Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

あの日いただいた大切なものについて

 

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

 

 

これは2012年8月12日のことだった。

東京ビッグサイトで行われたコミックマーケット82の3日目に、僕は知人のサークルのお手伝いとして参加した。巡り合わせというか持つべきものは友というか、思い返してみれば僕はコミケに一般参加として待機列に並んだ記憶があまり無い。ということは、この日もチケットで入場させていただいたのだろう。

僕はこの日、コミケに参加した。非常に不義理な話ではあるのだが、サークルのお手伝いよりもっと重要な目的があって、僕はこの日を迎えた。

お手伝いしたサークルは、俗に言うお誕生日席という場所に配置されていた。区分けされた島の中でも大きな通りに面した、まぁ結構目立つ場所だ。

その向かい側のスペースだった。

そこで、僕が尊敬する紅玉いづき先生が、同人誌を配布されていた。

 

紅玉いづき先生の作品との出会いは、恐らく『19 ―ナインティーン―』というメディアワークス文庫から発刊されたアンソロジーだったように記憶している。

『2Bの黒髪』という作品だ。

どこかにこのエピソードを書いた覚えがあったのだが、確認してみたらこのブログだった。何度も語りたいエピソードなのだろうかと自分に問い掛けてみたが、まぁ好きな作品はオススメしたいものだろうなとは思う。ともかく、その鮮烈な読後の後に冒頭に貼った(このリンクを貼るのも2回目だ)『ガーデン・ロスト』と出会い、僕は先生の作品の虜になった。少女小説という括りになるのだろうか。出会いが出会いだったから、僕は特に、先生が書かれる少女たちが主人公の、現代~近未来を舞台にした小説が好きだ。少し趣は異なるが『サエズリ図書館のワルツさん』も好きだし、『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』はド直球で、これは大事な時に読み返す小説として大事にしている。もちろん『人食い三部作』も外せないが、僕個人の思い入れという意味では、先に挙げた作品たちの方が強いものがある。

 

小説を読む上で重要視しているものが個々人で異なる点については言うまでも無い。

奇抜な世界観だったり、凝ったギミックだったり、人間関係や人間模様だったり、その中でもSFやミステリ、歴史小説架空戦記、もっと大雑把に現代日本を舞台にしたものやファンタジーなど。まぁ、色々ある。僕はミステリ以外は基本的にはなんでも読もうと思っている読者だ。最近はラノベに偏ってしまっているが、これは精神的ハードルが大いに関わっていることだと思うので、調子が良いときでないとそれ以外を手に取るのが難しい傾向にあることはなんとなく自覚している。

僕が最重要視しているのは、人間の感情だ。

それが深刻に書かれているものであればジャンルは問わない。ミステリを好んで読まないのはこの辺が理由になっているような気がする。僕が認識しているミステリは、人間の心理を重要視しない。殺人ありきで、トリックありきという認識だ。まぁ「ミステリは読まないよ」と言いながら、ちゃんと読書するようになったのは、高校生の時に出会った西尾維新先生の『戯言シリーズ』だったりするのでつくづく自分の好みなんてアテにならねぇなとは思うのだが(このシリーズをミステリと括ってしまうことには若干の抵抗感もあるが)、ともかく、僕はそれを一番大事にしているし、一番大事にして欲しいと思っている。

一番大事にしていることが明白だったから、僕は『ガーデン・ロスト』が好きなのだろう。連作短編の最終章表題作『ガーデン・ロスト』は、本当に深刻にそれが描かれている。し、なんだろう、途轍もない切実さを筆致から感じた。僕にはこれっぽっちも馴染みの無かった世界の話なのだが、だから強烈に胸を打たれたことを覚えているし、今でも読み返して胸が苦しくなる思いがある。

総じてそういう作品に弱い。先日読んだ『りゅうおうのおしごと!』の3巻なんかは本当に読んでいて苦しかった。

なんかこう書くと苦しくなることを求めてるヘンな欲求を持った読者みたいに思われるかもしれないが、それほどの没入体験を得たいのだという話だ。好きか嫌いかに関わらず、それくらい僕のこころを掻き乱してくれるようなちからを持つ作品でなければ満足は出来ない。そう、満足したいのだ。数年前まで深刻だったバッドエンド症候群が最近改善し始めて、逆にハッピーエンド至上主義みたいになり始めてこれはこれで不味いのではと思いながらも、まぁ納得出来る終わりや納得出来ない終わりなどなど色々あるが、どちらにせよ、強烈な感情の振れ幅を僕に追体験させて欲しいという話だ。その1点を、僕はそれほど長くはない読書歴、執筆歴の中で、ずっと追い求め続けている。

