイは出先でも小説が書けるし実際便利だという意見もあるかもしれないが、無数に他人がいて自分の思考の妨げになるようなものが無数に存在するおそとなんて環境で小説を書きたいなんて僕はこれっぽっちも思わない。集中力が散漫だからこそ、集中できる環境は大事にしたいのだ。まぁ、パソコンというツールはそのHDDなりSSDの中、あるいは無線有線の先に繋がるインータネットの先に大量の誘惑を秘めたものでもあるから、それ自体が集中を妨げるものであるという意見には100億回頷いて同意するが、ともあれ、このブログを書いているような状態で小説を書くべきだと僕は考えている。それはたぶん揺らがない。実績もある。

だが、設定や世界観、ネタ出し作業においてはどうだろう、と思ったのだ。

僕の中の基準なのだけど、それは恐らく、必ずしもこのブログを書いているような環境でやる必要の無いことだ。むしろお布団に横になってもっとリラックスした状態の方が良いものが出てくるんじゃないかとは思っている。わからんが。まぁ、一文一文に気を遣わなくて良いのは確かだ。本文執筆よりも、ある意味においては精密な行為というわけではないような気がしている。

別にそれを実践してきたことが丸きり無いわけではないのだけど、あんまり長続きしてこなかったのだな。まぁそもそもあまり設定を煮詰めてから書き始めるタイプでもないというのもあるが、でもしっかり用意するに越したことは無いとはさすがに思っている。それは出来ないからやらない、というよりは、何が必要になるのかマジでわからないから都度その場で考えるようにしている、というのが実情だ。必要にならないかもしれないものに思考リソースは割きたくないし、お話の展開によっては当初の設定を否定しなきゃいけないような場面もまぁ訪れる。別にイタコ型の、キャラが勝手に動くタイプの書き手でも無いが、キャラの動きってまぁ基本的には必然よね。プロット通りに誘導するにしても、軌道修正が必要な部分ってのはどうしても出てくる。それを設定というか、プロットをガチガチに固めた状態で、それ以外の動きは許さない、というような作り方をすると破綻が起きやすいような気がしているし、端的に言えばキャラがブレるとも思っている。

というような先入観があることも、これを書きながらわかってきた。

一度自分の中に作り上げてしまった方法論を否定するのは、とても勇気がいる行為に思える。別に否定まではしなくても良いんだけど、もうちょっと柔軟な考え方をしたいなぁと思ってこういう記事を書いてみた。今僕のアイピョーン8+は、せっかく無駄に大きな画面を備えていてパソコンと手軽に同期出来るテキストアプリを入れているにも関わらず、アズールレーン専用機になっているのでそれもマズイよなぁ……と思ったので、もう少し有効活用したいと思ったのだ。何より季節の変わり目で座椅子に座ってるだけでマジでつらい状況とかもままあるので、お布団に寝転がりながらクリエイティビティを発揮出来たらさいつよなのでは!?と思ってこうして考えてみた。気付くのが遅いという向きはあるかもしれないが、まぁ、何事も遅すぎるということは無いのだ……。そう自分に言い聞かせて、そろそろ筆を置かせて頂こうと思う。また5000文字も書いてしまったが、こう、もっと端的な物言いが出来ないものかね、きみどりくんや……。

ケータイでネタ出しをしてみよう。

僕は基本ネタ出しを脳内だけでやるんだけど、脳内だけでやると、取りこぼしてるものは沢山あるんだよな……。

2018 9/30(日)の気持ち

非常に強力な台風くんが過ぎ去った。

天候に影響されやすい体質だということは直近の記事に書いた。気圧の変化にはやたらと敏感だ。僕は『頭痛ーる』というアプリをアイッピョーンにインストヨールしていて、これはヤバい気圧下降なんじゃないかと直感にて3秒で理解したときにそのアプリを開いて気圧の変化を確認している。台風接近前と通過後でおよそ40hPaもの差があったようだ。もの凄い勢いで急降下していくグラフを、台風がまだ沖縄近海あたりにいたときに確認して思わずおかしな笑いが込み上げてしまったものだが、おうちが強風と豪雨でぐらぐら揺れてる間の体調の悪さといったらなかった。そうでなくともここ数日はやたらと雨が降りまくって体調の悪さが際立っていたというのに、それを3倍濃縮して圧力鍋でぐつぐつと急速で煮込んだようなクレアおばさんもびっくりな身体の重さだった。クレアおばさんって誰や。まぁ、そんなこんなで翌日は(今日だが)台風一過ということもあって(関係無いが、僕は昔、台風一過のことを台風一家だと思っていてあいつら一族で日本列島襲ってくるんかマジでヤバイな……と思っていたが後半は今思い付いた)関東らへんの気温は30℃を越えるらしい。マジで意味がわからんが風邪を引きそうな気温差だということはわかるのでなんとかご自愛していきたいものだ。

