Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/16(火)の気持ち

この場所に普段悶々と考えていることを出力し始めてから、なんかこう、精神の調子が良くなってきているように感じる。

別にそれが身長が10cm伸びたり恋人が出来たり宝くじの1等前後賞が当たって人生マジで変わりました!というような自意識や人生の転換が行われたということはこれっぽっちも無いが、なんとなくこう、思考の捌け口を手に入れたことで自らを安定させる術を身に付けられた、という感じがする。

僕が日々の中で起きる大概ちっぽけなことに都度蹴躓いて自分の状態を良くない方良くない方へと押しやっている、というようなことは以前のどこかの記事に書いた覚えがある。これでも数年前に比べて全然マシになってはきている、というようなことも書いた覚えがある。数年前の僕は本当に酷くて、おそとで起きた大概ちっぽけなアクシデントをわざわざおうちに持ち帰って、答えも出ないし解決もしないそれについて延々悶々と勝手に脳が思考し、本当に調子が悪くなる、というようなサイクルを結構な頻度で行っていた。それがどれだけ非効率的で不必要な行いであるかについては自覚的であったものの、脳が勝手にする思考を閉ざせるワケも無く、そういう性質だからと諦めていたし、その性質が実際良い創作意欲として出力されていた経験もある以上何とも言えないことではあるのだが、まぁどこかしらのタイミングで人間関係とか公共の場での振る舞いに対する考え方を改めるようなことがあったのだとは思うが、そうなってからはおうちの玄関をくぐれば大概のちっぽけなアクシデントに対するお気持ちなどは払われるようになり、こうして暢気にインターネットに思考を垂れ流すことでよりフラットな状態に移行することが出来るようになっている気がする。これに関しての賛否に関しては今考えている。負の感情でしか良質なクリエイティビティを発揮出来ない性質は是か非か。まぁ、フラットなお気持ちというのは実際精神の階層の中でも表面上のものでしか無いようにも思うので、また違う話なのかもしれないとか今考えているが。別にそういうこと考えても大概ロクでも無いとは思うのだけど、まぁ自分をコントロールするためには必要なことかもしれないとは考えている。別の機会に考えようとも思う。

 

さて、ブログの管理画面にある「記事の管理」とかいう項目を見ると、割と定期的な頻度で僕が新しい記事を書いていることが確認出来る。ここ3記事は週1のペースだ。この記事をアップロードすることでその周期は乱れるが、果たしてここに思考やお気持ちを垂れ流すことが自分にどのような作用をもたらしているのか、ということについて思いを馳せてしまったのだ。

長らく、本当に長らく使っているソーシャルネットワーキングサービスがあるのだが、最近それに対して色々な感情を抱くようになっている、ということに気付いた。

気に入った著名人の生活や思想を覗けるもの。好意的な感情を抱いている友人知人と気軽にやり取り出来る場所。それに当て嵌まらない例外もあるかと思うが、そこに、割と僕はここに書き殴っているようなクソデカ感情を気軽に持ち込んで垂れ流すなどをしていた。僕は基本的には他人からどう思われても構わないとは思っているが、自分のそういった意識はまぁ置いておくとはしても、それを垂れ流すことで見る相手に色々な感情を想起させてしまうかもしれない(どんなリスクもリスクとしては付きまとう。どんな可能性も基本的には僅かでも起き得るものとして存在する)、ということを考えたときに、そういったことはしないに越したことは無いんじゃないかという意識が芽生え始めたのが、割とここ最近のお気持ちの変化だ。

