Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 9/28(金)の気持ち

特段、習慣化するつもりは無かったのだが、思考整理のついでという感じでちょこちょこ書いていこうと思う。

長編のネタを考えている。小説をちゃんと書き始めようと決めたときから考え続けてはいるのだが、これがなかなかまとまってこない。どうやったらまとまるのだろう、ということもずっと考えている。こればかりはなんというか、タイミング的なところもあるので、考えても答えが見付からないのはわかっているのだが、でも考えてしまう。ちからを入れるべきはアイデア出しなのだが……、というところで思考がループに陥ってしまう。とても不毛な思考リソースの割き方だ。それも自覚はしている。

ここ最近、〇〇先行というようなネタの出し方が出来なくなっていることに気付く。色々アニメや映画を観たり小説を読んだりノベルゲーなどをやることで自分の中でパターンを当て嵌めるちからがついてきているのには自覚的だが、これが良くない方向に作用しているのは頻繁に実感する。

こういうキャラが書きたい、こういう設定を思い付いた、こういう世界観が好きだ、のように、まぁ並行して色々な要素を並べたとする。それが脳内でなかなか結び付いてくれないのだな。まず、正誤判定がある。こういう書きたいキャラを書くならこういう設定とは食い合わせが悪い気がするし、こういう世界観だとこういうキャラを上手く活かせない、のような判定が一瞬で出る。まぁこればかりは試行錯誤するなり必要なのだが、一度正誤判定を下してしまったものについて深く掘り下げて考えられない傾向にある気もする。自分の中でそれらを組み立てるのを諦めてしまっている状態にある気がする。まぁ、そもそもこういうお話の作り方は僕に向いていない(慣れていない)のは最初からわかっていることなのだが、強烈に書きたい「何か」が無い状態だとこういう手探りの仕方を始めて時間をドブに捨てるのは僕のこれまでの典型的なパターンのような気がしている。

自分が普段どういう作品の作り方をしているかと思い返したとき、まずクライマックスか主題がある気がしている。クライマックスは、クライマックスだ。その小説の中で一番読者を驚かせたいギミックを思い付くのが割と多い。つっても僕はプロットや構成で読ませるタイプの書き手ではないことには自覚的なので(出来るようになりたいとは思っている)、めちゃくちゃ凝ったギミックを使えた!という達成感に浸れたことはほぼほぼ無いのだが、まぁ僕の中で「よく出来た」ラインにある短編なんかはこういう作り方をしていることが多い気がする。別にギミック先行でなくても、「クライマックスにこういうシーン置きたいなぁ~」というシーン先行の作り方もそれなりにある気がしている。全体を通した構成の起伏としてそれほど珍しいものでなくとも(そもそもプロット構成にパターンなどそれほど無いのだが)、シーンありきで書き始めると、むしろそのシーンを特別際立たせるために苦心することになるのでモチベも維持出来ていた気がする。苦心し過ぎてモチベを維持出来なかったものは、最近多いような気がするな。飽き性なので、その辺の自分に対する配慮みたいなものは考えなければいけないのかもしれない。放置してる長編のことを思い出したが、今は脇に置くことにする。

主題から書き始めるのも結構多い。主題というか、主張か。主題とか主張とか書くと大袈裟な気もするが、要するに「今はそうじゃない主人公くんに、あれこれ乗り越えてこうなって欲しい」みたいなものだ。思考停止している人間が嫌いだ。自分がそうではない自信はあまり無いが、そういう他人を見るのはあまり好きじゃない。だから主人公には最初思考停止してもらって、それをあれこれ乗り越えることで自分で考える人間になってほしいみたいなものはよく書いてきた気がする。説教臭さみたいなものとのシーソーゲームになるのだが、それがエンタメになっているかの自信は、どうだろう。好きなもの先行という形になるので、他人にとっての面白さに繋がらない可能性はあるが、まぁそれは別にこれに限った話でも無いか。自分が最初に楽しめない作品を他人様に楽しんでもらうことなど出来ないという有り触れた話は僕も持論として持っているので、まぁこういうものを用いてモチベとしてきたものを書いた時は評判も良かった憶えがある。

こうやって益体も無いことをあれこれ並べてみると、僕にとって小説を書くということは、自分のモチベとの戦いなのかもしれないということを思う。まぁ、自分が面白いと思えないものを書き続けるのは実際とてもつらい。経験もある。〇〇新人賞に出すために書き始めた長編が、締め切りも間際になっているから慌てて書き進めはするのだが、どう考えても「これ面白く無いよな」と思いながら書いているときのつらさといったら無い。それでも〇〇新人賞に出さないよりはマシだ。だから書き終える。ゆっくり読み返す時間も取れてないのでやけっぱちで送ったそれは、読み返す気も起きない。友人からは辛辣な感想が飛んでくる。当然一次選考は通らない。一次で落ち続けてきた時期は、こういうことをよくやっていた。今、締め切りだけをモチベにしてやることは出来ないなぁとは思う。自分が書いているものにだって面白い面白くないという判断は容易に下せる。面白い面白くない、というよりは、要素やシーンが足りてる足りてないというような判断基準だが、その基準はあまり的外れではない自負もそれなりにはある。「これ足りてないよなぁ」という状態から「うん、足りてる」という状態に持っていくのは相当苦心する。何度も何度も読み返してまったくわけがわからなくなってくる。それでも自分の納得のために頭を捻り続ける。今思えばこの頭を捻り続けてる状態はなんてしあわせな時間だったのだろうと思ったりもするが、まぁ今はアイデア出しの部分で躓いている状態なので今考えるべきはどうアイデアを出すかという問題だ。

実際、僕は特別何かを書き続けたいという根源的欲求を持っているタイプの書き手ではない。どちらかといえばもうひたすら「僕にとって面白いものを書いていきたい」という欲求に近いような気もするし、実際僕が書いてきたものに書き方以外の統一性というのもあまり無い気がする。

今、とある尊敬する作家の古い作品を読んでいて、それを読みながら「こういう書き方は是非出来るようになりたい」というようなことを改めて思ったのを思い出した。

僕には僕のスタイルというものが確立されている。もう10年くらい小説を書いているので、得意なスタイルは嫌でも確立されてしまう。別に僕はこれを曲げるつもりは無いし、このスタイルこそが僕が一番映えるように書けるスタイルだ、くらいには思っている。それはこのブログの記事たちを読んでもらえば薄々気付いてもらえるようなわかりやすいかたちだ。まぁ、それは良い。

自分のそのスタイルに適合させられるか否かの判断基準がかなり強く作用しているんじゃないのか、というようなことを今これを書きながら考えていた。他の書き方で映えるやり方が出来るなら、自分のスタイルはあまり考えないし、それを基準にアイデアをねじ曲げるような考え方はしなくても良いのかもしれない。

まず、書きたいものありきだ。それはわかっている。それは後々二転三転することになって、原型が残らない場合もままあるが、それでもそれがモチベとしてきっちり作用して、僕が書きたい僕にとって面白い小説の雛形になるのなら、それは意義をしっかりと生んだことになる。僕が本当にそれをしたいのなら、こだわるべきは当初浮かべた書きたいものではないよね。まぁ大事だけど。それが無くならないように発展させていくようにはなるべくするけども。

 

今まで散々自己分析ごっこをしてきたこのブログだが、今回はより読み手の理解をすっ飛ばして書き殴り続けた記事になりすぎた気がする。

書きながら考えるのはとても良い。願わくばそれが僕が前に進めるちからの一役を担ってくれると尚良い。

まだまだこのブログを僕のために有効活用していきたいね。