 

と、まぁそういう経緯があって(どういう経緯だ?)、僕は鞄の中に『ガーデン・ロスト』を忍ばせてコミケに参加した。

非常に浅ましい気持ちであることは重々承知しているのだが、あわよくばサインを頂こうという魂胆だったのだ。尊敬する先生の作品に、尊敬する先生のサインを目の前で書いてもらうなんて、そうそうしてもらえることではないという認識があった。サイン本が店に並んでいることはままあるが、あらかじめサインしてもらった本を買うのとは違う格別さだ。僕はイベントなどに足を運びまくるアクティブな人間でもない。

何より、紅玉先生はブログやツイッターで、それが最後のサークル参加だと告知していた。

この機会を逃すわけにはいかないという思いがあった。だからお手伝いもそこそこに、僕はじっと機会を窺いつつ、ずっと賑わっていた先生のスペースからそこそこひとがはけたタイミングを狙って、ついに『ガーデン・ロスト』と財布を持って先生のスペースに向かった。

 

そこからの記憶は、少々曖昧だ。

僕はメンタルが弱いので、緊張するシチュエーションに本当に弱いのだが、それにしてもあそこまで緊張するとは自分でも思わなかった。

売り子のお姉さんに心配されるくらい身体が震えた。ガクガク震えた。同人誌を買って、あまり大っぴらに列を作ったりしないでと軽く注意されて(サイン会ではないのだから当然だ)、それから僕の番になって、先生と少しだけ言葉を交わすことが出来て、サインを書いてもらって、そのときに僕の名前を書いてもらえることになったのでペンネームを伝えたら、僕が当時あまりにもツイッターで先生の本のことをぺちゃくちゃ呟いていたせいというかお陰というか、なぜか先生から認知されていて、僕がプロを目指して小説を書いていることもご存じで、握手していただいて、応援の言葉とともに背を押していただいて(本当に背中を押してもらった)、それから僕は朦朧としながら喫煙所に行ったのだが、思い返してみると……、うん、結構覚えてる。それから先の記憶は本当に無い。

「絶対に報われますよ」と、確かそう言っていただいた覚えがある。

僕は本当に、本当に本当に感激して、そうして5年が経った。

 

僕はそれから何度かラノベの賞に応募した。

万年1次落選ワナビだったのだが、某賞でいきなり最終選考まで進み、その次に某賞でそれなりのところまで進んだものの、結局両方とも落選した。

それから僕の精神は低迷し、今、こうしてこの記事を書いている。

 

この記憶をこれ以上劣化させないためと、このときのことを鮮明に思い出したかったからだ。

本当にプロになりたいのなら、精神を低迷させている場合ではないことなどわかっている。決して選考で落ちるために小説を書いているわけではないが、まぁ十中八九は落ちる。自分の考える「面白い」が届かないのだ。それは技術的な問題かもしれない。好みの問題であるかもしれない。自分の思考が狭いのかもしれない。書いた小説に対する思い入れが浅いのかもしれない。まぁ、色々考えられる。色々考えられるが、書かなければ始まらないことは言うまでもない。僕は現状書けていない。書いている小説は幾つかあるが、どれも書きかけのまま止まっている。精神がストップを掛けてくる。言い訳かもしれない。まぁ、言い訳だろう。作品が面白い面白くない以前に、書いているひとが正義で、書いていないひとが悪なのだから、そこに言い訳を挟む余地は本来無い。それはわかっている。わかっているから、何とかしようとしている。精神を上向かせるための手段を渋っている場合ではないと思ったから、この記事を書こうとした。これは僕のとびきりの記憶だ。この記憶を掘り起こして記述した先に、かつてのようにがむしゃらに書けていた僕がいるのであれば、そこに手を伸ばしたいと思った。絶対に報われたいと思ったのだ。だって、絶対に報われたいじゃん。絶対に、報われたいよ。

というようなことです。

まずは気持ちを上向けることにがむしゃらになりたい。単調な日々の中でモチベーションを保つ術を思い出したい。

頑張りたいですね。頑張りますよ。なんかそういう気持ちになれてきた気がするし、これを一過性の気持ちで終わらせないよう維持していきたいよ、本当に。

 

 

これは余談なのだけど、その少し後に先生がインタビューというか、コラム的なものを文芸誌に書かれていたのを読んだ。

そのときの僕は金欠で、今その雑誌を買わなかったことを本当に後悔しているのだけど、それは立ち読みして、そこに書かれていたことは今でも覚えている。

握手した人間の才能の有無がわかる、と、先生は仰っていた。

これは、本当にダメージが大きい話だった。

 