そういうわけでなんか今日も書いていこうと思う。

正直前回の記事に自分が小説を書きたくなるときのメカニズム解明みたいなものを書いたので後はそれに従っていくだけなのだが、生憎にもぐずついた天気やら台風やらにメンタルフィジカル諸共メチャクチャにされて何も手が付いていない。周防パトラさんの配信を観るようになったら決心したはずのVの者たちとの距離感も見失って、特に今日なんかはやたら追ってるVの者たちの配信が立て続けに成されて(随分と絞ったはずなのにこの体たらくだ)ひたすらヨウチューッベに寄り添った半日になってしまった。これはマズイと思って日記なり自己分析ごっこなりをしていこうと思って今これを書いている仕組みだ。

今読んでる本が全4巻のラノベなのだが、一区切り付いたあたりで読むのをやめたら読書熱も冷め始めていてヤバさを感じている。こう、飽き性な人間特有のムーヴになり過ぎている気がする。あれよね。飽き性な人間って飽きやすいだけあって熱中しやすさもあるのよね。のめり込むのも速ければやらなくなるのもめっちゃ速い。まぁ、別に普通に最後まで読むけども。最近読んだ翻訳小説なんかも途中で数日読まない期間空けてしまったけど最後まで読んだし。別にただそれなだけだし。

……。

なんかよくわからないテンションになってしまった。急激に下がった気圧が急激に下がる前あたりに戻ろうとしているのでその反動だろうと思われる。

まぁ土日はまともにやることもやれないようなリズムで生活してるので、今日あたりはこういう感じで良いのかもしれない。1週間7日間を無休で駆け抜けられるバイタリティ溢れた人間だったら良いのになと切に思うが、残念ながら僕はクソ雑魚メンタルフィジカル人間なのでそういうワケにもいかないのが実情だ。

こう、週明け頃に友人とした通話で負ったダメージが未だ深く残っている感はある。これを含めてもう3記事も書いてしまったメンタルヘラヘラ日記を付けるようになった直接的な原因でもあるのだが。そいつがこれを読んでいないと踏んで思い返していこうと思う。

確か最初は、別に普通に通話をしていたはずだった。僕と友人と互いにやってるソシャゲであるところのアズールレーンの話をちょくちょくしながら、別に明確な話題も無くだらだらと喋っていたところで、友人が切り出してきた。

「書こうと思ってる短編なんだけど」

そいつも小説を書いている……いや、まぁあまり詳しくは書かないが、あれだ。まぁ、そいつは僕が小説を書く直接のキッカケになったやつだ。別にそいつに指導してもらったとかそういうことは一切無いが。インータネットを経由して知り合った友人たち(今でも交友が続いている付き合いが長い、僕の数少ない友人たちだ)で小説なりを書いている友人はその内の大半を占めるが、リアルの友人では数少ない同好の士というやつだが、まぁ互いにそういう風に思っているかは微妙だ。まぁ、相談に乗るくらいだったら良いかと思って僕は至って気軽に話題に乗じた。

結果を端的に言えば、僕はそいつの小説に対する姿勢みたいなものを、ほぼほぼ全否定した。「お前がそのスタイルでこれからもやるなら、僕はお前の小説はもう二度と読まない」と何度も何度も繰り返し言い放った。それでなぜ僕がメンタルをヘラヘラさせなければならないのかと疑問に思うかもしれないが……、まぁ、あれだよね。

