Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2021年12月13日(月)の、『逆行の夏』を薦めたい気持ち

別に書くことも特に無かったので放置していたんだが、折角なので書いていこうという気持ちになったので書いていこうと思う、ブログを。

きみらもブログを書いていけ。

 

何をやっていこうかな、ということを考えたんだけど、僕がやっていることなんて本を読むか小説を書くかのどっちかなので、それに関することをやっていこうと思う。

 

 

とりあえずはオススメの本でも紹介する。

これ、ジョン・ヴァーリイの『逆行の夏』。

一昨年だか去年だか、小説が書けない苦しい時期に海外SFの短編集などを読み始めて、まぁまだ全然冊数を読めていないんだけど、とりあえずは備忘録という意味を込めてやっておけば良かったなと思って、なら今から始めれば良いじゃんという感じで書いていく。備忘録大事だよね、読書メーターには簡単に残してるんだけど。

 

この本を読んだのはいつだったかなぁと遡ってみたら、2019年の4月1日だったようだ。読了日がこの日というだけでそれ以前から読み始めていたわけだが、恐らく2018年の年末だか2017年の年末だったかな……。確か地元に帰る混み混みの電車の中で、座る席も無く、腰や背中などを痛めつつ、立ちっぱなしのまま最初の収録作を読んだ記憶が鮮明に残っている。iPadって片手で持つと結構重いし……。

表題作『逆行の夏』だ。恐ろしく古臭い、アメリカとソ連が宇宙を目指したある種豊かな時代の、その未来像がそのまま描かれたような短編だった。

僕は辟易して読むのをやめた。古臭い作品は苦手だ。あと舞台が水星だったかで、その荒唐無稽さにも辟易した。極寒と灼熱を行き来するあの星で人間が生活を?

銀色で、流線型で、身体にフィットした間抜けな宇宙服を着た人類の未来を夢想した。

そういえば最近の宇宙作品に登場する宇宙服ってとにかく無骨で機能性重視で見てくれの良さなんてものは二の次になっている気がする。上記した宇宙服に見てくれの良さがあるとも思えないが、日本が昭和だった頃はそういうのが流行っていた気がしている。僕は断然、今の無骨なデザインが好きだ。地球上でしか生きられない人類が領域外に出て行くわけだから、見てくれなんて気にしている場合じゃない。まぁ未来予想図なんだから見てくれも大事だと思うけど。皆が憧れないものは賛同されないわけだし。

とにかく、そういう雰囲気が苦手で読むのをやめた。表紙が……これはシライシユウコさんかな……? 個人的にシライシユウコさんが表紙を書いてる小説ってそれだけで面白さが保証されている気がしていて(唐辺葉介さんの、星海社から出ている3冊とか)、まぁそれも外れるものだなぁと思って放置してしまった。

改めて読もうと思ったキッカケは、信頼を置いているトゥイッターのフォロワーが、その先に収録された作品を絶賛していたからだった覚えがある。

『さようなら、ロビンソン・クルーソー』を読み、まぁ『逆行の夏』よりはマシかなぁと思い、『バービーはなぜ殺される』を読んで「良くなってきたじゃん!でももう一声!」などと誰目線なのかわからない感想を抱いた。

この傑作選は書かれた年代順で並んでいる気がしているんだけど(その情報がこの本の中には一切無い)、一人の作家が、書くごとに筆力を増していく様を見るのは単純に読んでいて気持ち良かったよね。これはル・グィンの『風の十二方位』でも思ったんだけど、主張や脳内解像度が言語化に馴染んでくるターンというのが作家にはあると思っていて、殻を破った作家はどこかしらのタイミングで脳がそう作り替えられるような気がしている。思考が言語化に特化してくるというか。昨今の日本の作家だったら最初からそれが求められているような気もするけど、古典やそれに近い海外作家の作品を刊行順に追っていくのはそういう楽しみ方もあって面白いと思っている。

話が逸れた。『残像』だ。

好きな短編ってみんな色々あると思うんだけど、例えば僕だったら小川一水さんの諸短編だとか長谷敏司さんの諸短編だとか伴名練さんの諸短編だとか(機会があったら紹介する)、まぁ色々あるんだけど、ジョン・ヴァーリイのこの『残像』に関しては少し違った熱意を抱いている。

これ以上の作品に出会えるのかなぁという気持ちがあるのだよな。

僕は人間がコミュニケーションあるいはディスコミュニケーションする作品が特に好きで、この『残像』はその極致を目指した短編だったなぁという印象があった。コミュニケーションあるいはディスコミュニケーションする作品というかなり大雑把な説明は自分でも良くないとは思いつつ、もっと言えばそれが無い作品なんてそうそう無くない? とも思いつつ、深刻にそれが描かれた作品が読みたいよね、という感じだ。わかる? まぁわからないならこれを読めば良いよ。読んだらその凄さがわかる。