創作者というのは難儀なもので、自分には才能があると思っているし、無いとも思っている、そういうジレンマを抱えた生き物であると僕は認識している。まぁ色々なひとがいるので、全員が全員そうであるとは思わないけど、才能があると思っているから創作をやめられないし、才能が無いと思っているから創作を続けてしまうような側面はあるんじゃないのかなって、そういう感じの認識だ。特にアマチュアの創作家は。

いやぁね、あのとき握手をしていただいて、そのとき何を思われていたのかしら。

考えても詮無いことだし、「才能が無いよ」って言われたからやめるかって言われたらそんなことは絶対に無いし、僕のことは僕が決めるし、まぁ才能に溢れてるならとっくにプロになれているんじゃないかとかそういうあれこれはまぁアレとしても。

うん。

頑張りたいですね。この一言に尽きてしまうんだよね、結局。

頑張っていこうと思う。

挫けてしまうことが多い日々をおくっているけれど、だらけることが本当に得意な性格をしているけれど、頑張らなかったら生きてる意味が無いよね。少なくとも僕はそう思う。

年間52冊は小説を読みたい気持ち

1年間は52週間あるらしい。

それが52週間 “も” であるのか、52週間 “しか” であるのかは個々人の見解にも依るところだとは思うが、それはそれとして、僕は先日365を7で割ってみる計算などをして、その結果に戦慄した。

1週間に1冊小説を読んだとしても、52冊しか読めないじょん!!

これが52冊 “も” であるのか、52冊 “しか” であるのかは個々人の見解にも依るところだとは思うが、それはそれとして、僕は年間100冊くらいは小説を読みたい願望があったので、その実質半分である52冊という数字に驚きを隠せなかったのだ。

と思い、おもむろに読書メーターを開いて今年読んだ本を数えてみた。

39冊だった。

今日は10月4日の水曜日だ。今年も275日が経過し、残るは90日といったところだ。もうそんなに過ぎてるの!?時間の神様無情すぎィ!!などと頭を抱えている間にも、かしこい僕は頭の中の電卓を叩いていた。およそ3秒の時間を念入りに費やした結果、およそ1週間に1冊のペースで読んでいる計算になった。即ち、これから毎週1冊ずつ読書していくと今年は52冊読める計算だ。

僕は「なるほど」と思わずこぼした。

年間100冊読むことがどれだけ難しいことかを実感したのだ。夢物語だったということだ。冷静に考えて、3~4日に1冊は読んでいなければ達成出来ない目標だ。この部屋にある大まかな積読本の冊数は把握しているつもりだし、それは当然読む本に困らない状況ということでもあるし、にも関わらずまた本を沢山買ってしまったのだが、まぁこの目標をこなすために3年書店に足を伸ばさずとも積読本がある状態であることには目を瞑るが、いやそもそも電書でも買っているのだから書店に足を伸ばす伸ばさない云々はまったく関係無いのだが、ともかく。

52冊って聞くとめっちゃ少ない気がする。

シリーズもののラノベを3タイトルくらい買ってきたらもうあとは買わなくても良いレベルだ。20冊を超えているシリーズもちらほら見るので、その要求は簡単にクリアできる。

100冊にしたところで、決して多い数とは言えない。

その月に出る文芸ラノベ翻訳小説などなど、ハードカバーからソフトカバー、文庫になんか他のあれこれまで合わせて全部買ったら小説だけで100冊なんて余裕で超えてしまいそうだ。その月で出る小説が100冊以上かもしれないのに年間で100冊に絞るってのは、数だけ見ればなかなか難しいことのように感じる。実際は……まぁ書店にいるときの気分とか財布の中身とかによる。古書店も利用すればハードルは更に下がる。万札を握りしめて100冊買ってくることなど全然難しくはない(某チェーン店を利用する時には消費税800円も一緒に持って行かないといけないから気を付けよう)。

読書をする行為が強迫観念に成り代わってしまうことについては以前の記事で書いた。自覚症状的に、結構危ういところをうろうろしているような気はしているが、幸いにも面白いラノベばかりを読めているので気持ちも前向きになっている気がするし、創作するにあたってのモチベーションに繋がっている手応えはある。先日はシリーズものの最新刊まで読み終えたあとに、布団に入って電書で単巻完結の小説を1章まで読み終えて寝ようと思ったらうっかり最後まで読んでしまってえらい目に遭った。面白い小説はこちらの生活のことなど考えてくれない。今年に入ってから39冊読んだことは前述したが、その内の4割くらいは先月くらいから読み始めた分なのでペース配分もおかしい。やる気というか、能動的に何かをしようと思えない時期があまりにも長くあったことが窺えるが、もう一度その状態に戻らないためにも、なんやかんやして自分の気持ちを盛り上げていきたいところだ。

