Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/22(月)の気持ち

今日はしっかりとあれこれやっていきたいという気持ちがあったものの、起きたら行き付けのチェーンの定食屋のラストオーダーの時間が近づいていてやべぇやべぇと思いながらメシを食いに行って帰ってきたら日付が回るくらいの時間になってて、それからまったくやる気も湧かずにうだうだうだうだしていたところこんなような時間になってしまったので定時報告というか、ここにあれこれ書くようなことだけはしておこうと思った。生活破綻者なのでそういったリズムで生活している。多少は直さなければとは思っているが、日曜日(というか月曜日の午前中)のどのタイミングで寝るかに月曜日の全てが掛かっているので、まぁこんな結果になってしまったことからもわかる通り、生活リズムを完全にしくじってしまったワケだった。

起きた瞬間に由来するメンタルコントロールってめちゃくちゃ難しいですよね。別にテンション高く誰とも会わない休日を過ごすなんてことはここ数年殆ど無かったわけだけど(独りで勝手にテンション高いヤツがそもそもヤバイという話は置いておく)、起きた瞬間に感じる「あ、今日無理かも」とでも言うような、その決め付けがその日1日を完全に支配する感じが割と結構久しぶりで、まぁ起きた時間が時間だったし明日の(今日の)予定というかルーチンもあるわけだから今更今日を充実した1日にするなんてことも難しいわけだから、そういった諦念みたいなものも結構あるわけだけど、なんだろう、ここ数日熱心に本を読んでいたにも関わらず「本読むのもだるいわ」みたいなコンディションだったので流石に驚いたのだ。まぁ自分に鞭打って(鞭打つと言って良いのか微妙だが)新しい本開いて30ページくらい読むなどしたわけだが、これを「読書した」と呼んで良いものかはかなり微妙だ。割と気に入ってる方の作家の本なので結構面白そうだったし先は楽しみだ。基本的には開いた本はその日で読了してしまいたいとは思っているタチなのだが、まぁそういうこともある。ここ最近読んでた本は結構ヘヴィな本が多かったので、そのタチがあまり発揮されていなかったのも自分に甘くなっている原因だろうか。

やろうやろうと思っていた、ここ最近読んだ本の感想でも垂れ流しておくか。そうすることにしよう。

 

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

「このひとの薦める本は間違いが無い」というひとが数年前にオススメ……と言うか、名前を挙げていた本。アンナ・カヴァンの『氷』。知るひとぞ知る小説というか、なんかそういう界隈でカルト的な人気を誇っているような印象を持っているが、復刊された時に買うのを渋ったら(ちくま文庫高いんですよね)書店で新刊を見付けるのが割と難しいような状況になっていて(大型書店に行けば見付かると思うが)、そんな折に行き付けのブックオフに行ったらたまたま置いてあったので喜び勇んで買った。それももういつのことだか忘れたが(ここ1年以内の話だとは思うが)、部屋に転がってたこの本を、翻訳小説も読んでいかなければ、と思って引っ張り出してきて読んだのが先月、9/17の話だ。

某所に感想を載せたのだが、なんだろう、とにかくすげぇ小説だった。

アンナ・カヴァンという作家に特別詳しいわけではないのだが、ウィキペディアなどを見ればこの作家がどういう作家かは多少なりとも知ることが出来る。『氷』は彼女の晩年、と言うか亡くなる1年前に発表された小説だ。有名なのは彼女がヘロイン常用者だった、ということだろうか。たぶんそのエピソードと強く紐付けられて語られることもあるのだとは思うが、それはあまり鋭く無い読みではないかと、僕はこの小説を読みながら考えていた。

