Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

思考するのが下手だと自覚する話

というのも、ここ最近ずっと15万字くらいの長編のネタを考えているのだが、それがなかなか上手くいかないので、その原因を探っていきたいという話だ。別に特定の誰かの思考形態を揶揄したりとか指摘したりとか、そういう意図の話ではないです。別に他人がどういう考え方しているとかそんな興味無いですからね。それが直接的に、僕に危害を加えるだとかストレス源になるだとかしない限りはね。

 

思考するのが下手クソだなぁという自覚は、割と昔から抱いている。

と、まぁ思考するのが下手クソと一言で言っても、色々な種類の形態があるんじゃないかとは思う。

パッと思い付くのは思考深度を深められない状態だろうか。例えば、じゃあこれを読んでいるあなたが誰かに勉強を教えていたとする。「ここはね、これこれこういうことなんだよ」と、まぁその誰かに教えてあげたとする。するとその誰かはこう言うワケだ。「え、わかんな~い」……まぁ、そういうこともあるだろう。わからないものはしょうがないので原因を探っていこう。「どこがわかんないの? この場所?」あなたは根気強くその誰かに向き合うが、その誰かは言うのだ。「え、わかんな~い」……うん。次にあなたが取る行動は一つ。テキストを投げ捨てて今すぐ自分の家に帰るはずだ。……まぁ、これは思考するのが下手とかそういう以前に思考する気がそもそも皆無だと言わざるを得ない状態のような気がするので、ちょっと話が違うかもしれない。どうだろう。まぁお世辞にも上手とは呼べない状態なので下手なのかもしれない。え、わかんな~い。まぁまぁブラウザバックを押すのを待ちたまえ。

他には、無意識に思考対象に苦手意識を持っていてシャットダウンしてしまう、とかだろうか。どうしても関わらなければならない苦手なひとが、どうしたら苦手じゃなくなるかを考えてるときとか、そもそもその相手に好印象を抱こうという気が無いので思考が妨げられたりとかするかもしれない。好き嫌いを無くそうと思って、見た目がグロい食べ物を克服しようとしたりするときとか、見た目がグロいから苦手なのにその食べ物のことを考えるのとか論外だよね。今これを書きながら海鞘のことを思い出していたが、あれは見た目も食感も味も全部ダメなので胃が気持ち悪くなってきた。思考が妨げられているのをとても感じる瞬間をセルフで引き起こせる便利な思考体験だった。

まぁそれはそれとして、僕は小説を書きたいので小説を書くための準備段階というか、その設定とかプロットとかを考えたいわけだ。能動的な行動であるはずなので「え、わかんな~い」とか言ってる場合じゃないし、苦手……まぁ僕はプロットや設定を立てるのに割と苦手意識を抱いているタイプの書き手なので、別に得意得意!とか思って考えてるわけではないが、別に小説は書きたいので論外であるはずもない。

 

思考が散漫なのである。

一つのことを集中して考えるのがとても苦手だ。苦手、というのも、過去のトラウマや嫌な出来事にヒモ付けされた事柄にぶつかるとその体験が、結構な頻度でフラッシュバックしてくるというバッドステータスを持っていることに最近気付いた。自己診断なのであまりアテにはならないが、PTSDだと診断されるほど酷いものではないはずなので(フラッシュバック後にそれほど引きずったりもしない)、そういう風に脳が作られてしまったんだと思う。僕は常々過去の自分を八つ裂きにしたいという考えを持っているので、過去の自分に対する嫌悪感みたいなものが強く作用していることがわかる。あと、イヤな他人のことをネチネチ考えてしまう。気付くとそちらに思考が誘導されていて、小説のことを考えていたはずが、自分にどんどんストレスを与える物事に嫌悪感を剥き出しにした思考が繰り広げられていたりもする。それも最近わかってきた。わかってきたからといって特別対処のしようが無いもののように思うが、たぶんオペラント条件付けを試してみるのが良いのだとは思う。そういうことを考え始めたら深呼吸するだとか、太ももを何度も叩くだとか。色々試したりはしているのだがイマイチ定着しないので、脳を作り替えるのは根気がいる作業なのだなぁといったことを実感する。

これは脳内で考えをまとめようとしている時に起こる現象だ。つくづく非効率的な思考形態だなぁとは思うが、本当に非効率的なので困っているという話だ。

あと、集中力にムラがあるといったこともわかってきた。

特に、考える対象がハッキリしている場合は、それほど集中出来ないということも無い。書こうとしている小説がもう少しで書ける段階になりそうなときとか、読んだり観たりした作品のどこが良いと感じてどこが気に入らないと感じた、だとか。まぁハッキリしたものなんだからちゃんと考えられないといよいよ本格的にポンコツだと思うので、これはまぁ良い。問題は現状のような、ふんわりとした要素だけが浮かんでいるような状態だ。これを形にしていくのがとても苦手だ。ある程度カタチにしてしまえばこちらのモノなのだが、そこに持っていくまでにとても難儀する。散漫な思考にムラのある集中力が全力で邪魔しに来るワケだ。

そこで何か良い方法は無いかと思って、重い腰を上げて紙面に書き記していくことにした。最近何か良いエディタは無いものかと思って色々探してみた結果、パソコンに最初から入っていたOneNoteなるアプリがとても良いのではと思ったので使ってみることにした。これは実際の紙のノートの上位互換のようなもので、白紙のページに書いたものを好きに配置できる優れものなアプリだ。実際のノートは実際とても便利なアイテムなのだが、難点は紙の大きさが決まっている点と、コピー&ペーストとカット&ペーストが自由に行えない点だ。あと手書きは致命的に遅い。そういった諸々をカバーできる優れもののアプリを導入してみた結果、自分でも驚くような事態に陥った。

別にそれほど自信があるというワケでもないが、僕はまぁタイピングは速い方だとは思う。ここで書くのを一旦やめてタイピング練習サイトで少し遊んでみたが、まぁ最高ランクが取れたりするレベルの速度だった(5分で変換無しで1100文字いかないくらいは書けるみたいだ)。

まぁ、タイピングが速いとは言っても物事には限度がある。たぶん速記には敵わない。ドラマとかで役者が喋ってる言葉をそのまま書き記すのは変換入れたらほぼほぼ無理なのではないかと思うが、まぁそういうことだ。

