Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 12/02(日)の気持ち

端的に言って、調子があまり良くない。

僕は以前から公言している通り、あまり外出をしない家にいることこそに安心を感じるタイプの……、まぁインドアなオタクなのだが、そういった人間が3週連続で予定を入れて外出したりすると身体や精神に掛かる負荷も尋常では無いらしく、その予定の中で久しく会った友人とお話ししたり新しいものに触れることで触発されたモチベーションというものも確かにありはするのだが……、まぁ、疲れてしまったのだな。非常にお疲れ申し上げました。友人のおうちにお邪魔して鍋をつまんでSAKEを飲みながら映画を4本連続で観たり、クラシックのコンサートを聴きに都心の方に行ってその都心の空気に恐怖を感じたり(コンサートはめっちゃ良かった)、同人即売会をハシゴしたりすると疲れるのだ。といったような感じで今週は酷い体たらくだったのだが、ようやく一息吐いたような感じだ。年々人間として貧弱になっているように思うが、どうにかならないだろうか。これが絶対に上向くことが無い加齢によるポテンシャルの低下だとしたら絶望しか無いんだが。まぁ、生活リズムもズタボロになっているので、それを何とかすることで何とかしていきたい次第だ。何とかってなんだ。何とかか。何もわからん。

 

ようやく、本当にようやく、小説を書き始めた。

こう、自分の中のハードルが上がりに上がった状態にあったのが今までの僕の状態であったことには割と自覚的だ。書いた小説が失敗作だと言われることの恐怖というか、自分が考えて体現した面白さが他人に伝わらなかった時の恐怖というか、それに着手していた時間が全て無駄だったと感じるような(それに関して、まとまった時間を取るもの、具体的にはコンシューマのRPGやフルプライスのえっちなゲームなんかをプレイするのに異常な恐怖感を覚えたりする。つまらなかったら丸々時間が無駄になるような気がしてソシャゲかナンプレしか出来なくなって結果的に大幅に時間を無駄にするのだが……)。この辺、他のクリエイターたちが(プロアマ問わない小説家に限らない話に思うので一まとめに語るが)どうやって、悲観的に言えば妥協点を探したり、楽観的に言えば自信を出力したり、そういった自信のコントロールをしているのか、めちゃくちゃ気になっているという気持ちはずっと抱いている。

特に商業で活躍されている諸先生方や、即売会やダウンロード販売サイト等で売り物として販売しているアマチュアの先生方(それ以外のクリエイターもいるだろうが)なんかは、僕が以前していたような新人賞投稿とは違って、不特定のひとたちからダイレクトな感想が飛んでくるということも多々あるのではないかと思われる。別に読まれる数や感想をくれる人数が少ない新人賞の評価シートがダメージ的に少ないということは絶対に無いのだけど(それゆえにダメージがデカいということも往々にしてあることだけれど)、そういった“評価の暴力”とでも言うのだろうか、消費者特有の「お金を払ってるんだから好き勝手言う権利がある」理論によって組み立てられた消費者当人独自の理論や感情論が作者の都合もお構いなしに飛んでくる状況というのは想像するだけで恐ろしいというのは随分前から考えてはいることだ。

僕はとてもネガティブな人間なので、そういった悲観的な考え方をまずしてしまうのだけど、まぁそういう場面というのも局所的なものかもしれないとは流石に思っているが、長くインターネットをやっていると、どうしても良くないバズり方をしてインターネット魔女裁判の末にインターネット火あぶり(それはまま現実世界にも波及する)にされてしまった方々を見てしまっているので、そういうのめちゃくちゃ怖いという先入観ありきで考え始めたらキリが無い、というのはあるのだが。話がやや逸れているのでインターネット魔女裁判の話はここでやめることにする。