ともあれ、こういう話をすると「冊数読めば良いってもんでもなくない!?」って言われることがあるよね。

確かに面白くない小説を選りすぐって100冊読んだところで得られるものはあまり無さそうだが(面白くなさに付きまとう“情報”には価値があるとは思う。同じ轍を踏まないために)、あなたは小説を買いにいくときに面白そうな本を選んで買わないワケ?という気持ちもあるので、余計なお節介な気がする。面白そうな本がつまらなかったなんて話は道端の砂利粒ほども転がってることなので、もっと慎重にことを進めるならレビューとかも参考にするだろうし、まぁ、あれか。何も読まないよりは100倍マシだよってことで。

 今日はなんか脳が取り留めもない感じなので散文的になってしまった。何が言いたかったかと言うと、「1週間に最低1冊は読みたいよね。で、それを続けてたら年間52冊の計算になるよね。最低限それくらいは小説読んでいきたいよね」ということだった。

なら最初からそう書けば良かった!と思っているのがジャスト今。

 

本を沢山読んだので紹介していく。

『とある飛空士』シリーズの犬村小六先生が送る新シリーズ。

僕はこう、気高いお姫様とかそういうヒロインにとても脆弱性があるので、気高いお姫様とかそういうヒロインにとても脆弱性がある皆様にオススメです。

あまり戦記物って読んだことがないので他の同ジャンルと比較してあれこれ言えないのが残念だけど、少なくとも僕は好きです。

ファニア・ガルメンディア王女殿下を信じてください。

僕から言えることは以上です。

 

先日1章だけ読んで寝るつもりがうっかり最後まで読んでしまった小説がこれ。

高木敦史先生は『“菜々子さん”の戯曲』シリーズを読んでめっちゃ好きになった作家さんだ。青春ミステリなんだけど結構毒のあるお話を書かれる方で、それがめっちゃ好きだ。ライトミステリというか、ミステリ自体僕はあまり好んでは読まないのだけど、人間をしっかり書いてくれるので僕の好みの範疇だ。菜々子さんもそうだったけど、鉢町あかねさんもとても良かった……。

安楽椅子探偵ならぬ暗室探偵なのでその辺好みはあるだろうけど、そういう目に見えるシチュエーションというより、追うべき部分を追うことの方が重要だと思うので、読み方さえ間違わなければ楽しく読めると思う。

オチがまた憎いんだよなぁ……。

 

さっき1巻読んだばかりだけど、アニメ化、めっちゃ楽しみですね!!

 

そんなところだろうか。

秋アニメも始まってしまうし、季節の移り変わりマジで恐いんでそろそろマジでエンジンかけていきたいですねマジで。

失恋モブという概念があるらしい

ことを知ったのだが、天下無双のグーグル先生に訊いてみたらどういう概念かをまとめてある記事などは見当たらなかった。そこから引用して簡単に説明しようかと思ったが、まぁ語感からある程度は類推可能な、そう難しくはない概念だとは思う。

 

“モブ(英:mob)とは、「群衆」「群れ」「暴徒」「十把一絡げ」などを意味する英単語である。 また、アニメや漫画では人が沢山いるシーンを「モブシーン」と呼び、群衆状態になったキャラを「モブキャラクター」と呼ぶ。

 さらに2ちゃんねるやpixivでは上記の意味が転じて、役者で言えばエキストラにあたる端役キャラや、狂言回しの無名キャラのことを「モブ」と呼ぶ場合がある。

 

以上はピクシブ百科事典からの引用だ。モブとは確かにこういうものだが、こうやって平易に噛み砕いて理解しやすい言葉としてまとめてくれるととても助かる。小説を書いている身ではあるが、概念についてわかりやすく説明してくれと言われると、やはり難しさを感じてしまうね。

つまるところ、モブとは固有名称や固有のビジュアルを持たない無名のキャラクターのことだ。物語の進行上、重要な位置にいることもあるだろうが、主要なレギュラーキャラクターではないことが重要だろう。……とまで書いて、例えば、物語の進行に深く関わらない端役としての主人公の両親などはモブと呼んで良いのかどうかということを疑問に思った。異世界転生ものの、現代側の主人公の両親とか。あまり数は読んでいないのでこれが異世界転生テンプレとして正しさを持つのかは自信が無いが、転生に至るまでの本当に短い過程の中でチラッと登場したり、現代の生活の回想でこちらもチラッと言及されたりみたいなのとか、もうほとんどモブと言っても違いない(物語に対しての)影響力しか持たないはずだが、でも「主人公の両親」って属性はあまりモブって感じがしないよね。両親という存在に対する培われた刷り込みみたいなものを感じる。話が逸れた。要するに主要キャラクターたちにとってはどうでも良い存在なのだ。マンガやアニメだと顔すら描き込まれていないモブも結構見るし。