僕は大概他人に対して攻撃性みたいなものを剥き出しにしているような人間だが、別にそれを好きこのんで出しているワケではないのはそりゃそうだという感じだ。だって疲れるじゃない。自分調べで数年前に比べて根に持つようなことも無くなってきて(僕は大概根に持つ人間だ。だからこれは単純に嬉しい兆候だ)、自分のメンタルに掛ける負荷も減ってきてだから創作意欲も衰えてきているのではないかと疑っているがそれはそれとして、まぁそういうのはなるべくならしたくはないのだな。僕たちはもっと自分の短所なり欠点なりと向き合ってそれを御したり改善したりをし続けなければならないのだと僕は常々考えているのだが(考えることと実行することは、残念ながら大きく違う……)、別に他人を言いくるめたり切り捨てたりみたいなことは嬉々としてする場合も無いとは言えないが、親しい間柄の友人に対してやることではないとは、さすがの僕でも考えている。

別に内容を詳しく書いたりはしないが、ほとんど口論のような形で会話が続いた。持ち掛けられたその短編に対する意見交換はまだ良かったが、そいつが以前に書いた短編を僕がその場で読んで感想を伝えてるときはほぼほぼ口論だった。これには滅入った。別に僕は自分の創作スタイルのみが正しいと考えているような頭のおめでたさまでは持っていないと願いたいが、それを押し付けなければならないような展開になってしまったときは(なぜこんなことをしているんだろう……)くらいには思っていた。前述もしたが、全否定をしたのだ。そいつがそれなりの自負を持って読んでくれと頼んできたものを、全否定したのだ。それは即ち、その友人の創作スタイルの全否定だった。こんなことをしたいワケがない。だが、感想を偽るワケにもいかない。かつてトゥイッターのワナビクラスタなんて連中が寄り集まっていたとき(今もそういう連中はいるんですかね。業界に疎いので知らないのですが)には選考で落ちた応募作をタイムラインに持ち寄って感想を送り合うなんてものが局所的に行われてはいたが(ツイッター老人会かよ)、そういう場では「これはおもろないわ!そりゃ選考も落ちるわ!!」なんて本音は隠して当たり障りの無い感想を伝えてフォロワー諸氏に角が立たないような立ち振る舞いが必要になる場面もあったかもしれないが(戯画化して書きすぎなのでわ!?)、僕はそいつに面白い小説を書いてほしいと思っているので、そんな毒にも薬にもならないような振る舞いは最初から度外視されている。

別に創作論みたいなものをひけらかすことに抵抗があるわけじゃない。それは確かに恥ずかしいことなのかもしれないが(別に応募作を書くときに縦書きと横書きのどちらで書くだとか、転じてどのエディタで書いているだとか、三点リーダは2つで1セットが業界の常識だとか、文末に「~~だ」「~~だった」が連続してるのはダメだとか、そういう本当に心底クソくだらない創作論未満のクソどうでも良いクソ話題をひけらかすのは本当に心底恥ずかしいとは思う)、別にそれって自分が考えてきたり実践してきたことの軌跡じゃないですか。だったら別に恥ずかしがることではないし、それを理解出来るのは同じこと考えてるひとに限られるじゃないですか。そうじゃない方法で面白い小説書いてるひとは違うこと考えてるし違う方法論使ってるから関係無いじゃないですか。そもそも面白い小説を書くということを実践するために出来ることは「面白い小説を書く」ってことに集約されるので(随分前に別の友人に言われたことがようやくわかってきた感じがある)、そもそも言語化出来ることなんてのも少ないわけじゃないですか。まぁ、そんな感じで、数少ない言語化出来ることを伝えたからといって、相手は違うことを考えてる違う人間なのだからそれは伝わらないのだ。伝わらないことを言い続けた時間だったのだ。心底疲れた数時間だった。

僕は大抵、怒りや疲れが後から燃えてくるタイプの筋金入りの根に持つ人間なのだが、まぁそんな感じなので翌日以降のモチベの低下があまりにも酷かった。別に自分の利ばかりを考えようと思っているわけではないのだが、それでも考えてしまうのだ。何の利にもならない時間だったなと。伝えたいことの殆どは伝わらないし、そいつにはそいつの考えがあるので僕の言葉を受け入れようという気も無いし(こればかりは完全に僕の想像だが、受け入れようと思ってくれるなら口論にはならないだろう)、受け入れてもらったからどうという話だし、僕の感じる「面白い」が正義というわけでもないし、だから何、お前は僕に気に入ってもらう小説を書くために小説を書いてるワケ?という思いもあるし、なんか、そういうことがそれから数日僕の脳内を支配した。