何がすごいって、描写がめちゃくちゃ繊細なんですよね。まずここでラリラリになったひとが書いた文章では無いと思った。でも、にも関わらず作中で起こっていることが全部嘘っぽい。めちゃくちゃ丁寧に組み立てられた記述から読み取れる全ての出来事が、語り手の脳内の中だけで起きている状況のようだと、僕は感じた。この辺は確かにラリラリっぽいが。それは登場人物に名前が無かったり(基本的には私と少女と長官という3人の人物が登場して、彼らは始まりから終わりまで固有の名前で呼ばれることが無い)、翻訳者だったか序文に寄稿したクリストファー・プリーストだったかが言及していた通りプロットが用意されずに書かれたかのような(あるいは用意されていたが、基本的な物語運びとは違った意図で組み立てられたのかもしれない)右往左往した物語運びに由縁するものだったり、タイトルにもある「氷」が一貫して作中では世界の終焉にまつわる重要なファクターとして登場しているにも関わらず、それに明確な説明が成されないということも関係しているのかもしれないし、主人公である「私」の言動が本当に脈絡が無かったり、それら全てが複雑に絡み合って、僕にそういう印象を抱かせた。本当に不思議な小説だった。

僕は基本的には綿密な作品が好きで、重厚なプロットを元にアップテンポに組み立てられためちゃくちゃ熱いクライマックスを迎える小説がドストライクに来やすいタチなんだけど、でもこの小説はめちゃくちゃ読後が良かったんですよ。それは真に迫る筆致だったり、状況だけ見れば本当にどうしようも無いのに、にも関わらずある種の爽やかさを伴ったあのラストシーンが大きな割合を占めるのはそうなんだけど、そのラストシーンに辿り着くためだけにこの小説を読むのをオススメしたいという気にさえなった。もちろんそのためだけにこの本を布教して回りたいかと言うと、そんなことは一切無い。正直途中は読むのがつらかった。し、納得が出来るラストでもないとは思う。綿密な小説がドストライクだけど別にそれだけがドストライクなわけではないので、これは読み手の好みにも大きく関わってくる話だとは思う。なので、プロットが明確ではない迷路のような小説に抵抗感が無い方は手に取ってみてほしい。唯一無二の読書体験を約束する。

ところで『氷』がちくま文庫から復刊される前に、サンリオSF文庫とかバジリコ?という出版社から出版されていたみたいで、まぁ絶版になって長らくこの本が手に入らない期間が続いていたようなのだが、僕は見付かるはずが無いそれらをまぁ思い出した時に探すようにしていたのだが、そのタイミングで単行本が出版された『アサイラム・ピース』という短編集が新刊で出ていたのを見付けたんだけど、それが2500円くらいだしハードカバーだしで買うの諦めたんですよね。読みたいのは『氷』だったし。で、今それ手に入れようとすると(具体的にはAmazonマケプレだが)倍以上の値段払わないと手に入らないみたいなんですよね。

……つくづくこういう本は新刊で見付けたタイミングで即買いしておかないと後々面倒なことになるのだなぁと思いました。『アサイラム・ピース』の新刊置いてある書店情報は随時募集しておりますのでよろしくお願い致します。

 

 

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 

みんな大好きチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』。

知り合いがこの小説の話をしてくれたのをずっと覚えていて、でもその時に「誤訳がひどすぎる」という話をされて、なら『ペルディート・ストリート・ステーション』から読むかなと思ってそちらを手に入れてから読み始めたもののあまりに読み進めるのが大変そうだったので、単巻で完結してるこちらからやはり読んでいこうと思って読み終えた。ゆうて500ページ越えてたが。

一応読む前に誤訳の件を軽く調べてみるなどした。するとAmazonのレビューにそういったことが書き連ねられていたものを発見した。が、他には見付からなかった。件のレビューも「誤訳がひどすぎる!」とは散々のように書いているものの、具体的にどういった箇所がどういう風に誤訳されていたのかは一切言及されていなかった。ネタバレに配慮してくれたのだろうか。自分のレビューの正当性をほったらかしにしてまでネタバレに配慮してくれるなんてまったく頭が下がる思いだが(実際問題ネタバレされるのは嫌だしね)、それを信じるべきか信じないべきか原書を読めないクソ雑魚英語力の僕には確認のしようが無いことなので、まぁ、という思いだ。思えば他のひとが書いたレビューに「原書で読めば面白いですよ」とかなんとかコメントしまくってたひともいたような覚えがある。訳者に親でも殺されたのだろうか。僕には窺い知れないことではあるのだが。

