Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/08(月)の気持ち

別に書くことは無かったけど、何となくここの更新は続けようと思っていたのだが、1日空けたら「まぁ良いか、書くこと無いし」となってしまって1週間空いてしまった。まぁ書くこと無いのに記事を書こうというのも大概おかしな話なので、別にこれはこれで悪くはないとは思っている。なぜだかちょいちょい読みに来ている方もいるようだし、誰が読んでいるか定かでは無いが、僕のメンタルがヘラヘラしている様子を率先して発信していくのもおかしな話なので、ヘラヘラ記事を書き連ねることで自分を追い込んでいくのをやめるためにも良かったんじゃないかと思う。そういうの読んでぷぷぷと笑いたい方はごめんなさいね。自分の躁鬱の激しさには大概嫌気が差すが、まぁいつまでもヘラヘラしているよりは良いとは思う。そういう感じで、あれだけボコボコと書き殴った鬱屈した気持ちは記事を書いたお陰かどうかスッキリして、今はそこそこ安定を取り戻しているような気がする。躁側に振り切り始めているような気もするが、何とか安定を取っていきたいところだ。これの難しさについては重々承知しているところなので、何とか折り合いをつけてやっていきたいと思っている。

最近肉体的な疲労がそこそこしんどくて座椅子の背もたれを倒した状態で長時間睡眠に突入して負のスパイラルに陥っていて本当に良くないのだが、創作意欲の方はそこそこ取り戻し始めていて良い兆候に思える。しかし肉体疲労が創作活動の直接的な妨げになることも過去の経験からしっかり把握していることなので、この辺を何とかしていきたいとは思っている。具体的にどうすれば良いかはわからないし、普通におふとんで睡眠をしっかり摂るくらいしか無いのだろうが……、まぁ、万全な体調で創作に臨みたいという意識はあるものの、万全な体調でしか創作と向き合えないというのも大概甘えた考えのような気もするので難しい。かつて新人賞シメキリファイターとして投稿を続けていたときは、普通に体調が悪くても書けていた経験があるので、なんでこうなってしまったのかな、という思いがこう思わせている気はする。締め切り直前1週間前とかに慌てて書いてたとき、普通に3時間未満睡眠を続けて、おうちで起きているときはずっとキーボードを叩き続けていた日もあった。1日で30000字以上書いた日もあった。それは必ずしも良い結果をもたらすものではないし、だから何だという話でもあるのだが、自分がそこそこ追い詰められて無理をすれば、それくらいはやって出来ないことは無いという経験が、今の僕に重くのしかかっている節はずっと感じている。稚拙で脳直な創作行為が未来の自分のためになど一切ならないというのはわかっているが。まぁ「それくらいは出来るぞ」というヘンなプライドみたいなものが良くないのだわな。もっと真っ新な気持ちで小説と向き合いたいというのは、最近薄らと思っていることだ。それが万人に対しての面白さに繋がらないとわかっているものでも創れる勇気。自分のための創作行為を取り戻せば、小説を書くという行為に感じているハードルの高さやプレッシャーみたいなものから逃れられるのだろうか。なんか身の丈に合っていない悩みを抱いているように感じる。別に皆から望まれて小説を書いているようなご身分でも無いのにそんなことを考えるのは大概バカらしいとも思うが、別に普通に失望されたくないじゃないですかね。「昔のあれ書いてたときの八神の方が良かったよ」なんて言われたくないじゃないですか。まぁ、仲間内で小説読み合うようなこともめっきり減ったので、そんなことすら思われないわけだけど。だとしたら、尚更自分のために創作をする必要性みたいなものを感じる。別に普通にずっとそうだったけど。評価なんてものはそれに付随してくるもので、地道にやって、宣伝活動にもそれなりにちからを入れて、ガツガツでも待ちの姿勢でもない承認欲求とのシーソーゲームが必要だとはずっと思っている。そういうのを、やっていかなければならないこともずっと思っている。まぁ、現状それが出来るモノが無いので今考えることではないのだが。うん。話が飛躍してしまった。話や論理を飛躍させたがりな思考回路であることには割と自覚的だが、もっと有効的に活用していきたいものですね。具体的には、設定詰めるときとかにね。