失恋に関しては、まぁ、引用するまでもないだろう。

恋が実らなかった状態だ。好きなひとに自分の気持ちを伝えたら、それが丁重であるかぞんざいであるか嫌悪感剥き出しであるとかまぁ色々なパターンはあると思うが、その気持ちに応えてもらえなかったということだ。恋人になれなかったのだ。貴方のことは人間としては嫌いじゃないが異性としては見れない、貴方のことは本当に嫌いだからこの告白は私の頭の議事録から完全に削除して欲しい等々言われて突っぱねられてしまった後の祭りだ。ほろ苦い悲しみなのだ。好きの裏返しは無関心だなんてどこかの作家や偉いひとが言っていたような覚えがあるが、この場合は憎悪に転じてしまうことも有り得るから必ずしも無関心が好きの裏返しではないと僕は思う。なんか色々な記憶が頭の中を過ぎっていたので、この話はこのくらいにしておこう。

つまり失恋モブとは、恐らくその作品の主要キャラクターでない身分でありながらも主要キャラクターに告白し、振られてしまったモブキャラクターのことを指すであろう事実が朧気ながら浮き彫りになってきたわけだ。

先日、とある方が、ソシャゲのキャラクターに対して熱い気持ちを吐露している発言を見掛けた。

ここで重要なのが、その方のその発言は、そのキャラクターと男女としての仲、恋仲になりたいと明確に想像していながらも、それが失恋として(あるいは告白出来る決定的なチャンスを臆病心のせいで永遠に逃す)終わることを前提とした発言だったのだ。

僕はその発言を見て、驚愕の表情を浮かべた。

なぜなら、僕はそれと同じ類いの願望を、その方が発言する以前から抱いていたからだ。

後ほど、その方が「失恋モブ」と、概念として非常に理解しやすい言葉としてその状態を定義してくれて、僕はなるほどと膝を打った。元々僕が抱いていた願望は既に言葉になっていたのだ。ならそれほど珍しい願望ではないのかもしれないし、こういった願望を抱いている層はそれなりに存在しているのかもしれない。そう思ってこの記事を書こうとし、だがそれほど一般的な願望ではなかったらどうしよう……と思いながらグーグル先生に尋ねてみれば「わがんね」と一蹴され、僕はこの概念がオタク界隈(いや、オタク界隈に限らなくとも良いのだが)でどのような立ち位置を築いているのかわからず頭を抱えているのが今だ。

かつて、オタクたちは口を揃えて「嫁」と言った。

自分が好きなキャラクターを、自分の配偶者や伴侶として想定したがったのだ。「俺の嫁は〇〇。お前は?」みたいなことを僕も訊かれた覚えがある。当時はそれが当たり前のように感じていたので、僕もそれに「××だよ」といったようなことを答えた覚えもあるが、どのキャラクターを挙げたのかは覚えていない。だが、なんとなくの違和感を覚えたことは覚えている。「お前が言うその嫁キャラってのは、そのキャラクターが登場する作品の主人公、あるいは別の異性なり同性なりに恋愛感情を抱いた結果デレるなりツンツンするなりの固有の反応を見せているわけであって、別にモニターや紙面越しのお前らの嫁になりたいわけじゃないのでは?」といったような違和感だ。媒体としての特性を活かせば……、まぁ、エロゲのことだが、主人公として没個性的な要素を満たしていけばモニターや紙面といった明確な境界はそれなりに曖昧にすることが出来るのだろうが、基本的には主人公には主人公としての名前があるし、ビジュアルが存在する。選択肢を選ぶといった、主人公的な、物語に明確に介入出来る立場に立てるシステムも存在する。だが、例えばヒロインたちとの会話の1つ1つにまで我々が介入することは現状不可能だ。シナリオライターが書いたものを読み物として消費している以上、我々はどこまで行っても主人公の視点を借りるだけの傍観者としてしかその作品、その物語には関われない構造になっている。であるのならば、そのキャラはやはり我々の嫁ではないわけだと思うのだが……、まぁ、これは僕の「個人の感想」というやつです。