ここ最近こういった体験があまり無くてホントに驚いたのだが、書きながら考えることで思考の指向性(ダジャレでわない)は制御出来るのだが、アイデア未満のものがどんどん湧いてきて、それが書くのに追い付かないといった現象に見舞われた。まぁテキトーなものを書くわけにはいかないので、思い付いたものはそれなりに精査する。精査しながら書いているのは、まだそれ以前に思い付いた前提のようなものだ。で、それはしっかり書いておきたいという意思も存在する。そうしている間にも思い付いた設定なりの精査を頭でどんどん繰り広げて甲乙付けたりしている。それは世界観設定に連なるものなので、カテゴリーが違うものについても並行して考えなければならないが、色々考えた結果たった今精査したものは設定として使えないということに気付く。書いた設定が没になる。それについてどこが使えないのかもっとしっかり考えたいということになって、手が止まって思考がどんどん逸れていく。前述したようなフラッシュバックに見舞われたりイヤなあれこれについて考えていたりする。ここで僕は気付く。もしかして僕はADHDなのでわ?いや、別にADHDについての詳しい知識があるわけではないのでテキトーな自己診断は自分にも他人にも良い結果をもたらさないぞ、ということでまぁその診断は棚上げするわけだが、思考が散漫であるという事実は揺るがない。まぁ僕の思考が散漫なのはこのブログの過去記事を参照してもらえば随所で確認できることなのだが、それにしたってあんまりだぞ、ということになって今に至っている。

こういう、あまりにも自分の脳の構造に根付いたあれこれってホント簡単には直せないものではあるのだけど、直さなければと強く思ってしまうね。嘆いても仕方が無いので、「僕にはこういう性質があるんだぞ」ということを強く実感させるために書いた記事だった。これが今後の創作に活きてくるのかはわからないが、この記事を書くために思考した結果はこうして残るので、忘れっぽい僕のことだから、忘れた頃になって読み返してハッとしたりしてほしい。お前のことだぞ、八神きみどり。

 

 

収まりが悪いのでマンガも紹介しておく。

これね、『やがて君になる』。サイコー百合マンガなので皆さんも読みましょうね。今すぐね。

 

そういえば先日誕生日を迎えていよいよな年齢になってきていよいよだなぁということを思ってるのだけど、何もしなくてもどんどん加齢して脳が凝り固まっているだろうなか、こうやって自分の直したいところを挙げてそれに向き合っていくのは、客観的に考えてまぁつらいことだよなぁと思わなくもない。向き合うべくもない自分のことなのだから、こいつイヤだなぁと思わないようなおとなになりたかったと強く思う日々ですね、ホント。

 

だいたいブログ書こうと思ったときは精神的に切羽詰まっていることが多い

気がしますね、いやマジで。

 

年が明けて新年度にもなって、はぁホントに時間の流れ速いわぁとか思ってたら前回記事を書いたのがちょうど半年前だった。

別に誰に何を発信するわけでもないブログだし誰が楽しみにしているわけでも固定読者がいるわけでもないのでその辺の心配をするつもりはこれっぽっちも無いのだが、半年も更新の間隔が空くとブログにも微妙な変化が現れる。あの、「このブログは〇日以上更新されていません」みたいなやつが表示される。確認してみたら90日以上更新されていないと表示されるみたいだ。もし表示されてなかったらバックスペース連打によって虚空に飲まれる話題だったからちゃんと表示されてて安心した。いや、安心してはいけない。何せそれを消すために今こうしてブログを書いているのだ。己の無気力と向き合うために……。

 

というわけで、無気力です。別に改まって書くことでもないが……。

別にこの半年間まったく無為な時間を過ごしていたわけではないのだが、具体的には本を読んだりアニメを観たり映画を観たりといった僕の脳にあれこれを入力するための行為は結構欠かさずにやっていた。特別URLを貼ったりはしないが、小説を書いて投稿サイトに連載するなどということもやっていた。まぁ、更新が止まって一ヶ月ほど経っているが、なんだ、それまでせっせと行っていた入力したあれこれが尽きてしまったなぁと思ったので気分を入れ替えるためにそちらに集中していたらいつの間にか無気力な人間としてせっせと時間をドブに棄てていた。改めて思い返して列挙してみて、自分でも愕然としているが。

そうなるにあたって自分の中で何かしらの変化があったのだろうとは思うが、正直あまり心当たりが無い。心当たりが無いままに時間をドブに棄てるのはとてもつらいので、それを食い止めなければならないと思ったワケだ。この「ブログを書く」という行為がそれを抑止するために働いてくれるのかどうかは定かではないが、人間は、いや、人間に関わらないが、過去に成功に結びついた行動を反復する習性があるように思うので(名前がついたもののように思ったがパブロフの犬やオペラント学習は少し違うように思うし、合っているようにも思うのでわからん。エポニムを総当たりしてみるべきか)、僕もそれに従ってみることにした。別にブログを書くことで即小説を書けるモチベーション!みたいなことにはならないとは思うが、まぁ何事も試してみなければわからない。少なくとも、前回ここの更新が止まったあたりで何かしら心境の変化はあったように思うし、そうなっていきたいなぁという意図が多分に含まれるブログ更新体験になっていければと思っている。少なくとも、今流行りのバーチャルユーチューバーのアーカイブを垂れ流しながら延々パズルゲームをやっている状態よりは随分マシに思う。あ、ちなみに僕は主ににじさんじ所属の物述有栖さんを応援しています。その話は……、する機会あるのか?無いことを願いたい。

とか書いている間に1000字くらい書いているらしい。1000字なんてまぁ脳直で書けば10分以内で書けてしまうしあっという間といえばあっという間だが、それにしたってあんまりな情報密度なので自分でもガッカリしている。別に実のあるお話を誰かに届けたいがために書いているものでもないので気にする必要は無いが、なんだろう、もう少し自分の心理状態をちゃんと分析したい。そういう本を買ってくると良いのだろうか。心理学についてはちゃんと勉強したいなぁと思っているのだが、本を買ってくるに至っていないのが現状だ。あ、そういえばこの前久しぶりに新書なんてものを読んだが、ラノベや文芸作品などばかりを読んでいた弊害か、完全に読み物として消費してしまって難しさを感じてしまった。別に全然お堅い本ではなかったが、その都度書かれていることに面白がったりつまんないと思ったりするだけでは勿体ない種類の本なのではないかと思ったら、もっとちゃんとした(ちゃんとしたってなんだ?)本を読むのが怖くなってしまったという気持ちも無きにしも非ずな読書体験だった。(最近は特に固有名詞や作中情報、台詞などを長期的に覚えておくことが出来なくて老化を感じる。別に、全然記憶力に自信があるタイプの……いや、むしろ自信が無いタイプの人間ではあるのだが……)話がぐわんぐわん脱線した。

 

意欲的な人間になりたいという意思は常々持っているのだが、それもここ数年ずっと燻ってる、とりあえずそう思っておけばマシじゃね?みたいな、お守りみたいな気持ちに成り下がってしまって久しい気がする。