自分の創作物が面白い、良い、という自信は流石の僕にもある。と言うより、それが無い状態で創作を続けている方々の気持ちはまったく想像出来ないと言っても過言では無い。創作者たちが集ってコミュニケートする場において、頻繁に目にする定型句が(正確には目にした、だな。今はあまりそういった遣り取りを目にする場所に行かない)「自分の駄作なんて」というものだが、こういうことを公の場でするすると言えてしまう精神構造というのがそもそも駄作を生み出している根本的な原因なんじゃないか?みたいなことは考えてしまうのだが、まぁそれは大体が謙遜の文脈で使われる定型句で、インターネットに堂々と公開しているのだからそうは言っている創作者も内心では自信満々なのかもしれないし、その発言の真意はわからない。時間に追われる現代人たちがわざわざ時間を割いて駄作を読みに行くという特異な状況が成立するのか考えてみればすぐにわかることだとは思うのだが、まぁ、謙遜しておけば作品に対して抱かれた不満の予防線として機能することになって安心だ。僕も予防線は大好きだ。多用もしている。自信満々に振る舞うリスクというのも大きい。が、これは完成するしないに関わらないようにも思うが、公開に至った作品の話だな。僕は現在ほんのちょこっと小説を書き始めた段階にある程度だし、長らく作品を完成させてこなかった(3月くらいに某所で連載をエタらせた)弊害で、そういう気持ちが本当に再び自分の中に灯ってくれるのか、という心配は書く前からすることになっていた。その過剰な心配が、長らく小説を書くためにキーボードを叩く意欲を根こそぎ潰してきたという実感も強くあった。

“評価の暴力”という話をしたけど、これは別に他人の作品に対してだけ引き起こるものでも無いのよね。ハードルが上がりに上がった状態というのはそういうことだ。別に自分が特別作品摂取しまくったとは思っていないが、まぁそこそこの作品を摂取していれば、大体自分の中にそれなりの基準というものが出来てくるはずだし、自分の創る作品がその基準を満たしているか満たしていないかくらいは判別出来る。まぁこれも物語の構成や部分要素に特化した判別基準になるような気もしていて、個人が持つ知識の限界はその個人が得てきたものに必然的に留まるので決して十全な判断基準では無いのだが、まぁその物語の起伏が読者にそう思わせたいもの(驚かせたい、泣かせたい、嫌な気持ちにさせたい、爽やかな読後にしたい等)として適切かどうかくらいは制御出来るんじゃないかとは思われる(前述もしたが知識の限界という問題があるので、必ずしも作者の想定が実現出来るものであるとは言えないが)。

肥えた目と実力の相違という問題もある。どうやっても自分のこころを強烈に震わせた作品を再現出来ない、というか何というか、好きな展開に作品が合致してこないというか。まぁこれに関しては考え続けるしかない。こう、作品を創るために敢えて勉強をしない、という選択肢は至る創作物の製作の姿勢として存在しているように思う。音楽なんかではまま聞いたような話にも思うが、理論や方法論を勉強することでその枠に囚われてしまって自由な製作が閉ざされてしまうというような話だ。まぁこれも狭窄な視野のように思うが、確かに理論や方法論を勉強すればするほど作品に持たせられる自由度、特に商業的と呼ばれるようなものはそれが狭いように感じるというのも僕にはある程度納得が出来るような理論展開であるように思える。が、それはそういうものなのだな。まぁ僕は小説を書くのだから小説、特にラノベなんかはちょいちょい読んでるのだが、ある程度決まった型枠というのは確かに存在していて、その型枠が作者の邪魔をしているんじゃないかと思う作品というのは幾つか思い浮かんだりもする。で、強烈な読書体験を得られたという作品は、その型枠から外れているものも多いような気もしている。万人に受けているかどうかは僕の存じるところではないが、少なくとも僕が読んで満足したものはそういうカタチになっていて、ならばその型枠なり方法論なりを勉強することは遠回りのような気もしてしまうというような話だと思っているが、まぁそれこそが視野狭窄というもので、それは方法論を知り尽くして敢えて外すことで、その作品だからこそ成り立っていることなので、それを知らずにいきなり傑作が生まれてくるということは猿にタイプライターを叩かせてシェイクスピアするくらい有り得ないことだと僕は思っている。方法論を完璧に押さえたものでも天と地ほどの差が付いたりもする。方法論は方法論でしか無いので、細部に神を宿らせられたか否か、というような漠然とした物言いしか出来ないが、まぁそんな感じだと思う。どちらにしたところで稀に10代で受賞作を世に叩き付けてそれがバンバン売れたことで天才と呼ばれるような人間が出てきて、そういう連中を見るとうっかりシェイクスピア出来てしまうんじゃないかと錯覚してしまうようなこともある。若気の至りを思い返して非常に苦い気分になっているのが今だが、まぁそれは端的に言えば考慮しなくて良い可能性だ。一作長編を書き上げて(作品を創り上げて)、それが受賞しなかったのなら(プロになるための条件を満たせなかったのなら)、あるいは求めていた評価が得られなかったのなら、お前はその類ではなかった、というだけの話なのだから。まぁ何が言いたかったかと言うと、実力と肥えた目に差が開いてしまったのなら、それを埋められるように考え続けるしかないということだ。身体能力ほど露骨ではないのだから、考え続ければ自分のその理想はある程度再現出来るはずだと僕は考えている。まぁ別に処女作即受賞というのはアレにしても、書いているのが人間なら、評価しているのも人間なのだな。自分が自信に充ち満ちて送り出した作品が評価されなかったところで、それは良さの受容体が合った合わなかっただけという話も往々にしてある。何が評価軸になっているかという問題もある。そうやる前から悲観するなよ、と、自分に言い聞かせたいと思った、というような話だったが、この話題の大半は蛇足だったので反省しています。