どうしても、こう、誰も見たことが無いものを作りたいという意識が根底に強くある気がしている。設定にせよ、キャラにせよ、物語構成にせよ。それが理論的に不可能であることはわかっているのだが、誰かの二番煎じをやる必要性ということをまず念頭に置いてしまう自分がいる。理論的に不可能とは言ったものの、それはたぶんやって出来ないことではないんだろうけど(題材と魅せたいもののピント、という辺りにヒントがあるんじゃないかとは思っている)、ただそれが自分の納得の出来る面白さに繋がらない可能性にはまず思い至る。自分の納得がまず根底にある。それが客観性を持ち得ていれば尚良い。だとするなら敢えて二番煎じを行うことはそれほど悪い話というわけでもない。世間的に人気を博しているものから換骨奪胎してくるというのは手法としても一般的だ。要は何を描きたいか、何を主張したいか、というところが自分由来のもので固められていれば読者の印象を「これは二番煎じだ」という思いからずらせるということも何となくわかっている。物語構成に類型がそれほど無いこともわかり切っている。定番の構成、というものは確かに存在するよね。こだわるべきはそこじゃないこともわかっているのだけど、こう、同じ物語構成を流用するとなるとどうしても流用元のイメージに思考が引きずられてしまうということも感じる。流用元作品に比べて~という思いを、まずそれを描く自分がいかに逸らせるかが重要なのかもしれない。構成は書きたい物語や主張を効率良く引き立てる土台でしかないので、そこにオリジナリティを求めるのは大概お門違いだ。書きたいキャラはある。こういうお話を書きたいという欲求もある。ただ、いつぞやのヘラヘラ日記にも書いた覚えがあるが、そこに込めるべき主張が見付かっていないのが今なので、やはりそことしっかり向き合っていかなければならないことはそりゃそうなのだが、これが難しいんだよね。主張というか、まぁあんまりテーマって言葉は使いたくないんだけどテーマ的なそれって、そもそも当て嵌めるべきものではないような気もしているので、その辺が難産の大きな理由になっている感は如実に感じている。難産になるくらいなら考えない方向で、もっとこう、読んで面白かった!で終わるようなエンタメ特化娯楽至上小説として考えていけば良いんじゃないかとは今自分で思ったが、消費者としての自分があまりそういうのを求めていないのに果たしてそんな器用なことが自分に出来るのか?という疑問は真っ先に浮かんだ。正しいエンタメ作品……って言うと語弊がある言い方かもしれないけど、そういうのは得意なひとがやれば良いってのはずっと思ってるし、僕自身はあまりそういう方向でお話を考えてきたことは無かった。その主張が成功しているにせよ失敗しているにせよ、そういう仕込みをしなきゃいけないという使命感?みたいなものが占める割合は僕の中ではそこそこ大きいらしいということもわかってきた。なるほどね。これを説教臭くならない塩梅でやるのがまた難しいんだ。僕は大抵めんどくさい懐古オタクおじさんなので「語りたい欲」とでも言うのだろうか、そういうのが気を抜くと出てしまうので、上手いこと自制出来るようにならなければならないね。まぁ何度も言うけど、今はその「語りたい」ものを模索しているところなんだけどね……。

前回……と言ってももう2年半くらい経つわけだけど、某賞に送った長編も大概難産だった。僕は魔剤……エナドリジャンキーなのでエナドリをめちゃくちゃ飲む不健康な生活をおくっているが、真冬の夜中に魔剤を売ってるちょっと離れた自販機まで散歩したりしていた。この時間が結構良くて、脳内でアイデアが固まるまで、思い付いてから結局半年くらい掛かったような覚えがあるが、そういったようなことを習慣付けて自分の中で「これは書ける」と思えるまで辛抱強く続けていたのは強く印象に残っている。このある種の成功体験が今、こうして難産に苦しんでいる状況を呼び寄せているような気もするが、でもそれも思い返してみればあまり能動的な行動ではなかったような覚えもあるんだよね。アイデアを待ち過ぎるのが良くないということはわかっていても、でもそういう意識改革ってどうしたら出来るんだろうね。頻繁に小説を書き上げてる皆さんはどうやってアイデア仕入れてきているんだろうか。集中力の問題かな?という思いもあるけど。まぁ、その辺は考えても仕方ないことか。よくわからんくなってきた。

とりあえず、小説を書くということが、それほどハードル高い行為ではないんだよということを、自分に言い聞かせ続けなければならないというのはずっと思っている。

気を張らずに短編なりショートショートを書き続けたら良いのかもしれない。でもそれが自分の水準を満たす、自分を満足させるための創作にならないこともわかっている。あまり意味が無いんだよね。決してハードルは闇雲に下げれば良いというわけじゃないような気もしている。凡作を作り続けて得られるものは、「凡作を作り続けた」という結果に集約される。自分の要求を満たす自分基準での傑作的なものを作り続けるのは理想を言えばそうなのだけど、それが現実的に考えて難しい以上、その両極端な振り幅の中間を探っていかなければならないのはそりゃそうだという感じだ。

そういえば昨夜は、蒼月エリさんのおうた配信をリアルタイムで見れた。思えばおうた配信をリアタイで見れたのは初めてだったようにも記憶しているが、その貴重な体験の最中、めちゃくちゃ楽しそうにおうたを歌って、どんどん楽しくなってきておうたが止められないモードに入ってしまって「自分だけが楽しい配信になってしまった」と少し反省していた蒼月エリさんはやはりお茶目な感じでめちゃくちゃカワイイだったのだが、でもその「自分だけが楽しい配信」が4000人くらい集まったリスナーのほとんどの胸を打って楽しませていた事実が、ある種の真理なんじゃないかなという気がした。

こうなりてぇよなぁ、と、思ったのだ。

それに触発されてコメ欄でじゃんじゃかスーパーチャットを投げていたタマキさんがその後におうた配信をやり始めていたことにはもっと早く気付きたかった。そう。そういう循環というか流れというか、そういうのが本当に尊いと思うのだ。

誰かを突き動かす創作がしてぇよな。

いつになく散文的な記事になってしまった。

日記なんだからそれで良い気もしている。理解を得るに越したことは無いが、全てに対して理解を得たいと思って行動する必要も無い気がしている。たぶん。