僕はだらだらするのが好きで、インドアで、特に人間嫌いで、でもそれは決して人間全員が嫌いということじゃなく、波長が合って仲良くしてくれるひととは積極的に関わっていきたいという都合の良さが全面に出たタイプの人間なのだが、その二律背反性とでも言うのか、まぁ別に普通のことなのだろうが、他人に対しての対応の一貫性とかを考えていたら仲良くしてくれるひとたちとの関わり方がわからなくなってしまって、「あぁ僕って不器用だなぁ」なんて思いながら自分可哀想モードに突入して行き過ぎた自己憐憫に浸っていられたらただの笑い話になるのだが、割と深刻なエラーとして脳内に出力されているらしく、なんかその辺が自分で自分の精神をじわじわ蝕んでいるような気がしてはいる。実生活で関わらなきゃいけないひとと接したときに生じるストレスも多分にあるとは思う。僕は割と他人への興味が強い人間だった自覚はあるのだが、ここ数年で一気にそれが失せてきて、幸いにもあまり深刻に考えないようになっていたのだが、まぁ相手からアクションされる事案になると無力感を覚える。自分はそうしないようにしようと思って、でも不意に距離感を見誤って自分がアクションする側になってしまって、それが負の連鎖を呼ぶ。僕は常々インターネット環境がある山奥で誰とも直接的に関わらずに孤独に暮らしたいという願望を抱いているのだが、なんだろう、相手が、というより、自分が他人を不快な気分にさせたくないという気持ちが源泉になっているのだろうか。とことん自分に甘い見立てだが、無きにしも非ずといったところか。まぁ、例えば電車内とかメシ屋とかで近くにいる赤の他人が僕をイライラさせるといったことの方が圧倒的に多いのだが。(パーソナルスペースが広い、クチャラーを親の仇のように憎んでいる、等の例が挙げられる)

 

といったようなことをずらずら書いてみて、別に対策を立てたり改善したりといったことが出来るような事柄でも無いような気がするしチラシの裏だなぁって感じがするけど、普通に生活してると、僕みたいに対人関係において神経質だろう人間は基本的には精神が上向くようなことはあんまり無いんだろうなぁみたいなことを思ったりもする。だからこそエンタメ作品を摂取することでカンフル剤としたいのだが、それも博打みたいなものだ。昨夜観た映画はとても良かったのだろうが、僕はあまり良さを見出せなくて、何よりとても衝撃的な終わり方をして呆気に取られてしまったせいで何を思えば良いのかわからなくなってしまった。まぁ、それも圧倒的にそういうことの方が多い。こころが沸き立つような強烈な読書、視聴体験というのは得難いものだ。クリストファー・ノーランの映画を観たり観直したりした方が有意義な気がしてきたのでしようと思います。雑に自己解決してしまって自分にめっちゃ呆れてるのがジャスト今だが、まぁそれはそれとして。

 

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

 

最近読んだ本でも雑に紹介しようと思ったが「これ!」という本が無かったので観た映画を紹介してお茶を濁す

まぁ今更感あるとは思うが、最近ようやく観たんですよパトレイバー

OVAに新旧版があったりテレビシリーズも幾つかあったり劇場版も沢山あって実写版もあるのでどれから手を付ければ良いかわからなかったので押井守が監督してるやつを重点して摂取した。つまり旧OVA版と劇場版1と2。押井守の映画は『イノセンス』とか『スカイ・クロラ』とかは観たけどあまりピンと来なくて、だから評判の良いやつをちゃんと観ようと思ったのでこのチョイスになった。ネトフリとかアマプラに並べばビューティフルドリーマーも観たいんだけど、TSUTAYA行った方が早いのかもしれない。

いやぁ、良いですね、パトレイバー……。

個人的に一番気に入ったのは劇場版1。エンタメ作品として完璧な構成だったように思う。あとエヴァ以前のアニメと言われても出典調べなかったら信じられないかもしれないと思った。とても面白かった。劇場版2も翌日くらいに観たけど、こっちも良かった。お話の構成としては1の方が上手くまとまっていたように思うけど、モチーフというか、まぁ、柘植さんよね。こういう悪役はとても良いと思うし、何らか自分の中で落とし込めていきたいと強く思った視聴体験だった。

そんなところだろうか。

とても散文的な記事になってしまったが、まぁ、こんなもんだろう。

とりあえず今は「僕が最高だと思える最高のヒロイン」をずっと考えているので、それを形にしていきたいと思う。7月8月あたりを目処に長編を完成させてどこかしらに応募したいのでね、それを目指してやっていこうと思うんですけどね。頑張りたいですね、ホントに。

あの日いただいた大切なものについて

 

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

 

 

これは2012年8月12日のことだった。

東京ビッグサイトで行われたコミックマーケット82の3日目に、僕は知人のサークルのお手伝いとして参加した。巡り合わせというか持つべきものは友というか、思い返してみれば僕はコミケに一般参加として待機列に並んだ記憶があまり無い。ということは、この日もチケットで入場させていただいたのだろう。

僕はこの日、コミケに参加した。非常に不義理な話ではあるのだが、サークルのお手伝いよりもっと重要な目的があって、僕はこの日を迎えた。

お手伝いしたサークルは、俗に言うお誕生日席という場所に配置されていた。区分けされた島の中でも大きな通りに面した、まぁ結構目立つ場所だ。

その向かい側のスペースだった。

そこで、僕が尊敬する紅玉いづき先生が、同人誌を配布されていた。

 

紅玉いづき先生の作品との出会いは、恐らく『19 ―ナインティーン―』というメディアワークス文庫から発刊されたアンソロジーだったように記憶している。

『2Bの黒髪』という作品だ。

どこかにこのエピソードを書いた覚えがあったのだが、確認してみたらこのブログだった。何度も語りたいエピソードなのだろうかと自分に問い掛けてみたが、まぁ好きな作品はオススメしたいものだろうなとは思う。ともかく、その鮮烈な読後の後に冒頭に貼った(このリンクを貼るのも2回目だ)『ガーデン・ロスト』と出会い、僕は先生の作品の虜になった。少女小説という括りになるのだろうか。出会いが出会いだったから、僕は特に、先生が書かれる少女たちが主人公の、現代~近未来を舞台にした小説が好きだ。少し趣は異なるが『サエズリ図書館のワルツさん』も好きだし、『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』はド直球で、これは大事な時に読み返す小説として大事にしている。もちろん『人食い三部作』も外せないが、僕個人の思い入れという意味では、先に挙げた作品たちの方が強いものがある。

 

小説を読む上で重要視しているものが個々人で異なる点については言うまでも無い。

奇抜な世界観だったり、凝ったギミックだったり、人間関係や人間模様だったり、その中でもSFやミステリ、歴史小説架空戦記、もっと大雑把に現代日本を舞台にしたものやファンタジーなど。まぁ、色々ある。僕はミステリ以外は基本的にはなんでも読もうと思っている読者だ。最近はラノベに偏ってしまっているが、これは精神的ハードルが大いに関わっていることだと思うので、調子が良いときでないとそれ以外を手に取るのが難しい傾向にあることはなんとなく自覚している。

僕が最重要視しているのは、人間の感情だ。

それが深刻に書かれているものであればジャンルは問わない。ミステリを好んで読まないのはこの辺が理由になっているような気がする。僕が認識しているミステリは、人間の心理を重要視しない。殺人ありきで、トリックありきという認識だ。まぁ「ミステリは読まないよ」と言いながら、ちゃんと読書するようになったのは、高校生の時に出会った西尾維新先生の『戯言シリーズ』だったりするのでつくづく自分の好みなんてアテにならねぇなとは思うのだが(このシリーズをミステリと括ってしまうことには若干の抵抗感もあるが)、ともかく、僕はそれを一番大事にしているし、一番大事にして欲しいと思っている。