 

久しぶりに小説を書いて思ったのは、書けば書けるということだった。

それは別に自分の中の基準を満たしているとか、評価の暴力という荒波の中で勝ち筋を見出せるものであるかどうかとか、まだそういった次元の話ではない。なんか頭の中で組み立てた要素たちを組み立てようとすれば、実際に組み上がるのだな、という、久しく忘れていた、小説を書くことでしか得られないこの感覚だ。実際問題、小説を書き始めたとは言ったものの、前回だかその前だかの記事に書いた「全没しても良いプレ版」みたいなものを書き始めた段階だ。だからこれが作品本文として使われるかどうかはわからない。自分が頭の中だけで考えて、これ以上は実際にカタチにしないと細部まで練られないと思ったので、その思考の場所を脳内から紙面に移したというだけの話だ。だからこれを「小説を書いている」と言って良いのかはわからない。……いや、こういった考え方が自分のハードルを上げるだけ上げる余計な足枷になっているような気もするのだが、まぁ多少は脱することが出来ているのではないかと思うので大目に見て欲しい。どうしてもこう、自分のモチベを削ぐことは簡単なのでやってしまう。自分に厳しいことは美徳のように取られがちな気もするが、それが自分の行動を束縛して制限するものであるなら最初は優しくしてあげるべきなような気もしている。「お、きみどりすげぇじゃん。お前、キーボード叩いて文字、書けてるじゃん!すげぇよこれ文章になってるよ!それで、なんだ!?……お前、これは描写だよ。描写出来るってすげぇよ!セリフまで書くのか!?それはもう立派な小説だよすげぇよきみどり!」くらいの独り言を垂れ流しながら小説を書いても良いのかもしれない。虚しくなってきたらやめたら良いのだ。隣の部屋から壁を殴られないくらいの声量でやれば尚良しだな、うん。

 

肉体の疲労は精神の摩耗にも直結するので、どうにも不必要に攻撃的なことを書いてしまって良くないということを、読み返しながら思った。おうちに独りで籠もってうんうん考えたり考えなかったりしていると、仮想敵とかいうやつが脳内でやんややんや言ってくるので叩き潰したくなるよな。人間は明確な敵がいないと自分の中にさえそれを作り出してサンドバッグすることで安定を図る生き物なので良くない。いや、そうじゃないひともいるのかもしれんが。まぁあんまり見たこと無いが。吐き出す吐き出さないというだけの話のような気もするが、自分の愚かさみたいなものを徹底的に隠蔽したいのならそれはやらない方が良いだろう。そういうひとはたぶん私情を書き連ねるみたいなブログは書かないと思うので、僕は愚かな人間としてやっていくことにした。こういうところで自分に甘くなるのはただの思考の放棄なので気を付けたいと思いました、はい……。

そんな感じで(どんな感じだ)続けてやっていこうと思っている。どうも少々書いたところで先が書けなくなってずっと書いたところを直してしまう病を患っているっぽいので、たぶん本文の最前線に何らかの問題があると思うのでその辺りと向き合ってやっていきたいと思う。驚くべきことに、小説は書かないと書かれないらしいし。

とりあえずは自分が読みたいものをカタチにしていくことだね。どう足掻いたって完璧な客観性を手に入れることは不可能なので、その辺の折り合いを見付けつつ、自分が出来る客観性の限界くらいまでは直して直して直し尽くしてやろうとは思っている。それがわからなくなって筆を置いてしまうことも怖いことだけどね……。

 

他にも書きたいことがあったような気もするがかなり書いてしまったのでまたいつか書こうと思う。いつかって、いつだ……?今さ!(今ではない)