Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2019 1/15(火)の気持ち

もうそんな時分でも無くなってしまったように感じるが、とりあえず新年の挨拶くらいはしておこうと思う。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。

こう、僕はあまり季節ごとの行事とか、その時々のイベントみたいなものに乗じて浮かれたり騒いだりみたいなことがあまり好きでは無いのだが、まぁ別に言って何がどうなるわけでもないので、まぁ形式として、という感じだ。季節感を無視していつも通りやっていこうとも思ったのだが、気持ちや雰囲気の切り替えみたいなものは大事かもしれない。何より年末に「今年最後の~」みたいな記事を書いてアップローヨしたのだから、別にそれくらいであーだこーだ言うことでも無いような気もしてきた。なんかこう、……難儀な性格をしていることを察して頂ければ幸いだ。今更か。

 

まぁそんな感じで、始まりましたね、2019年……。もう半月も経ってしまったが。

 

年末年始は実家に帰るなどした。

なんか色々したような覚えもあるが、地元の友人と集まって遊ぶ以外だと基本的には実家のこたつで寝ていた時間が大半だったような覚えもある。

僕は大体お盆と年末年始で2回ほど実家に帰省するリズムで1年をやっているのだが、なんか帰る度に寝ている時間が多くなっているような気がしている。別に実家に帰ったからといって特別やらなきゃいけないことも無いわけだし、自炊をまったくしない僕は外食産業の恩恵を多分に受けているのだが、実家に帰ればお母ちゃんやお婆ちゃんがご飯を作ってくれたり炊飯器の中には基本的にほかほか白米があったりするので、外食産業に頼らなくなる代わりにそれらに頼ることになる。白米に納豆を乗せたやつを食べることで血糖値が急激に上昇し、それを宥めるためにインスリンがあれこれすることになって急激に眠くなる。だから寝る。起きる。おなかが空いている。煮物をおかずに白米を食べる。寝る。起きて刺身をおかずに白米を食べる。寝る。はぁ……幸せな日々だった……。まぁそんな感じで、一応念のために持って帰ったパソコンを開いたりすることも一切無く、一応念のために持って帰った本を開くことも一切無く、僕の年末年始はあっという間に過ぎ去り、またこちらに帰ってきていつもの日々が始まることになり、半月が経った。体感時間にして3日くらいの時間だった。知らんが。

実家に帰ってから一番変化したことは、生活リズムだ。

こちらに帰ってくるときに朝8時に起きて11時の電車に乗ったのだが、そのリズムが半ば固定されてしまって焦っている。

僕は労働環境の関係で夜型生活をおくっているのだが、それがなんか午前の8時から10時くらいに起きるようになってしまって、まるで真人間になったような気がして困っている。この話をひとにすると「え、その方が絶対に良いよ~」と言われたりするのだが、それは一般的に人間は朝起きて夜寝る生活が好ましいからそう思われているのであって、僕の生活リズムにあまり合致していないことは考慮してくれないのでモヤモヤする。まぁ、上に「真人間に」とか書いた僕が言うのもおかしな話なのだが、まぁ別にその皆が当たり前に思っている生活や価値観みたいなものって往々にして例外があるものだし、それをしていないと普通の人間(普通の人間ってそもそも何なんですかね)じゃないみたいな、そういうのって色々刷り込まれすぎてる価値観じゃないかって思うんですよね。大事なのはその本人本人の生活や価値観なんじゃないんですかね。他人を害していないなら関係ないのでわって思うんだけど、僕がこのリズムで生活することでアパートの両隣のひとが迷惑被っている可能性もあるわけなので自信が無くなってきた。日光を浴びてセロトニンをどばどば分泌するのも大事ですからね。とか何とか言っているが、こんな時間に記事を更新しているのだから地味に地味に生活リズムが元に戻ってきているので安堵している気持ちもある。色々無理をしていてリズムはまだ固定されていないので、また派手にぶっ壊れる可能性も高いが、まぁほどほどに直していきたいという気持ちもある。休日の夜に起きて休日を丸々吹っ飛ばすのも精神衛生上あまり良くないことなので、何事もほどほどが大事ということだろう。ほどほどがどれくらいなのかはあまりよくわからないけれど……。

 