というような風潮は、しかし、僕の狭い観測範囲の中に限るが、あまり見られなくなってきたように思う。「推しキャラ」という万能の概念が登場している。アイドルのファンのようなものだろうと認識しているが、これは明確に、自分とキャラクターに直接的な関わりが無いことを示した概念ではなかろうか。「ママ」という業の深い概念も登場した。もはや恋愛対象ではないのだ。バブみを感じてオギャるなどという地獄に落とされても文句が言えないようなパワーワードも、まぁしかし当時ほどは見なくなった。いや、決してバブみの話をしたかったわけではなかった。

僕は少なくとも現在、キャラクターを嫁にしたいという願望は露ほども抱いてはいない。そのキャラクターは僕に対して笑いかけているわけでも、親しげな態度を取っているわけでもないことを理解しているからだ。僕はそのキャラクターの魅力を引き出せる要素を何一つ持っていない。恋愛感情に基づく好意を向けられる余地が存在しないのだ。僕は自分が卑屈な人間であることは重々承知しているが、それにしたところで、そのキャラクターが恋をしているのはそのキャラクターが登場する作品の主人公であったり、別のキャラクターなのであって(あるいは恋すらしていないかもしれない)、その主人公に自分を重ねることは出来ない。それは感情移入というレベルを超えた没入だよね。それが出来ることは、しかし羨ましいとは思う。その作品がそれほど愛されている(とは違うかもしれないが、その当人にとって何かしら特別な作品ではあるだろう)のもまた、すごいことだとは思う。

で、卑屈な僕はこう考えるのだ。

その作品に登場するモブになりたい、と。

モブになったからといって、そのキャラクターとの接点は作れないだろう。だが、運の良い接点を見出すことは可能だ。学園モノなら隣のクラスの生徒、出席番号14番とかその辺だろう。ファンタジー作品なら、主人公パーティが立ち寄る町の町人Yとかその辺だ。無理矢理接点を作れなくもない立ち位置だ。それは都合が良い妄想だろうが、それくらいの都合の良さくらいは許してもらってもバチは当たらないはずだ。

で、卑屈な僕は次にこう考える。

その微妙な繋がりの中で作れる限界の関係を築き、抱いた淡い恋心が一切成就することなく、そのまま関係を繋ぎ止めておくことも出来ず、何年後何十年後に相手が夢を叶えるなり結婚するなりして幸せになっていることを風の噂で知って、ほろ苦い気分に浸りたいなぁ、と。

どうだ、これが卑屈な人間が考える精一杯譲歩した妄想だぞ。気持ち悪いだろう!笑いたければ笑え!銃なんか捨てて掛かってこいよ!!

「青春時代の綺麗な思い出」というものに過剰なコンプレックスがあることが窺える独白になってしまった。離別というモチーフに対しても惹かれるものがある。現実は別れた後も人生や生活は続いていくし、それは往々にして綺麗なものではないのだが、創作は瞬間瞬間で切り取ることが出来るから、一番綺麗な状態をピックアップ出来るしサイコーだと思う。報われたいという願望が結局報われないという想像力の限界も自分の身の丈以上にはなれないって現実を振り切れてなくて自分のことながら面白い。面白くはない。面白くないんだよ?でも、でもさ?自分の推しキャラとクラスメートだったりして、たまたま委員会が同じになったりして、ちょっとずつ話したりたまたま駅までの5分の道のりを一緒に帰ったりして友だちになれてさ、なんかこの子のこと好きかも……って気付いたのが高校3年の秋とかだったりして、その推しキャラは都会の芸大に行きたいってことも知るわけだ。委員会の仕事もなくなって、本格的に接点もなくなって、その推しキャラが無事芸大に入学が決まったことを知って、でも話し掛ける機会が無いまま卒業式当日になって、仲の良い友だちに囲まれて泣いたり笑ったりして話してるところに踏み込んでいく度胸も無くて、でも向こうがこっちに気付いて駆け寄ってきてくれて、一言二言喋って、告白するならこのタイミングしかないってわかっていながらその僅かな一歩を踏み出せなくて、「じゃあ元気でね」って別れて、家に帰ってから本当に死ぬほど後悔して、でも告白したところで意味無いってこともわかってて、で、それから10年くらいして地元でばったり出くわして、お互いに時間潰してるからって喫茶店とかに行って近況報告し合って、ホントに何気なく言われた「わたし去年結婚したんだ」って報告を聞いて、自分の気持ちに必死に蓋しながら「おめでとう」って言いたい。そういう願望があることからは目は背けられないんだよ。