僕らは言語でコミュニケーションを取り、まぁ表情やスキンシップなど他者に与える情報に関しては色々あるとは思うんだが、言語が持つ比重の大きさというのは当然計り知れないと思っている。喋らないと他人のことなんかわからないし、喋って、なんかこのひとのこと良いなと思うひとにしか触れられたくないと思う、僕は。きみらがどうかは知らないけど、まぁだから言語コミュニケーションは取っ掛かりなんだよな、僕にとっては。なぜ僕の感性がそうなってしまったのかとか、なぜそういう先入観が育ってしまったのかは自分でもよくわからないが、『残像』は良くも悪くもそういう僕の感性から掛け離れた地点にあるコミュニケーションについて想像し、模索した作品だったと思った。40年も前の作品なのに、めちゃくちゃ新しいと思ったのだ。たぶんこういった方法論を模索したひとは少なかったんだろうし、ヴァーリイの思考のその先に行けるひとがいなかったんだとは思うが。あと状況の作り方が今じゃ難しい作り方よね。

アメリカという国が疲弊し、合衆国民たちが自暴自棄になったその時代、人里離れたとあるコミューンには目が見えず耳が聞こえないひとばかりがとある事情で暮らしており、そのコミューンを訪れた男が、彼らの特異なコミュニケーションに感銘を受け、そのコミューンで彼らとの共存を試みる、というような筋書きで話は進んでいく。

興味を持って読んで貰いたいならあらすじをだらだら書いていけば良いんだけど、僕があらすじをまとめる過程でスポイルされるものは多いだろうし、まぁこればかりは読んでもらいたいしその目で確かめてほしいと思う。

というような気持ちもありつつ僕の感想もネタバレの無い範囲で書いていくんだけど(読んだひとは僕の感想と比較してみてね)、当時はこれがスゲェと思ったし、これしか無いと思ったんだよな。『残像』は2回読んだんだけど、2回目から現在の過程でその感じ方も少し変わってきてるのを感じている。

これ、めちゃくちゃ気持ち悪いんだよね。

コミュニケーションの話だからコミュニケーションの方法についての話なんだけど、もうとにかく生理的に受け入れられない、僕は。でも、だからこそそこには想像の余地や願いみたいなものが入る余地があるし、こういう極限のコミュニケーションがともすれば成り立ってしまうような凄みがある。でも僕だったら絶対に嫌だ。こんなコミュニケーションは試みるのも嫌だ。もちろん作中の彼らと僕が培ってきた環境や境遇は違うので、僕が彼らの立場を辿ったなら違う心持ちになるとは思うんだが。……まぁでも気持ち悪いな。それがどれだけ優秀で、高効率な手段とはいえ。でもそれが出来たら素晴らしいと思うし、人類が辿る未来も違うものになる予感がある。

あと、こういった手段を考える過程で、どうしても“優れるためには何を足すか”という加算を前提にして考えがちなんだけど、欠損している、欠けていることを活かしてカバーして増幅させるという考え方は真似したいなと思うし、それが思い付かない自分の思考の狭さは実感してしまうよね……。

読んでないひとには何言ってるかさっぱりわからん感想だと思うんだけど、とにかく、僕は当時これを読んで、これがコミュニケーションを題材にした小説の最高峰だと思ったし、これ以上の作品にはもう出会えないと思った。あと、終幕が綺麗なんだ。気軽に真似をしたくなるような、でも気軽に真似など出来ないと理解している、相反した感想を抱く読後だった。比喩では無く、背骨に雷が落ちたような衝撃を受けた。きみらがそんな感想を抱けるかはわからないが、そうでなくとも完成度の高い短編なので是非読んでみてほしい。Kindleなら今すぐ手に入るし、良い時代だよね。

その後に収録されてる『ブルー・シャンペン』と『PRESS ENTER■』も良い短編だ。『ブルー・シャンペン』の印象はあまり残っていないが、『PRESS ENTER■』は結構良い短編だと思ってる。今読んだときの目新しさでは無く、その先見性に注目してみると良いんじゃ無いかと思う。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『接続された女』的な凄みがある。最先端のSFの、これからを夢想するような楽しさは強いけど、古典や少し前のSFの、現在との答え合わせをするような楽しみ方も良いと思ってる。

 

もっとコンパクトにまとめる予定だったんだけど、4000字くらい書いてしまった。

こんなかたちで読んだ本の感想とか書いていけたら楽しいよね。定期的に更新も出来るし。

2022年はもっとブログを書いていきたいね。自分のコンテンツぢからを高めていきたいと思う。だとしたらあらすじメインで書いた方が良いんだろうけど、だからオススメって難しいのよね、とも思う午前5時だ……。