ともあれ、『都市と都市』。基本的には最初に起こる殺人事件を刑事の主人公が捜査していくというミステリや警察小説の体裁で進んでいくこの現代を舞台にした小説がなぜハヤカワSF文庫で出ているのか、という疑問は散々色々な方や巻末の解説で言及されていることではあるが、敢えて僕からも言わせて欲しい。これはれっきとしたSF小説だ。

この小説を他人に紹介する際に、この小説の舞台の説明をまず綿密に行わなければならないのだが、それはまぁ不可能だ。読んでくれとしか言えない。殺人事件が起こる冒頭から順を追って不親切ながらに説明されていくそれは、恐らくこの小説を読み進めることでしか理解出来ない。僕がここに「これこれこういうことで……」と早口オタクを披露して言葉を重ねたところで説明されるあなたはまったく飲み込むことが出来ないだろうことは簡単に予見出来る。それは購入を検討するためのあらすじを読んでも同じことが言える。正直この小説の舞台がどうなっているのかを、そこから正確に読み取ることは出来ない。その殺人事件を取り巻いている特異な状況、その異常性についても同じことが言える。

だが、どこかしらのタイミングで、その状況や異常性について、ストンと飲み込むことが出来るようになるはずだ。だいたい1章の後半くらいだろうか。残念ながらこの小説のレビューや感想を漁ると「意味がわからない」「納得が出来ない」など読解力が至らない方々の声がめちゃくちゃ出てくるので保証は出来かねるが、そうなってからは読むのが止まらなくなるはずだ。チャイナ・ミエヴィルという作家の脳内がどうなっているのか、その想像力や構築力に恐れおののいて読み進めましょう。

色々な方々が言及されている通り、と言うかそもそもミエヴィルはミステリ作家ではないのでその辺りに不満が無いかと言えばあるのだが、それはそれでこれはこれ。この作品を形作る上で絶対に欠かすことの出来ない『都市と都市』という舞台を想像し、構築し、カタチにしたそれを目にするだけでもこの本を読む絶対的な価値がある。

「ブリーチするとブリーチが現れてブリーチされる」

こうとしか説明の出来ない事象について、読んだ方と文脈を共有したいですね。

 

 

おいおい八神ィ、今更『ソラリス』かぁ!?と言われるのを承知でここに感想を書く。

僕は結構SF小説を読むんだけど、なんだろう、ラノベ作家進出以降のハヤカワJA作品は結構読んでるんだけど、こう、往年の名作というか、読んでおくべき古典というか、そういうのはからっきしなペラッペラな読書遍歴を持つニワカSF読みだ。クラークの『幼年期の終わり』とかホーガンの『星を継ぐもの』とかキイスの『アルジャーノンに花束を』だとか、たぶんそれくらいしか読んだことが無い。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』やハインラインの『夏への扉』、ギブスンの『ニューロマンサー』あたりは途中まで読んで投げた。なんだろう、古典の全てがそうだとは言わないんだけど、古くさい雰囲気が本当に苦手なんですよね(『ニューロマンサー』に関しては事情が異なるが)。特にこの前ヴァーリィの『逆行の夏』の表題作だけ読んだんですけど、あの60年代とか70年代SFの、銀色で、流線型で、とにかく宇宙を目指して、みたいな、当時のアメリカSF的というのだろうか、セピア色のフィルターを掛けて粗いフィルム映画のような絵面で想像されるそういう雰囲気がもうそれだけでダメなのだ。僕は食にしても作品摂取にしても食わず嫌いがめちゃくちゃひどいので、読んでみればまた変わるとは思うのだが、まぁ、徐々に改善していこうとは思っている。だってアシモフを1冊も読んでないなんてたぶんお外に出て大きな声で言えることじゃないと思うんですよね……。知らんけど……。