一番大事にしていることが明白だったから、僕は『ガーデン・ロスト』が好きなのだろう。連作短編の最終章表題作『ガーデン・ロスト』は、本当に深刻にそれが描かれている。し、なんだろう、途轍もない切実さを筆致から感じた。僕にはこれっぽっちも馴染みの無かった世界の話なのだが、だから強烈に胸を打たれたことを覚えているし、今でも読み返して胸が苦しくなる思いがある。

総じてそういう作品に弱い。先日読んだ『りゅうおうのおしごと!』の3巻なんかは本当に読んでいて苦しかった。

なんかこう書くと苦しくなることを求めてるヘンな欲求を持った読者みたいに思われるかもしれないが、それほどの没入体験を得たいのだという話だ。好きか嫌いかに関わらず、それくらい僕のこころを掻き乱してくれるようなちからを持つ作品でなければ満足は出来ない。そう、満足したいのだ。数年前まで深刻だったバッドエンド症候群が最近改善し始めて、逆にハッピーエンド至上主義みたいになり始めてこれはこれで不味いのではと思いながらも、まぁ納得出来る終わりや納得出来ない終わりなどなど色々あるが、どちらにせよ、強烈な感情の振れ幅を僕に追体験させて欲しいという話だ。その1点を、僕はそれほど長くはない読書歴、執筆歴の中で、ずっと追い求め続けている。

 

と、まぁそういう経緯があって(どういう経緯だ?)、僕は鞄の中に『ガーデン・ロスト』を忍ばせてコミケに参加した。

非常に浅ましい気持ちであることは重々承知しているのだが、あわよくばサインを頂こうという魂胆だったのだ。尊敬する先生の作品に、尊敬する先生のサインを目の前で書いてもらうなんて、そうそうしてもらえることではないという認識があった。サイン本が店に並んでいることはままあるが、あらかじめサインしてもらった本を買うのとは違う格別さだ。僕はイベントなどに足を運びまくるアクティブな人間でもない。

何より、紅玉先生はブログやツイッターで、それが最後のサークル参加だと告知していた。

この機会を逃すわけにはいかないという思いがあった。だからお手伝いもそこそこに、僕はじっと機会を窺いつつ、ずっと賑わっていた先生のスペースからそこそこひとがはけたタイミングを狙って、ついに『ガーデン・ロスト』と財布を持って先生のスペースに向かった。

 

そこからの記憶は、少々曖昧だ。

僕はメンタルが弱いので、緊張するシチュエーションに本当に弱いのだが、それにしてもあそこまで緊張するとは自分でも思わなかった。

売り子のお姉さんに心配されるくらい身体が震えた。ガクガク震えた。同人誌を買って、あまり大っぴらに列を作ったりしないでと軽く注意されて(サイン会ではないのだから当然だ)、それから僕の番になって、先生と少しだけ言葉を交わすことが出来て、サインを書いてもらって、そのときに僕の名前を書いてもらえることになったのでペンネームを伝えたら、僕が当時あまりにもツイッターで先生の本のことをぺちゃくちゃ呟いていたせいというかお陰というか、なぜか先生から認知されていて、僕がプロを目指して小説を書いていることもご存じで、握手していただいて、応援の言葉とともに背を押していただいて(本当に背中を押してもらった)、それから僕は朦朧としながら喫煙所に行ったのだが、思い返してみると……、うん、結構覚えてる。それから先の記憶は本当に無い。

「絶対に報われますよ」と、確かそう言っていただいた覚えがある。

僕は本当に、本当に本当に感激して、そうして5年が経った。

 

僕はそれから何度かラノベの賞に応募した。

万年1次落選ワナビだったのだが、某賞でいきなり最終選考まで進み、その次に某賞でそれなりのところまで進んだものの、結局両方とも落選した。

それから僕の精神は低迷し、今、こうしてこの記事を書いている。

 

この記憶をこれ以上劣化させないためと、このときのことを鮮明に思い出したかったからだ。

本当にプロになりたいのなら、精神を低迷させている場合ではないことなどわかっている。決して選考で落ちるために小説を書いているわけではないが、まぁ十中八九は落ちる。自分の考える「面白い」が届かないのだ。それは技術的な問題かもしれない。好みの問題であるかもしれない。自分の思考が狭いのかもしれない。書いた小説に対する思い入れが浅いのかもしれない。まぁ、色々考えられる。色々考えられるが、書かなければ始まらないことは言うまでもない。僕は現状書けていない。書いている小説は幾つかあるが、どれも書きかけのまま止まっている。精神がストップを掛けてくる。言い訳かもしれない。まぁ、言い訳だろう。作品が面白い面白くない以前に、書いているひとが正義で、書いていないひとが悪なのだから、そこに言い訳を挟む余地は本来無い。それはわかっている。わかっているから、何とかしようとしている。精神を上向かせるための手段を渋っている場合ではないと思ったから、この記事を書こうとした。これは僕のとびきりの記憶だ。この記憶を掘り起こして記述した先に、かつてのようにがむしゃらに書けていた僕がいるのであれば、そこに手を伸ばしたいと思った。絶対に報われたいと思ったのだ。だって、絶対に報われたいじゃん。絶対に、報われたいよ。

というようなことです。

まずは気持ちを上向けることにがむしゃらになりたい。単調な日々の中でモチベーションを保つ術を思い出したい。

頑張りたいですね。頑張りますよ。なんかそういう気持ちになれてきた気がするし、これを一過性の気持ちで終わらせないよう維持していきたいよ、本当に。

 

 

これは余談なのだけど、その少し後に先生がインタビューというか、コラム的なものを文芸誌に書かれていたのを読んだ。

そのときの僕は金欠で、今その雑誌を買わなかったことを本当に後悔しているのだけど、それは立ち読みして、そこに書かれていたことは今でも覚えている。

握手した人間の才能の有無がわかる、と、先生は仰っていた。

これは、本当にダメージが大きい話だった。

 

創作者というのは難儀なもので、自分には才能があると思っているし、無いとも思っている、そういうジレンマを抱えた生き物であると僕は認識している。まぁ色々なひとがいるので、全員が全員そうであるとは思わないけど、才能があると思っているから創作をやめられないし、才能が無いと思っているから創作を続けてしまうような側面はあるんじゃないのかなって、そういう感じの認識だ。特にアマチュアの創作家は。

いやぁね、あのとき握手をしていただいて、そのとき何を思われていたのかしら。

考えても詮無いことだし、「才能が無いよ」って言われたからやめるかって言われたらそんなことは絶対に無いし、僕のことは僕が決めるし、まぁ才能に溢れてるならとっくにプロになれているんじゃないかとかそういうあれこれはまぁアレとしても。

うん。

頑張りたいですね。この一言に尽きてしまうんだよね、結局。

頑張っていこうと思う。

挫けてしまうことが多い日々をおくっているけれど、だらけることが本当に得意な性格をしているけれど、頑張らなかったら生きてる意味が無いよね。少なくとも僕はそう思う。

年間52冊は小説を読みたい気持ち

1年間は52週間あるらしい。

それが52週間 “も” であるのか、52週間 “しか” であるのかは個々人の見解にも依るところだとは思うが、それはそれとして、僕は先日365を7で割ってみる計算などをして、その結果に戦慄した。

1週間に1冊小説を読んだとしても、52冊しか読めないじょん!!