こればかりはどこかに吐き出さなければならないと思って書いた一連だった。本当にしんどかったし、欲を言うなら誰かに共感して欲しいという思いもあるが、まぁそこまではさすがに望まない。読まれているか読まれていないかわからんこんなインターネットの僻地に吐き出すのが一番だなと思ったのでそうした。ようやく肩の荷が下りてきた感はある。

書いて落ち着いた今、本当に益体の無い記事になってしまったとやや後悔している。ブログに愚痴を書くなんて中学生かよという感じもするが、まぁ自分の脳内で完結させられる問題ならそうしているので大目に見て欲しいところだ……。後悔が一定値を越えたら下書きに戻すと思うので、まぁ仮にあなたがこれを読んでしまったなら、僕と同じようにインターネットの僻地に吐き出して処理してほしい。嘘です、ごめんなさい……。

きみどりちゃんのブログはタメにならないなぁ~。

タメにならないなぁ……。

2018 9/28(金)の気持ち

特段、習慣化するつもりは無かったのだが、思考整理のついでという感じでちょこちょこ書いていこうと思う。

長編のネタを考えている。小説をちゃんと書き始めようと決めたときから考え続けてはいるのだが、これがなかなかまとまってこない。どうやったらまとまるのだろう、ということもずっと考えている。こればかりはなんというか、タイミング的なところもあるので、考えても答えが見付からないのはわかっているのだが、でも考えてしまう。ちからを入れるべきはアイデア出しなのだが……、というところで思考がループに陥ってしまう。とても不毛な思考リソースの割き方だ。それも自覚はしている。

ここ最近、〇〇先行というようなネタの出し方が出来なくなっていることに気付く。色々アニメや映画を観たり小説を読んだりノベルゲーなどをやることで自分の中でパターンを当て嵌めるちからがついてきているのには自覚的だが、これが良くない方向に作用しているのは頻繁に実感する。

こういうキャラが書きたい、こういう設定を思い付いた、こういう世界観が好きだ、のように、まぁ並行して色々な要素を並べたとする。それが脳内でなかなか結び付いてくれないのだな。まず、正誤判定がある。こういう書きたいキャラを書くならこういう設定とは食い合わせが悪い気がするし、こういう世界観だとこういうキャラを上手く活かせない、のような判定が一瞬で出る。まぁこればかりは試行錯誤するなり必要なのだが、一度正誤判定を下してしまったものについて深く掘り下げて考えられない傾向にある気もする。自分の中でそれらを組み立てるのを諦めてしまっている状態にある気がする。まぁ、そもそもこういうお話の作り方は僕に向いていない(慣れていない)のは最初からわかっていることなのだが、強烈に書きたい「何か」が無い状態だとこういう手探りの仕方を始めて時間をドブに捨てるのは僕のこれまでの典型的なパターンのような気がしている。

自分が普段どういう作品の作り方をしているかと思い返したとき、まずクライマックスか主題がある気がしている。クライマックスは、クライマックスだ。その小説の中で一番読者を驚かせたいギミックを思い付くのが割と多い。つっても僕はプロットや構成で読ませるタイプの書き手ではないことには自覚的なので(出来るようになりたいとは思っている)、めちゃくちゃ凝ったギミックを使えた!という達成感に浸れたことはほぼほぼ無いのだが、まぁ僕の中で「よく出来た」ラインにある短編なんかはこういう作り方をしていることが多い気がする。別にギミック先行でなくても、「クライマックスにこういうシーン置きたいなぁ~」というシーン先行の作り方もそれなりにある気がしている。全体を通した構成の起伏としてそれほど珍しいものでなくとも(そもそもプロット構成にパターンなどそれほど無いのだが)、シーンありきで書き始めると、むしろそのシーンを特別際立たせるために苦心することになるのでモチベも維持出来ていた気がする。苦心し過ぎてモチベを維持出来なかったものは、最近多いような気がするな。飽き性なので、その辺の自分に対する配慮みたいなものは考えなければいけないのかもしれない。放置してる長編のことを思い出したが、今は脇に置くことにする。