推しが3Dの肉体を手に入れた。

実家に帰った2018年12月30日の20時半、僕は地元の田舎電車に乗ってソーシャルネットワーキングサービスを眺めたり電子書籍を読むなどしていたのだが、推しが3Dの肉体で配信することを事前に察知していた僕はおもむろにユーチューベを開いてその配信を観始めた。

結果を端的に言えば、僕は限界を迎えた。

電車に乗っている最中に開いて限界を迎え、実家の最寄り駅に着いてからしばらくしてまた開いて限界を迎え、それを観ながら実家までの田舎道を歩きながら聴いたり観たりして限界を迎え、実家に着く直前くらいでまた限界を迎えた。

もうダメかもしれないと思った。

友人の家でCount0を観たりもした。僕はもちろん限界を迎えた。

あまり多くは語らないが、確実に、着実に推しの配信が観られなくなっているのでもうダメかもしれないと思っているし、事実、僕はもうダメだ。

誰か助けてくれ、切実に……。

あと、上の話題にも関わるんだけど、生活リズムがそんな中途半端な朝方になることで唯一の生命線だった朝エリが観られなくなってしまって本当に困っている。新年初の朝エリも、その次のモーニングコール配信もリアタイ視聴出来なくてこころが折れそうになった。リアタイ視聴出来ないと限界になってしまうので、アーカイブも観れていない。これでは推しを推しとは呼べなくなるのも時間の問題だ。どれを観ても神回であるパトラさんの配信はお茶を飲む感覚で観られるのに、推しの配信だとこうなってしまうのは本当に問題だと思うので、今月中になんとかしなければならないと思っている。

誰か助けてくれ、切実に…………。

 

小説を書き始めた。

短編小説を書くモチベーションは絶無だったのだが、なんかpixivにてコミック百〇姫の編集部が百合文〇作品なるものを募集しているのを鋭く察知した僕は、それに参加するための短編百〇文芸小説をお祭り感覚で書き始めることにした。進捗はあまり芳しく無い。

そもそもこのコンテストに対して思うことは色々あるのだが、まず1点。

20000字上限って微妙過ぎないですかね……。

いや、正確には、20000字は上限ではない。応募要項を確認してみると、「5000文字以上~20000文字程度が好ましいです」と書いてある。応募要項にこんなあやふやな書き方をする賞やコンテストがあってたまるものか、という気持ちをグッと飲み込むとして、そもそもコミック百〇姫はコミック誌だという大前提も考慮にいれるとしても(当然編集部もマンガの編集をする集団だということだ)、まぁ最大文字数は25000字くらいだろうな、という感じがする。「好ましい」という表現を最大解釈すれば、pixivの投稿上限字数である300000字書いて投稿しても「好ましくない」だけで選考対象外扱いにはならないということなので問題は無さそうだ。知らんが。

で、その5000~20000字。まぁ25000字でも良い。

それに加味しなければならない、「文芸」要素。

この「文芸」という要素をどう解釈するかは個々人の解釈ぢからに委ねられるのではないかとは思うが、一般的に「文芸」なる基準を満たすために必要になってくるのは、総合的な描写表現になってくるのではないかと思われる。風景描写に人物描写、行動・行為描写に、心理描写。キャラ文芸なるジャンルについて僕はあまり明るくはないが、ラノベレーベルから出版されている一般的なラノベ作品よりは描写表現にちからを入れているものが多いんじゃないかと勝手に思っている。少なくとも、僕が僅かながら読んだ作品はそういう体裁になっていることが多かったようにも思う。まぁこのコンテストがラノベテイストを求めているかキャラ文芸テイストを求めているかは知らないが、コミック誌発のコンテストであるからにカワイイ女子イラストがでかでかと使われていることからお堅い文学作品テイストを求めているわけではなさそうだということはわかる。となると前述した2つのテイストのどちらかが近いのではないかと思われる。知らんが。

ここで改めて要項を確認する。

「本コンテストは、女性同士の恋愛や友愛をテーマにした小説を募集するものです」

と書いてある。

……僕はもう一度要項を確認する。

これ以外に内容指定に踏み込んだ文は特に見当たらない。

いや、どう書いてあるものを求めているかくらいは書かんかーい!