これが52冊 “も” であるのか、52冊 “しか” であるのかは個々人の見解にも依るところだとは思うが、それはそれとして、僕は年間100冊くらいは小説を読みたい願望があったので、その実質半分である52冊という数字に驚きを隠せなかったのだ。

と思い、おもむろに読書メーターを開いて今年読んだ本を数えてみた。

39冊だった。

今日は10月4日の水曜日だ。今年も275日が経過し、残るは90日といったところだ。もうそんなに過ぎてるの!?時間の神様無情すぎィ!!などと頭を抱えている間にも、かしこい僕は頭の中の電卓を叩いていた。およそ3秒の時間を念入りに費やした結果、およそ1週間に1冊のペースで読んでいる計算になった。即ち、これから毎週1冊ずつ読書していくと今年は52冊読める計算だ。

僕は「なるほど」と思わずこぼした。

年間100冊読むことがどれだけ難しいことかを実感したのだ。夢物語だったということだ。冷静に考えて、3~4日に1冊は読んでいなければ達成出来ない目標だ。この部屋にある大まかな積読本の冊数は把握しているつもりだし、それは当然読む本に困らない状況ということでもあるし、にも関わらずまた本を沢山買ってしまったのだが、まぁこの目標をこなすために3年書店に足を伸ばさずとも積読本がある状態であることには目を瞑るが、いやそもそも電書でも買っているのだから書店に足を伸ばす伸ばさない云々はまったく関係無いのだが、ともかく。

52冊って聞くとめっちゃ少ない気がする。

シリーズもののラノベを3タイトルくらい買ってきたらもうあとは買わなくても良いレベルだ。20冊を超えているシリーズもちらほら見るので、その要求は簡単にクリアできる。

100冊にしたところで、決して多い数とは言えない。

その月に出る文芸ラノベ翻訳小説などなど、ハードカバーからソフトカバー、文庫になんか他のあれこれまで合わせて全部買ったら小説だけで100冊なんて余裕で超えてしまいそうだ。その月で出る小説が100冊以上かもしれないのに年間で100冊に絞るってのは、数だけ見ればなかなか難しいことのように感じる。実際は……まぁ書店にいるときの気分とか財布の中身とかによる。古書店も利用すればハードルは更に下がる。万札を握りしめて100冊買ってくることなど全然難しくはない(某チェーン店を利用する時には消費税800円も一緒に持って行かないといけないから気を付けよう)。

読書をする行為が強迫観念に成り代わってしまうことについては以前の記事で書いた。自覚症状的に、結構危ういところをうろうろしているような気はしているが、幸いにも面白いラノベばかりを読めているので気持ちも前向きになっている気がするし、創作するにあたってのモチベーションに繋がっている手応えはある。先日はシリーズものの最新刊まで読み終えたあとに、布団に入って電書で単巻完結の小説を1章まで読み終えて寝ようと思ったらうっかり最後まで読んでしまってえらい目に遭った。面白い小説はこちらの生活のことなど考えてくれない。今年に入ってから39冊読んだことは前述したが、その内の4割くらいは先月くらいから読み始めた分なのでペース配分もおかしい。やる気というか、能動的に何かをしようと思えない時期があまりにも長くあったことが窺えるが、もう一度その状態に戻らないためにも、なんやかんやして自分の気持ちを盛り上げていきたいところだ。

ともあれ、こういう話をすると「冊数読めば良いってもんでもなくない!?」って言われることがあるよね。

確かに面白くない小説を選りすぐって100冊読んだところで得られるものはあまり無さそうだが(面白くなさに付きまとう“情報”には価値があるとは思う。同じ轍を踏まないために)、あなたは小説を買いにいくときに面白そうな本を選んで買わないワケ?という気持ちもあるので、余計なお節介な気がする。面白そうな本がつまらなかったなんて話は道端の砂利粒ほども転がってることなので、もっと慎重にことを進めるならレビューとかも参考にするだろうし、まぁ、あれか。何も読まないよりは100倍マシだよってことで。

 今日はなんか脳が取り留めもない感じなので散文的になってしまった。何が言いたかったかと言うと、「1週間に最低1冊は読みたいよね。で、それを続けてたら年間52冊の計算になるよね。最低限それくらいは小説読んでいきたいよね」ということだった。

なら最初からそう書けば良かった!と思っているのがジャスト今。

 

本を沢山読んだので紹介していく。

『とある飛空士』シリーズの犬村小六先生が送る新シリーズ。

僕はこう、気高いお姫様とかそういうヒロインにとても脆弱性があるので、気高いお姫様とかそういうヒロインにとても脆弱性がある皆様にオススメです。

あまり戦記物って読んだことがないので他の同ジャンルと比較してあれこれ言えないのが残念だけど、少なくとも僕は好きです。

ファニア・ガルメンディア王女殿下を信じてください。

僕から言えることは以上です。

 

先日1章だけ読んで寝るつもりがうっかり最後まで読んでしまった小説がこれ。

高木敦史先生は『“菜々子さん”の戯曲』シリーズを読んでめっちゃ好きになった作家さんだ。青春ミステリなんだけど結構毒のあるお話を書かれる方で、それがめっちゃ好きだ。ライトミステリというか、ミステリ自体僕はあまり好んでは読まないのだけど、人間をしっかり書いてくれるので僕の好みの範疇だ。菜々子さんもそうだったけど、鉢町あかねさんもとても良かった……。

安楽椅子探偵ならぬ暗室探偵なのでその辺好みはあるだろうけど、そういう目に見えるシチュエーションというより、追うべき部分を追うことの方が重要だと思うので、読み方さえ間違わなければ楽しく読めると思う。

オチがまた憎いんだよなぁ……。

 

さっき1巻読んだばかりだけど、アニメ化、めっちゃ楽しみですね!!