主題から書き始めるのも結構多い。主題というか、主張か。主題とか主張とか書くと大袈裟な気もするが、要するに「今はそうじゃない主人公くんに、あれこれ乗り越えてこうなって欲しい」みたいなものだ。思考停止している人間が嫌いだ。自分がそうではない自信はあまり無いが、そういう他人を見るのはあまり好きじゃない。だから主人公には最初思考停止してもらって、それをあれこれ乗り越えることで自分で考える人間になってほしいみたいなものはよく書いてきた気がする。説教臭さみたいなものとのシーソーゲームになるのだが、それがエンタメになっているかの自信は、どうだろう。好きなもの先行という形になるので、他人にとっての面白さに繋がらない可能性はあるが、まぁそれは別にこれに限った話でも無いか。自分が最初に楽しめない作品を他人様に楽しんでもらうことなど出来ないという有り触れた話は僕も持論として持っているので、まぁこういうものを用いてモチベとしてきたものを書いた時は評判も良かった憶えがある。

こうやって益体も無いことをあれこれ並べてみると、僕にとって小説を書くということは、自分のモチベとの戦いなのかもしれないということを思う。まぁ、自分が面白いと思えないものを書き続けるのは実際とてもつらい。経験もある。〇〇新人賞に出すために書き始めた長編が、締め切りも間際になっているから慌てて書き進めはするのだが、どう考えても「これ面白く無いよな」と思いながら書いているときのつらさといったら無い。それでも〇〇新人賞に出さないよりはマシだ。だから書き終える。ゆっくり読み返す時間も取れてないのでやけっぱちで送ったそれは、読み返す気も起きない。友人からは辛辣な感想が飛んでくる。当然一次選考は通らない。一次で落ち続けてきた時期は、こういうことをよくやっていた。今、締め切りだけをモチベにしてやることは出来ないなぁとは思う。自分が書いているものにだって面白い面白くないという判断は容易に下せる。面白い面白くない、というよりは、要素やシーンが足りてる足りてないというような判断基準だが、その基準はあまり的外れではない自負もそれなりにはある。「これ足りてないよなぁ」という状態から「うん、足りてる」という状態に持っていくのは相当苦心する。何度も何度も読み返してまったくわけがわからなくなってくる。それでも自分の納得のために頭を捻り続ける。今思えばこの頭を捻り続けてる状態はなんてしあわせな時間だったのだろうと思ったりもするが、まぁ今はアイデア出しの部分で躓いている状態なので今考えるべきはどうアイデアを出すかという問題だ。

実際、僕は特別何かを書き続けたいという根源的欲求を持っているタイプの書き手ではない。どちらかといえばもうひたすら「僕にとって面白いものを書いていきたい」という欲求に近いような気もするし、実際僕が書いてきたものに書き方以外の統一性というのもあまり無い気がする。

今、とある尊敬する作家の古い作品を読んでいて、それを読みながら「こういう書き方は是非出来るようになりたい」というようなことを改めて思ったのを思い出した。

僕には僕のスタイルというものが確立されている。もう10年くらい小説を書いているので、得意なスタイルは嫌でも確立されてしまう。別に僕はこれを曲げるつもりは無いし、このスタイルこそが僕が一番映えるように書けるスタイルだ、くらいには思っている。それはこのブログの記事たちを読んでもらえば薄々気付いてもらえるようなわかりやすいかたちだ。まぁ、それは良い。

自分のそのスタイルに適合させられるか否かの判断基準がかなり強く作用しているんじゃないのか、というようなことを今これを書きながら考えていた。他の書き方で映えるやり方が出来るなら、自分のスタイルはあまり考えないし、それを基準にアイデアをねじ曲げるような考え方はしなくても良いのかもしれない。

まず、書きたいものありきだ。それはわかっている。それは後々二転三転することになって、原型が残らない場合もままあるが、それでもそれがモチベとしてきっちり作用して、僕が書きたい僕にとって面白い小説の雛形になるのなら、それは意義をしっかりと生んだことになる。僕が本当にそれをしたいのなら、こだわるべきは当初浮かべた書きたいものではないよね。まぁ大事だけど。それが無くならないように発展させていくようにはなるべくするけども。

 

今まで散々自己分析ごっこをしてきたこのブログだが、今回はより読み手の理解をすっ飛ばして書き殴り続けた記事になりすぎた気がする。

書きながら考えるのはとても良い。願わくばそれが僕が前に進めるちからの一役を担ってくれると尚良い。

まだまだこのブログを僕のために有効活用していきたいね。