僕がクソデカ感情をそこに垂れ流すスタンスは、まず「基本的に僕の感情は他者に興味を湧かせない」というもの、「ゆえに誰も反応を返してこない」というもの、「ここは僕の感情の肥溜めだ」というものだ。かなり利己的で独善的なものとしてその場所を活用していた自覚はある。だが、基本的にその場所は情報を得に行く場所ではなく、情報が勝手に流れてくる場所だ。リスクの話は前述した。基本的にはその他者に興味はあるが、その他者の全てに興味があるわけではなく、その情報の中でも取り分け興味をそそるものがあるという理由で繋がりを得る、あるいは片方向的な読者となる、ということは別にそう珍しくない動機だろう。まぁ、端的に言ってしまえば、僕はその仕分け作業のノイズとして機能してしまっているんじゃないかと思ったのだ。僕がそもそもノイズとなってしまっているケースもあるだろう。まぁなら向こうからアクションしてくれるだろう、という向きもあるかもしれないが、そういう手間を掛けさせてしまうこともそれはそれで問題なのかもしれないとは思う。これはこれで自意識過剰な想定だ。僕は基本的に、自分が特定他者や不特定他者に対して正負どちらかの感情を抱かせる多少関わらないあらゆる意味で特別な存在である、と考えるのは傲慢だと考えている。「俺がいないと」だとか「私が皆の邪魔をしている」だとか、だ。正負どちらに関わらず自分が誰かしらにとって意味のある存在だと考えるその思考そのものが自意識という小さな檻に閉じ込められた、自分中心の世界の出来事しか捉えられていない視野の狭い発想だと、割と本気で信じている。皆そこまであんたに(あるいは僕に)興味無いよと思うのだ。べつにそこに限らず大概が狭いコミュニティの中でその内側に肥大した自意識を満たすためだけの振る舞いに一生懸命になってどうするのだ、と、思ってしまうのだよな(もちろんあらゆる場面でそう思っているわけではないが)。だから僕はあまり他者からどう思われるかに構わず振る舞っていた。誰も見ていないという前提、というか心構えは、まぁ簡単に用意出来る。そう振る舞うことも容易い。だが、基本的には衆人環視なのよな。だとしたらそれを想定した振る舞いを無意識に行ってしまう。誰だって自分を取り繕おうとするし、弱みは見せたくないと思っている。僕がどれだけそう思っていないような振る舞いに終始したところで、誰も見ていないと信じていたところで、誰かしらが見られる環境なら誰かしらは確実に見ているものだし、そもそもそういう場なのだから前提から破綻した態度なのよな、ということにようやく思い至った。そう思ってから、その場をここに移した。いや、移すように心掛けている。

誰も見ていないし誰も反応を返してはこない、とは思っているものの、そういった折に実際に反応が返ってくると本当に困る、というのもある。それが気軽に出来る場所なのだからそういう想定はそもそもしておくべきものなのだが、まぁ、基本的に思考リソースって限られてるし、僕はそのリソースが随分手狭だと認識しているということもあるので、まぁ反応が返ってこないと思っているものに返ってくる反応に対してまで考えを回して行動することはとても難しい。実際それが出来るんだったらなぜそんなに迂遠なことをしているのか問い詰めたくなる。まぁ、それが実際僕の精神に負荷を掛けるような本末転倒なことにも容易になり得るということも、理由としては挙がるのだろうか。まぁ、他人のせいにしたいんだろう。それが一番楽だし、自分に正当性を与えられる簡単な方法であることは言うまでもない。

 

で、実際にここに気持ちを書くようになって、その身軽さに本当に驚いている。

実際、ここ数日定期的にひとは訪れているが、誰が訪れているのかは本当にわからない。僕の知人友人かもしれないし、まったく関係無い赤の他人かもしれない。僕はここに僕のお気持ちを書いていることを、基本的には誰にも知らせていない。一応は公開ブログだし、外に対して開けた場所ではあるのだが、こんな誰かもわからんしヤバイやつかもしれない輩が自分の思考や感情の整理してますよ~なんて書き殴った記事を好きこのんで探し当ててやってくるやつがいるとは到底思えない。まぁ僕がどっかしらに公開した小説を読んで僕自身に興味を抱いて頂けたり(可能性の一つとして挙げているだけです)、話題になっているものに触れた記事を書いたりもしたので、それ経由でやってきて「このひと他に何書いているんだろう~」とか思って最新記事開いてこんなの読まされたひとには本当に謝りたい。僕は僕の書きたいことを書いてるだけなのであなたを満足させることが目的じゃないんですよ、とは再三書いておくべきなのかもしれないし、ブログあらすじみたいなあのブログ名の下に書いてあるやつも更新するべきかもしれない。まぁ、ブログという媒体の特性上、その記事を読んでどういう感情を抱いたって記事を開いて読もうと思ったあなたのワンクリックという能動的な行動が招いた結果なので自己責任ですよ、としか本心では思っていないが、そうは言ったって自分が過去に自分の意思で開いて読もうと思って読んだもので悪感情浮かべさせられて憤った経験が無いとは言えないので、まぁ……、という感じだ。ごめんなさいね、本当に。