 

そんなところだろうか。

秋アニメも始まってしまうし、季節の移り変わりマジで恐いんでそろそろマジでエンジンかけていきたいですねマジで。

失恋モブという概念があるらしい

ことを知ったのだが、天下無双のグーグル先生に訊いてみたらどういう概念かをまとめてある記事などは見当たらなかった。そこから引用して簡単に説明しようかと思ったが、まぁ語感からある程度は類推可能な、そう難しくはない概念だとは思う。

 

“モブ(英:mob)とは、「群衆」「群れ」「暴徒」「十把一絡げ」などを意味する英単語である。 また、アニメや漫画では人が沢山いるシーンを「モブシーン」と呼び、群衆状態になったキャラを「モブキャラクター」と呼ぶ。

 さらに2ちゃんねるやpixivでは上記の意味が転じて、役者で言えばエキストラにあたる端役キャラや、狂言回しの無名キャラのことを「モブ」と呼ぶ場合がある。

 

以上はピクシブ百科事典からの引用だ。モブとは確かにこういうものだが、こうやって平易に噛み砕いて理解しやすい言葉としてまとめてくれるととても助かる。小説を書いている身ではあるが、概念についてわかりやすく説明してくれと言われると、やはり難しさを感じてしまうね。

つまるところ、モブとは固有名称や固有のビジュアルを持たない無名のキャラクターのことだ。物語の進行上、重要な位置にいることもあるだろうが、主要なレギュラーキャラクターではないことが重要だろう。……とまで書いて、例えば、物語の進行に深く関わらない端役としての主人公の両親などはモブと呼んで良いのかどうかということを疑問に思った。異世界転生ものの、現代側の主人公の両親とか。あまり数は読んでいないのでこれが異世界転生テンプレとして正しさを持つのかは自信が無いが、転生に至るまでの本当に短い過程の中でチラッと登場したり、現代の生活の回想でこちらもチラッと言及されたりみたいなのとか、もうほとんどモブと言っても違いない(物語に対しての)影響力しか持たないはずだが、でも「主人公の両親」って属性はあまりモブって感じがしないよね。両親という存在に対する培われた刷り込みみたいなものを感じる。話が逸れた。要するに主要キャラクターたちにとってはどうでも良い存在なのだ。マンガやアニメだと顔すら描き込まれていないモブも結構見るし。

失恋に関しては、まぁ、引用するまでもないだろう。

恋が実らなかった状態だ。好きなひとに自分の気持ちを伝えたら、それが丁重であるかぞんざいであるか嫌悪感剥き出しであるとかまぁ色々なパターンはあると思うが、その気持ちに応えてもらえなかったということだ。恋人になれなかったのだ。貴方のことは人間としては嫌いじゃないが異性としては見れない、貴方のことは本当に嫌いだからこの告白は私の頭の議事録から完全に削除して欲しい等々言われて突っぱねられてしまった後の祭りだ。ほろ苦い悲しみなのだ。好きの裏返しは無関心だなんてどこかの作家や偉いひとが言っていたような覚えがあるが、この場合は憎悪に転じてしまうことも有り得るから必ずしも無関心が好きの裏返しではないと僕は思う。なんか色々な記憶が頭の中を過ぎっていたので、この話はこのくらいにしておこう。

つまり失恋モブとは、恐らくその作品の主要キャラクターでない身分でありながらも主要キャラクターに告白し、振られてしまったモブキャラクターのことを指すであろう事実が朧気ながら浮き彫りになってきたわけだ。

先日、とある方が、ソシャゲのキャラクターに対して熱い気持ちを吐露している発言を見掛けた。

ここで重要なのが、その方のその発言は、そのキャラクターと男女としての仲、恋仲になりたいと明確に想像していながらも、それが失恋として(あるいは告白出来る決定的なチャンスを臆病心のせいで永遠に逃す)終わることを前提とした発言だったのだ。

僕はその発言を見て、驚愕の表情を浮かべた。

なぜなら、僕はそれと同じ類いの願望を、その方が発言する以前から抱いていたからだ。

後ほど、その方が「失恋モブ」と、概念として非常に理解しやすい言葉としてその状態を定義してくれて、僕はなるほどと膝を打った。元々僕が抱いていた願望は既に言葉になっていたのだ。ならそれほど珍しい願望ではないのかもしれないし、こういった願望を抱いている層はそれなりに存在しているのかもしれない。そう思ってこの記事を書こうとし、だがそれほど一般的な願望ではなかったらどうしよう……と思いながらグーグル先生に尋ねてみれば「わがんね」と一蹴され、僕はこの概念がオタク界隈(いや、オタク界隈に限らなくとも良いのだが)でどのような立ち位置を築いているのかわからず頭を抱えているのが今だ。

かつて、オタクたちは口を揃えて「嫁」と言った。

自分が好きなキャラクターを、自分の配偶者や伴侶として想定したがったのだ。「俺の嫁は〇〇。お前は?」みたいなことを僕も訊かれた覚えがある。当時はそれが当たり前のように感じていたので、僕もそれに「××だよ」といったようなことを答えた覚えもあるが、どのキャラクターを挙げたのかは覚えていない。だが、なんとなくの違和感を覚えたことは覚えている。「お前が言うその嫁キャラってのは、そのキャラクターが登場する作品の主人公、あるいは別の異性なり同性なりに恋愛感情を抱いた結果デレるなりツンツンするなりの固有の反応を見せているわけであって、別にモニターや紙面越しのお前らの嫁になりたいわけじゃないのでは?」といったような違和感だ。媒体としての特性を活かせば……、まぁ、エロゲのことだが、主人公として没個性的な要素を満たしていけばモニターや紙面といった明確な境界はそれなりに曖昧にすることが出来るのだろうが、基本的には主人公には主人公としての名前があるし、ビジュアルが存在する。選択肢を選ぶといった、主人公的な、物語に明確に介入出来る立場に立てるシステムも存在する。だが、例えばヒロインたちとの会話の1つ1つにまで我々が介入することは現状不可能だ。シナリオライターが書いたものを読み物として消費している以上、我々はどこまで行っても主人公の視点を借りるだけの傍観者としてしかその作品、その物語には関われない構造になっている。であるのならば、そのキャラはやはり我々の嫁ではないわけだと思うのだが……、まぁ、これは僕の「個人の感想」というやつです。

というような風潮は、しかし、僕の狭い観測範囲の中に限るが、あまり見られなくなってきたように思う。「推しキャラ」という万能の概念が登場している。アイドルのファンのようなものだろうと認識しているが、これは明確に、自分とキャラクターに直接的な関わりが無いことを示した概念ではなかろうか。「ママ」という業の深い概念も登場した。もはや恋愛対象ではないのだ。バブみを感じてオギャるなどという地獄に落とされても文句が言えないようなパワーワードも、まぁしかし当時ほどは見なくなった。いや、決してバブみの話をしたかったわけではなかった。

僕は少なくとも現在、キャラクターを嫁にしたいという願望は露ほども抱いてはいない。そのキャラクターは僕に対して笑いかけているわけでも、親しげな態度を取っているわけでもないことを理解しているからだ。僕はそのキャラクターの魅力を引き出せる要素を何一つ持っていない。恋愛感情に基づく好意を向けられる余地が存在しないのだ。僕は自分が卑屈な人間であることは重々承知しているが、それにしたところで、そのキャラクターが恋をしているのはそのキャラクターが登場する作品の主人公であったり、別のキャラクターなのであって(あるいは恋すらしていないかもしれない)、その主人公に自分を重ねることは出来ない。それは感情移入というレベルを超えた没入だよね。それが出来ることは、しかし羨ましいとは思う。その作品がそれほど愛されている(とは違うかもしれないが、その当人にとって何かしら特別な作品ではあるだろう)のもまた、すごいことだとは思う。