さて、先日KindleでハヤカワSFの半額セールがありましたね。よーしいっちょ小川一水先生の著作でもまとめ買いしますか!と思って開いたらハヤカワSFのセールなのだからハヤカワJAの作品が対象作に含まれているはずもなく、まぁでもハヤカワSFは文庫といえど結構値が張るし、ここらで5冊くらいまとめ買いしておきますか、ということで選んだ内の一作が今作、レムの『ソラリス』だった(前述した『逆行の夏』も一緒に買った)。

ブックオフの海外小説コーナーにて、いつも手に取っては戻す小説ってあるよね。だいたい僕は『ソラリス』とブラッドベリの『華氏451度』、イーガンの『祈りの海』や『ディアスポラ』あたりを手に取っては棚に戻すなどを繰り返してきたのだけど、ようやく買うことが出来たカタチだ。

SFマガジンか何かを立ち読みしたときに、年代別読者のオールタイムベストみたいなランキングを見たことがあって、その時40代以上(曖昧な記憶に依る情報なので間違っている可能性大)の読者から圧倒的な支持を受けていたのが『ソラリス』(あるいは『ソラリスの陽のもとに』)だった。ならば読んでみるに越したことは無い古典だろう、と思ったのがこの作品を知るキッカケだったわけだ。

いやぁ、すごい小説だった……(語彙力消失オタク並みの鳴き声)。

異星人とのファーストコンタクトものという事前知識はあったのだけど、ファーストコンタクトする相手が異星人かこれ!?というところにまず驚いた。それに関して並べ立てられる情報、情報、情報。巻末に訳者と作者両方の解説が載っていてその意図に関しては改めて僕が書くようなことでも無いのだが、その、なんだろう……。こう、漠然と思っているわけじゃないですか。ファーストコンタクトものに対する印象って。『幼年期の終わり』にしてもチャンの『あなたの人生の物語』にしても、コンタクトする相手って基本的には相互理解とまではいかなくても、コミュニケーションが成り立つ存在という前提がどうしても刷り込まれているわけじゃないですか。そうじゃないと小説というか、物語として成り立たないくらいなことは思っているわけじゃないですか。そういう思い込みを完全に破壊されました。し、それを60年近くも前に試みて、こうしてカタチにして、年代別のオールタイムベストに選ばれるくらい大勢に読まれて親しまれている、という状況に愕然としたよね。別に60年近くも前の小説なのだから、僕が義務教育受けてるときに読んだからって全然早いわけじゃないし、なんだろう、遅かれ早かれという問題でも無いんだけど。もっと早くに読みたかったと思ったよね……。大体往年の名作とか古典とかって読んだ後そういう印象抱きがちだよね。まぁ、僕は大概アホなガキだったので(今も大概アホだ)その時読んだからって血肉になっていたとは到底思えないけど。

コミュニケーションとはどういうことなのかについて結構考えさせられた。まだ噛み砕けていない部分は多々あるし、もう何度か要点に絞って読み返すなどしたいとは思っている。

ところでこの小説をラブロマンスとして消費している層なんて本当にいるんですかね。ソダーバーグだっけ。映画化の2作目はだいぶそういった方向に特化して映像化されてレムの機嫌を大変損ねたみたいなことが解説に書かれていたけど、そういった、商業的な戦略とは別の部分でこの作品をそういう風に見なしているひとがいるのなら、僕はそういうひとの話を結構真剣に聞いてみたいと結構真面目に思っている。

あとどうでも良いけど惑星ソラリスについての記述を読めば読むほどクトゥルフ神話のアザトースのことを考えてしまった。今アザトースのウィキペディア記事を読んで大概的外れな想像だったなと自戒しているが、なんかこう、白痴の神、みたいな想像をしてしまったんだよな。本当にどうでも良い話を繰り広げてしまったね。

 

 

クロニスタ 戦争人類学者 (ハヤカワ文庫JA)
 

みんな大好き『ハーモニー』以降について。

3作続けて翻訳小説について感想というか所感を書いて、まぁそれで終わらせても良かったんだけど、『ソラリス』について書いてたら興が乗ってきてしまったのでこの小説についても書いておく。