背け、られないんだよ……。

僕から言えることは以上だ。

なんだこの記事は。

まぁ、そういう概念があるらしいのだ。

本当にあるのだろうか。僕は今とても不安だ。

継続し始めた行動が強迫観念に成り代わる気持ちについて

読書、アニメ視聴、映画視聴において顕著に現れる自覚がある。

今日は本を買いに外に出た。僕は外に出るのが、いや、人間が密集している場所に行くのがあまり好きではないタチなのだが、電子書籍を積極的に利用し始めようと思い始めた(KindleやBookWalkerなどのサービスが、パソコンでの読書環境を整えやすくなっていたからだ)今でも、やはり紙の本が好きだ。物を所有する、特に本を所有する、購入するという行為が好きなのだろう。だが、物理書籍を買うためには外に出なければならない。書店の品揃えに文句を言いたくなければ、繁華街の大きな書店に足を伸ばすことになる。必然的に人間が密集している場所を通過することになり、ひとは何故こんなにも集まりたがるのだろうかということに寸刻思いを馳せ、それは好きな本を物色している最中にはすっかり忘れることになる。

今日は本を買うぞ、という目的を強く意識していたため、最終的に10冊も本を買ってしまった。ここ最近は積読本が減っているようなイメージもあり、前々から読みたかった本や直近での最優先の本、読もうと思っていたが忘れていた本などを買い足した。僕はここで気付いた。例えば、最新刊まで読み終えた『弱キャラ友崎くん』シリーズ。これは別に1巻発売当初から追っていたシリーズではなかった。4巻が出てから、一気に4巻まで買い揃えて読み終えたのだ。今この記事を書くまで5巻の序盤を読んでいたシリーズ『筺底のエルピス』も、長らく積んでいる本の中では新参に近い。ということは、その2シリーズとあともう1シリーズ(2巻まで出ているラノベだ。これは以降追う予定が無いシリーズであり、内容に関して触れるつもりも無いので割愛させていただくが、直近で買ったシリーズだ)合わせて今月に10冊近く読んでいるのだが、積読本の中でも最新参の連中を読み終えて積読を崩した気になり、同じくらいの冊数を買い足しに書店に向かったわけだ。この事実に気付いたとき、僕は戦慄した。具体的には今だ。別に、買った本を是が非でも読まなければならないという決まりは無い。お金を払って本を購入し、自分の所有物となった本を購入者がどう扱おうが、基本的には誰にも責められない。だが、読んだ本の価値は、読み終えた後に、読んだ本人が決めるものだ。であるならば、この部屋に何冊もある積読本は現状無価値の紙束の集合体であり、僕は日々、未だ無価値の紙束の集合体に埋もれた部屋で暮らしている、ということになる。そう考えるとほら、なんか不味いことしてるような気がしてきた。買った本は読もう!いや、本当に、読みましょう。僕が言えた義理では無いけども。話が逸れた。

まぁつまるところ、今の僕は割と読書熱が熱い(ヘンな日本語だが)状態にあるのだ。僕は読書量を管理出来るサービスを利用しているので、今月(2017年9月)内に9冊のラノベを読んだことが確認出来る。3日に1冊くらいは読んでいるペースだ。読書家だなぁ!というと見劣りするペースのように感じるが、そう悪くないペースだとは自認出来る。本当は積んでいる翻訳小説や文芸作品なども交えて読めれば良いのだが、シリーズものは一気に読んでしまうのが望ましい。というわけで、そう悪くないペースだと自認出来る速度で本を読んでいるわけだが、これがそろそろ強迫観念に成り代わる時期に突入することは経験則で理解出来ている。

アニメ視聴に熱が入っていた時期、僕は1日1クールのペースでアニメを観ていた。さすがに一週間ぶっ続けというわけでも無かったが、かなりのペースでアニメを観た。僕の眼球(眼球の周りの筋肉かもしれない)はかなりタフなのだが(真っ暗な部屋でケータイを弄る日々を年単位で続けても視力が落ちない)、そのタフな眼球が休養を求めるレベルでアニメを観続けた。最終的には半ば強迫観念に陥っていた自覚はある。映画に対しても同様のことを行った。それをしないと落ち着かない状態なのだ。これを強迫観念と呼ばずに何と呼ぶのだろう。まぁ別にやめられないわけではないのだが、やめると一気にそれに対する意欲が無くなってしまうため、そうなるのが恐いのだろうか。非常に両極端な自分のこの性質が、とても煩わしいものだとようやく自覚出来るようになってきたのがここ最近だ。