で、卑屈な僕はこう考えるのだ。

その作品に登場するモブになりたい、と。

モブになったからといって、そのキャラクターとの接点は作れないだろう。だが、運の良い接点を見出すことは可能だ。学園モノなら隣のクラスの生徒、出席番号14番とかその辺だろう。ファンタジー作品なら、主人公パーティが立ち寄る町の町人Yとかその辺だ。無理矢理接点を作れなくもない立ち位置だ。それは都合が良い妄想だろうが、それくらいの都合の良さくらいは許してもらってもバチは当たらないはずだ。

で、卑屈な僕は次にこう考える。

その微妙な繋がりの中で作れる限界の関係を築き、抱いた淡い恋心が一切成就することなく、そのまま関係を繋ぎ止めておくことも出来ず、何年後何十年後に相手が夢を叶えるなり結婚するなりして幸せになっていることを風の噂で知って、ほろ苦い気分に浸りたいなぁ、と。

どうだ、これが卑屈な人間が考える精一杯譲歩した妄想だぞ。気持ち悪いだろう!笑いたければ笑え!銃なんか捨てて掛かってこいよ!!

「青春時代の綺麗な思い出」というものに過剰なコンプレックスがあることが窺える独白になってしまった。離別というモチーフに対しても惹かれるものがある。現実は別れた後も人生や生活は続いていくし、それは往々にして綺麗なものではないのだが、創作は瞬間瞬間で切り取ることが出来るから、一番綺麗な状態をピックアップ出来るしサイコーだと思う。報われたいという願望が結局報われないという想像力の限界も自分の身の丈以上にはなれないって現実を振り切れてなくて自分のことながら面白い。面白くはない。面白くないんだよ?でも、でもさ?自分の推しキャラとクラスメートだったりして、たまたま委員会が同じになったりして、ちょっとずつ話したりたまたま駅までの5分の道のりを一緒に帰ったりして友だちになれてさ、なんかこの子のこと好きかも……って気付いたのが高校3年の秋とかだったりして、その推しキャラは都会の芸大に行きたいってことも知るわけだ。委員会の仕事もなくなって、本格的に接点もなくなって、その推しキャラが無事芸大に入学が決まったことを知って、でも話し掛ける機会が無いまま卒業式当日になって、仲の良い友だちに囲まれて泣いたり笑ったりして話してるところに踏み込んでいく度胸も無くて、でも向こうがこっちに気付いて駆け寄ってきてくれて、一言二言喋って、告白するならこのタイミングしかないってわかっていながらその僅かな一歩を踏み出せなくて、「じゃあ元気でね」って別れて、家に帰ってから本当に死ぬほど後悔して、でも告白したところで意味無いってこともわかってて、で、それから10年くらいして地元でばったり出くわして、お互いに時間潰してるからって喫茶店とかに行って近況報告し合って、ホントに何気なく言われた「わたし去年結婚したんだ」って報告を聞いて、自分の気持ちに必死に蓋しながら「おめでとう」って言いたい。そういう願望があることからは目は背けられないんだよ。

背け、られないんだよ……。

僕から言えることは以上だ。

なんだこの記事は。

まぁ、そういう概念があるらしいのだ。

本当にあるのだろうか。僕は今とても不安だ。

継続し始めた行動が強迫観念に成り代わる気持ちについて

読書、アニメ視聴、映画視聴において顕著に現れる自覚がある。

今日は本を買いに外に出た。僕は外に出るのが、いや、人間が密集している場所に行くのがあまり好きではないタチなのだが、電子書籍を積極的に利用し始めようと思い始めた(KindleやBookWalkerなどのサービスが、パソコンでの読書環境を整えやすくなっていたからだ)今でも、やはり紙の本が好きだ。物を所有する、特に本を所有する、購入するという行為が好きなのだろう。だが、物理書籍を買うためには外に出なければならない。書店の品揃えに文句を言いたくなければ、繁華街の大きな書店に足を伸ばすことになる。必然的に人間が密集している場所を通過することになり、ひとは何故こんなにも集まりたがるのだろうかということに寸刻思いを馳せ、それは好きな本を物色している最中にはすっかり忘れることになる。

今日は本を買うぞ、という目的を強く意識していたため、最終的に10冊も本を買ってしまった。ここ最近は積読本が減っているようなイメージもあり、前々から読みたかった本や直近での最優先の本、読もうと思っていたが忘れていた本などを買い足した。僕はここで気付いた。例えば、最新刊まで読み終えた『弱キャラ友崎くん』シリーズ。これは別に1巻発売当初から追っていたシリーズではなかった。4巻が出てから、一気に4巻まで買い揃えて読み終えたのだ。今この記事を書くまで5巻の序盤を読んでいたシリーズ『筺底のエルピス』も、長らく積んでいる本の中では新参に近い。ということは、その2シリーズとあともう1シリーズ(2巻まで出ているラノベだ。これは以降追う予定が無いシリーズであり、内容に関して触れるつもりも無いので割愛させていただくが、直近で買ったシリーズだ)合わせて今月に10冊近く読んでいるのだが、積読本の中でも最新参の連中を読み終えて積読を崩した気になり、同じくらいの冊数を買い足しに書店に向かったわけだ。この事実に気付いたとき、僕は戦慄した。具体的には今だ。別に、買った本を是が非でも読まなければならないという決まりは無い。お金を払って本を購入し、自分の所有物となった本を購入者がどう扱おうが、基本的には誰にも責められない。だが、読んだ本の価値は、読み終えた後に、読んだ本人が決めるものだ。であるならば、この部屋に何冊もある積読本は現状無価値の紙束の集合体であり、僕は日々、未だ無価値の紙束の集合体に埋もれた部屋で暮らしている、ということになる。そう考えるとほら、なんか不味いことしてるような気がしてきた。買った本は読もう!いや、本当に、読みましょう。僕が言えた義理では無いけども。話が逸れた。

まぁつまるところ、今の僕は割と読書熱が熱い(ヘンな日本語だが)状態にあるのだ。僕は読書量を管理出来るサービスを利用しているので、今月(2017年9月)内に9冊のラノベを読んだことが確認出来る。3日に1冊くらいは読んでいるペースだ。読書家だなぁ!というと見劣りするペースのように感じるが、そう悪くないペースだとは自認出来る。本当は積んでいる翻訳小説や文芸作品なども交えて読めれば良いのだが、シリーズものは一気に読んでしまうのが望ましい。というわけで、そう悪くないペースだと自認出来る速度で本を読んでいるわけだが、これがそろそろ強迫観念に成り代わる時期に突入することは経験則で理解出来ている。