 

自分がこの場所に感情や思考を垂れ流すサイクルを把握しておきたかった。

把握したそれが理由として挙がるかはさておき、幸いにも創作意欲は高まり続けている。創作意欲の高まりが創作行為に直結しない性質ではあるので、その組み立てを未だ脳の外には移せてはいないし、だからダメなんだとは自分でもほとほと思っていることだが、まぁ良い言い方をすれば頃合いを見計らっているのだ。前回の記事で言語化することについて触れた。これは本当に気を遣っていることなのだが、しっかり作ろうと思っている創作物を闇雲に言語化してしまうのは本当に危ういと思っている。早々な方向性のキメ打ちで難産したり早産してしまった経験が多いからそう思うのかもしれない。先日僕の敬愛する先生が「小説を書くのは(好きで)気安いことだと思っている」と仰っていて、それは決して大変ではないということではないとも仰っていたのだけれど、そう思えるようになりたいなぁと切に思った。人間って身体能力は別にしても、自分の限界って案外伸ばせるものだと思っていて、真剣に試みてもいないことに対して「出来ない」の烙印を押して諦めるのは本当に愚かな諦念だと僕は思っているのだけど、だとしたら出来るのは、するべきは、黙って真剣に試みていくことだけなんだよなぁ、というのもわかっていることなんだけどね。気安く出来たらなぁって、本当に思うんだよ。だって失敗するのって本当に怖いじゃんね。失敗を前提に考えたくはないし、失敗したから小説を二度と書けなくなる、というわけでもないけれど、それがもたらす本震と余震は本当に大きい。それは今の僕が身を以て体現していることなので、余計にそう思うんだよね。

小説を書くことが好きか、嫌いか、ね。『ガーデン・ロスト』の三章『echo』でオズに対してエイ兄が言うじゃん。「(ベースが好きか嫌いかなんて)考えたことねぇよ」って。もう初読から7年8年も経っているし、僕って読んだ小説の台詞とか一文とか本当に印象に残らない薄情な読者なんだけど、この一文だけ(『ガーデン・ロスト』に関してはこれ“だけ”では無いのだが)はずっと、ずっとずっとこころに残っている。いや、普通は考えるでしょ、とは思うのだ。創作物における登場人物特有の飛躍した思考や、それに類するある種超人の域にあるものだとは思っている。でも、そう在れたらどれだけしあわせか、とも思うのだ。好きか嫌いかを考える必要も無くただそれだけにひたすら真摯に向きあえたらどれだけしあわせか。

僕にはもうわからない。小説を書くことが好きか嫌いかの二元論なんかでは到底語れない。ただ、これしか無いとは思っている。僕が出来るのは、本当にこれしか無いと、書けない期間が続けば続くほどその期間に反比例するようにそう思えてきて仕方が無い。なんたる皮肉かと、自分でも笑ってしまう。書けていないのにこれしか無いとはどんな冗談なのか。でも、本当にそう思うのだ。好きか嫌いか、無理矢理どちらかに当て嵌めるなら当然好きだ。でも、あんなに苦しい思いをして書いて、誰かに読んで貰うために書いているのに苦しすぎて書けなくなって、誰にも読まれることなくハードディスクの中で眠ってる未完のあの小説やこの小説、脳の中で未だカタチにならないこの小説未満を産み出すことが本当に「好き」とか「嫌い」とかで片付けて良いのかは、本当に、本当にわからない。

書くつもりなど無かった気持ちを書いてしまって、若干自己嫌悪に陥っている。でも書かなければいけないことだと思ったので、消さずに残して公開しようと思う。綺麗事を言っているなとも思う。他者に対して何らか働きかけるように書いているなとますます自己嫌悪に陥る。僕は創作物における登場人物ではない。だから文面に起こしていない場所に打算や計算は存在するだろう。それが嫌だよね。せめて、創る物語の中にはそういったものを持ち込まないようにはしたい。物語にだけは誠意ある態度を心掛けたいと思う。願わくば早産してしまわないように。

 

また性懲りも無く5000字も書いてしまった。こういう記事を書くことで、感情や思考を消費することで創作意欲の妨げになるようだったら、こういうことはもうやめようとは思っている。

現状は上手く働いているような気もする。わからないけど。何事も試していくべきだとは思う。それが創作行為であれば最良、なんだけどねぇ……。