……いや、まぁ、そこまで指定するとコンテストの間口が狭まってしまってアレかもしれないが、そうなると「文芸」なる概念をコンテストの名前に冠している理由は不明になるか、わざわざ書かなくても良い大前提ということになる。「百合」「文芸」なる文字列の語感が良かったのか、本当に文芸的な作品を求めているか、投稿者たちはその2択から選択しなければならなくなるが、まぁ無難な選択は後者だろう。前者だとしたら、それを忖度しなければならなくなる投稿者たちはあまりにこうどなしんりせんをしいられている。となると、前述した描写表現に特化したものを書く必要性が出てくる。

で、「百合」だ。

百合とはどういう概念かを、ここに記すのは難しい。

この概念について「こうあるべきだ」「〇〇は百合とは呼べない」など書こうものなら、それはもう開戦の狼煙を上げることと同義だ。百合という概念は、それを観測する個々人の数だけ定義がある。だから一概に「こう」とは言えない。血で血を洗う戦いが始まってしまうからだ。しかし、それは往々にして「女の子同士」の「関係性」を描くものではないかと、僕は思っている。

関係性を描くためには、その女の子のパーソナルを描く必要がある。そのためには三人称で書くのはあまり好ましくないだろう。僕は百合小説が好きで、まぁほどほどに百合小説を読むなどしてきた人間なので、三人称小説の百合小説というものをそもそもほとんど読んだことが無いこともその理由に挙がる。先人たちがやらないことには理由があるし、僕も三人称の百合小説というものをどう書いたら良いかわからない。二人称は論外とするとして、ならば一人称で描くことになるのだが、そこで求められるのが前述したあらゆる「描写表現」だ。

女の子同士の関係性を、その互いのパーソナルをしっかり描いたうえで、文芸作品的な描写表現を多分に盛り込んで、5000~20000字程度で完結した百合作品を描けと、投稿者たちは言われているのだ。当然、作品として成り立っていれば良いだけではない。小説的な面白さ、興味深さが無ければ賞は狙えないだろう。

僕は頭を抱えた。

この全ての条件を満たして1つの短編を生み出すのは、相当に難儀することなど容易に想像がつくからだ。

まぁ、上記は全て僕の憶測だ。だから別にこうしなければならないというものではないし、こうすることでコンテストに受賞できることを保証するものではない。僕はコミック百〇姫の編集ではないので、当然だ。ただ示されていた情報を掻き集めてどうすれば良いのか探ったものでしかないので、鵜呑みにされても困る。が、これらを本当に考慮するのであれば、並大抵ではない試行錯誤を強いられることは覚悟した方が良い。

例えば、まんがタイムきらら的な、カワイイ女の子たちがきゃっきゃうふふでカワイイ、という作品に過剰な描写は盛り込みづらい。カワイイ女の子たちがきゃっきゃうふふでカワイイことを描くために過剰な描写を盛り込むことで、カワイイ女の子たちがきゃっきゃうふふでカワイイ情報がどんどん後回しにされてどんどんその情報がロスしていくからだ。試しにごちうさきんモザをノベライズしてみると良い。この作品たちが持つゆるふわハイスピードきゃっきゃうふふ劇が台無しになることなどやらなくても僕にはわかる。

まぁ、僕が短編を書くと大体30000字から、ヘタしたら50000字も超えてしまうみたいな極端な体質なのも苦手意識に拍車を掛けている気はする。……気はするが、20000字は少ない。既知の関係からしか描けないという制約も自然と設けられている気がする。となると、ガールミーツガールという前提で考えるからダメなのかもしれない。あと、短編というテンプレートに一番縛られているのは僕かもしれないと思い始めている。なんかもっと上手くやれる方法は幾らでもあるのかもしれないね。小説を書くって難しい、ホントに……。

というような感じで、あーだこーだ言いながら書いている。もうあと10日くらいしか締め切り日まで日数が無いのでエンジン全開で書いていかなければならないのだが、そんな感じなのでなかなかエンジンが上がらないですね……。言い訳ですけどね。

 

書けて投稿出来たらここに宣伝しようと思う。そしたら読んでくれると嬉しい。

なんか、あれこれ書いたら宣伝しようとか読んだら感想書こうとか言ったものを一切ここに載せられていないので雲行きが怪しいが、今年はしっかりやっていくって決めましたからね。やっていこうと思いますよ。ちょっとずつやっていますけど。

 

そんな感じで、2019年最初の記事だった。

相変わらずまとまりの無い記事だしお気持ちが垂れ流されるままになってしまったが、別にいつも通りのような気もする。

いつも通りだから良いってことでも無い気がするが、まぁね……。