アニメ視聴に熱が入っていた時期、僕は1日1クールのペースでアニメを観ていた。さすがに一週間ぶっ続けというわけでも無かったが、かなりのペースでアニメを観た。僕の眼球(眼球の周りの筋肉かもしれない)はかなりタフなのだが(真っ暗な部屋でケータイを弄る日々を年単位で続けても視力が落ちない)、そのタフな眼球が休養を求めるレベルでアニメを観続けた。最終的には半ば強迫観念に陥っていた自覚はある。映画に対しても同様のことを行った。それをしないと落ち着かない状態なのだ。これを強迫観念と呼ばずに何と呼ぶのだろう。まぁ別にやめられないわけではないのだが、やめると一気にそれに対する意欲が無くなってしまうため、そうなるのが恐いのだろうか。非常に両極端な自分のこの性質が、とても煩わしいものだとようやく自覚出来るようになってきたのがここ最近だ。

読書をするのも、アニメを観るのも、映画を観るのも、それを楽しむためにする行為だ。誰から課された義務でも無い。観たり読んだりすることを強要されているわけでもない。だが、自分がそれをしないことが許せなくなる。いや、正確にはそれをすることで無為な1日ではなかったのだと自覚したいのかもしれない。単調な日々をおくっている自覚は強くある。久々に再会した友人に、何も話すことが無いことはその都度実感する。なればこそ、そうではない状態で居たいのだろうか。個人の感想にその個人以外に対しての価値が無いことを自覚し始めたあたりで、「面白かった」「僕は好き」等、他人に話すほどの感想を練らなくなり、それもそういう場や他人に薦めたいときにしか言葉にしなくなった。ならば単調ではない日々だと思い込みたい意味は、対外的には存在しない。何が強迫観念の発端になっているのだろう。自分でもよくわからない。

何が言いたかったのかと言うと、この両極端な性質を強く実感して、コントロールしたいのだ。この場所に独り言を書き連ねるようになってからは、波はあるものの、肉体的疲労感に包まれてでもいないかぎり、それなりに無気力さからは脱却出来ている自覚が芽生え始めている。ラノベに限ってはいるが、読書もしている。アニメも多少は観ている。本を手に取る、配信サイトの再生ボタンを押す、という行為は、無気力な人間にとって、とてもハードルが高いワンアクションだ。それに対する抵抗が無くなっているのなら、それをしなければならないという自分に強いる意識をコントロールしたい。あまり共感を得られなさそうな記事になってしまったが、何に対しても、強く自分を律したいという気持ちはずっと抱き続けている。

自分を変えるためには、自分を自覚し続けなければならないと思っている。

創作は決してハードルが高いものではない。やりたければやる。やりたくないならやらない。あるのはそれだけだ。そのハードルが高くなってしまった今の自分に、そうではない事実を刷り込まなければならない。やりたいのに出来ない状態は苦しい。他者がカンフル剤になることは無い。そもそも、動機を外に置くのはとても危険なことだ。

自分を、自分が思い描く良い方向に向かわせてやりたいものだ。

それを自分に言い聞かせるための記事ばかり書いてもアレなので、たまには読むひとを楽しませる記事も書きたいと、思ってはいるのだが。

 

阿波連さんははかれない 1 (ジャンプコミックス)

阿波連さんははかれない 1 (ジャンプコミックス)

 

収まりが悪い記事になってしまったので、オススメのマンガを紹介してお茶を濁す

阿波連れいなさんを、水あさと先生を信じろ。

僕から言えることは以上だ。

筺底のエルピス4 ―廃棄未来― を読んだあとの気持ち

 

読んだら感想を書くみたいなことを前回書いた記事で書いたような覚えがあるし、ちょっとこれは簡単にでもこの読後の気持ちを記しておくべきなんじゃないかなって思ったので、書いておこうと思う。

筺底のエルピス』という作品はこれ、ジャンルはどういったものになるんだろう。伝奇SFとかそういう感じ?あまり伝奇小説を読んだことがないので、「いやこれは伝奇小説ではないよ」って言われたら「そうッスか……すんません……」って気持ちなのだけど、軽く調べてみた感じそう違っているということもなさそうだ。

感想にしたところでこの作品がどういう作品なのか記しておかなければ、ブログなんてチラシの裏にしても読むひとたちに全然伝わらないんじゃない?って思って設定を少しずつ書き出していこうと思ったんだけど、いや、実際にちょっと書いてみたんだけど、恐らく本書を1巻から読んだ方が早い。なのでここには書かない。Amazonの作品ページに恐らく書いてあるので、興味があるひとはそっちを読むのが尚早い。右側にワンクリックで購入出来るボタンもある。文明だ。今すぐ買って読もう!違う、それじゃあ感想を書く前に記事が終わってしまうのでもう少し待ってほしい。

というわけなのだが、一応本シリーズは5巻が現在(2017年9月26日現在)の最新刊ということになっている。であるのだが、確か4巻から5巻が出る間に1年ちょっとくらいの空白期間があったはずだ。

その間、4巻の感想(というか反応かな)は幾多も目にしてきた。その間に具体的なネタバレを踏まなかったのが奇跡だというくらいの頻度で見てきた。そのとき僕は2巻までしか読んでおらず、なんか精神的に良くなかったのか(前回の記事で書いた覚えがあるが)あまりしっくり来なかったので4巻まで買ってきていたにも関わらず先を読むのをやめて1年以上の時が過ぎた。そうして5巻が出た。先月(2017年8月18日)の話だ。僕は4巻を読了したひとたちの反応を思い出した。「こんなのって無い」「この先どうするんだ」「あまりにも酷すぎる(褒め言葉)」といったような反応を幾度も目にして、僕はようやく読み進めることを決めて、先ほど読み終えた。読み終えた僕は思わず言葉にした。「こんなのって惨すぎる……」と。

何を言ってもネタバレにしかならなそうなので何も言わないが、もしこのペラッペラな記事を読んで『筺底のエルピス』に興味が湧いた方がいるのなら、少なくとも4巻までは手元に置いた状態で読んでほしい。そして、是非4巻まで通しで読んでほしい。ハードルを上げるつもりは無いのだが、あまりの惨さに、僕はしばらく放心状態になった。現在手元に5巻は無いので、近々買ってくる予定だが、この先の展開はまったく予想できない。作者が何を書こうとしているのかの片鱗さえ掴めないまま、ただ続刊を買いに行くことしか僕には出来ないし、5巻を読んだら読んだで6巻を震えながら待つことになるだろうことも想像に難くない。

しっかりした骨太の設定に世界観、臨場感あるバトル描写、これでもかと書かれた人間描写。息をつかせない展開の目白押し。咀嚼しやすく半自動で飲み込めるわかりやすいライトノベルはいったん休憩して、読み応えのあるラノベに手を伸ばしたいと思っているひとにこそオススメです。

僕と同じ気持ちになれ。

一緒に引き返せない場所に行きましょう、是非。