柴田勝家先生の小説は『ニルヤの島』を読んでいて、まぁ何かしら思ったことはあるんだとは思うけどその記憶は思ったより不鮮明でどういう終わり方した小説なのかあまりよく覚えていないんだけど、まぁ『伊藤計劃トリビュート』だね。それにこの小説の1章が丸々載せられていて、後に完結させてハヤカワ書房から出版されるということが書かれていたので、この小説は発刊されるのが結構楽しみだったと記憶している。発売されてから結構早い内に確保したはずだ。読むのが2年後になってしまったのは……、まぁ、愛嬌だ。愛嬌では無い。買った小説は読もう。

南十字星』というタイトルで『伊藤計劃トリビュート』に載っていた1章を読んで、僕は割と衝撃を受けたんだよね。伴名練先生と長谷敏司先生の作品とこの『南十字星』が特に気に入って、この作品が完結した暁には伊藤計劃にまつわる流れにある種の決着が付くのではないかとさえ思っていた。

『ハーモニー』世界以降の世界にて、『虐殺器官』に登場する虐殺の文法を、限定的な状況とはいえ方法論としてしっかり説明して登場させたことに衝撃を受けないはずがない、と言ったら大袈裟に聞こえるだろうか。

人間の「意識」に関する『ハーモニー』以降の流れというか、僕も大概読書歴が浅い内に『ハーモニー』を読んでしまってめちゃくちゃ感化されてしまってその流れを追おうみたいな感じになってあれこれ読んだりしたのだが、まぁあまり手応えを得られない読書体験をおくっていた。

結果的に言えば、物語作品として、『クロニスタ 戦争人類学者』は僕を満足させる小説足り得なかった。この感想が感想として正当かどうかは微妙なところだが、結局、故伊藤計劃に対する追悼小説だったな、というのが最後までこの小説を読んだ僕の所感だ。それは『屍者の帝国』で、円城塔先生が既にやったことだと、僕は思った。盟友である円城塔先生がやったことを改めて他の作家がすることに、たぶんその作家以外に働きかけるちからは無いように思った。まぁ初出が『伊藤計劃トリビュート』という、公式アンソロジーだ。ならば意義的に間違っているとも思えないと思い直したが、ともあれ、内容に関しても一辺倒な展開が立て続いたり、ページ数を稼ぐ以上の意図が読み取れないシーンが多かったりで、前述したような感じで終わってしまったので、もうちょっと頑張って欲しかったな……と思ったのがこの作品に対する感想だった。

ただ、「意識」に関する定義問題に関しては収穫があったと感じた。

言語的な思考やそれに由来した認知が生み出しているのが人間の意識であり、動物や昆虫がその脳内で繰り広げるものは人間が言語的に読み取れないものであるから意識とは定義づけられない。人間が定義づけられないものだから人間としての意識ではない(逆説的に、その脳内に生み出されているものは人間が定義づけられないだけで、決して意識ではないとは断定していない)。というような風に僕は読み取った。読み取りとして甘いということはあるだろうし、そもそも作中でこれが詭弁であることは示されているが、「意識が無い」という状態が、我々が共有する言語を由来とした意識活動の類に当てはまらない状態=我々が認識出来ないだけの状態=「意識が無い」わけでは無い、かもしれない。という可能性を提示してくれたのは面白いと感じた。意図的に作中システムを除外した読み取りなので筋が外れてしまっているかもしれないし自信が無いが、まぁ作中のヒユラミールちゃんの変化や変遷からしてそう見当外れな読みでは無いようにも思う。

WatchMeによって意識を無くしたトァンたちは、ただ我々の想像も付かない見地に到達しただけなのかもしれない。何もかもが自明の世界に葛藤は無いかもしれないが、彼女たちはそれでも意義を見出して生きているのかもしれない。想像もつかないけど、きっと素敵な感じなのかもしれない。僕にはわからないことだけど。

 

こんな感じだろうか。

結構時間を費やしてあれこれ書いてしまったが、たぶんこれを残しておくことは僕にとって意義のあることなので、また本読んで思うことがあったら書いていこうと思う。読む方々にとって意義のあることなのかはわからない。まぁ、あまり無いんじゃないかなとは思っているが。