読書をするのも、アニメを観るのも、映画を観るのも、それを楽しむためにする行為だ。誰から課された義務でも無い。観たり読んだりすることを強要されているわけでもない。だが、自分がそれをしないことが許せなくなる。いや、正確にはそれをすることで無為な1日ではなかったのだと自覚したいのかもしれない。単調な日々をおくっている自覚は強くある。久々に再会した友人に、何も話すことが無いことはその都度実感する。なればこそ、そうではない状態で居たいのだろうか。個人の感想にその個人以外に対しての価値が無いことを自覚し始めたあたりで、「面白かった」「僕は好き」等、他人に話すほどの感想を練らなくなり、それもそういう場や他人に薦めたいときにしか言葉にしなくなった。ならば単調ではない日々だと思い込みたい意味は、対外的には存在しない。何が強迫観念の発端になっているのだろう。自分でもよくわからない。

何が言いたかったのかと言うと、この両極端な性質を強く実感して、コントロールしたいのだ。この場所に独り言を書き連ねるようになってからは、波はあるものの、肉体的疲労感に包まれてでもいないかぎり、それなりに無気力さからは脱却出来ている自覚が芽生え始めている。ラノベに限ってはいるが、読書もしている。アニメも多少は観ている。本を手に取る、配信サイトの再生ボタンを押す、という行為は、無気力な人間にとって、とてもハードルが高いワンアクションだ。それに対する抵抗が無くなっているのなら、それをしなければならないという自分に強いる意識をコントロールしたい。あまり共感を得られなさそうな記事になってしまったが、何に対しても、強く自分を律したいという気持ちはずっと抱き続けている。

自分を変えるためには、自分を自覚し続けなければならないと思っている。

創作は決してハードルが高いものではない。やりたければやる。やりたくないならやらない。あるのはそれだけだ。そのハードルが高くなってしまった今の自分に、そうではない事実を刷り込まなければならない。やりたいのに出来ない状態は苦しい。他者がカンフル剤になることは無い。そもそも、動機を外に置くのはとても危険なことだ。

自分を、自分が思い描く良い方向に向かわせてやりたいものだ。

それを自分に言い聞かせるための記事ばかり書いてもアレなので、たまには読むひとを楽しませる記事も書きたいと、思ってはいるのだが。

 

阿波連さんははかれない 1 (ジャンプコミックス)

阿波連さんははかれない 1 (ジャンプコミックス)

 

収まりが悪い記事になってしまったので、オススメのマンガを紹介してお茶を濁す

阿波連れいなさんを、水あさと先生を信じろ。

僕から言えることは以上だ。

筺底のエルピス4 ―廃棄未来― を読んだあとの気持ち

 

読んだら感想を書くみたいなことを前回書いた記事で書いたような覚えがあるし、ちょっとこれは簡単にでもこの読後の気持ちを記しておくべきなんじゃないかなって思ったので、書いておこうと思う。

筺底のエルピス』という作品はこれ、ジャンルはどういったものになるんだろう。伝奇SFとかそういう感じ?あまり伝奇小説を読んだことがないので、「いやこれは伝奇小説ではないよ」って言われたら「そうッスか……すんません……」って気持ちなのだけど、軽く調べてみた感じそう違っているということもなさそうだ。

感想にしたところでこの作品がどういう作品なのか記しておかなければ、ブログなんてチラシの裏にしても読むひとたちに全然伝わらないんじゃない?って思って設定を少しずつ書き出していこうと思ったんだけど、いや、実際にちょっと書いてみたんだけど、恐らく本書を1巻から読んだ方が早い。なのでここには書かない。Amazonの作品ページに恐らく書いてあるので、興味があるひとはそっちを読むのが尚早い。右側にワンクリックで購入出来るボタンもある。文明だ。今すぐ買って読もう!違う、それじゃあ感想を書く前に記事が終わってしまうのでもう少し待ってほしい。

というわけなのだが、一応本シリーズは5巻が現在(2017年9月26日現在)の最新刊ということになっている。であるのだが、確か4巻から5巻が出る間に1年ちょっとくらいの空白期間があったはずだ。

その間、4巻の感想(というか反応かな)は幾多も目にしてきた。その間に具体的なネタバレを踏まなかったのが奇跡だというくらいの頻度で見てきた。そのとき僕は2巻までしか読んでおらず、なんか精神的に良くなかったのか(前回の記事で書いた覚えがあるが)あまりしっくり来なかったので4巻まで買ってきていたにも関わらず先を読むのをやめて1年以上の時が過ぎた。そうして5巻が出た。先月(2017年8月18日)の話だ。僕は4巻を読了したひとたちの反応を思い出した。「こんなのって無い」「この先どうするんだ」「あまりにも酷すぎる(褒め言葉)」といったような反応を幾度も目にして、僕はようやく読み進めることを決めて、先ほど読み終えた。読み終えた僕は思わず言葉にした。「こんなのって惨すぎる……」と。

何を言ってもネタバレにしかならなそうなので何も言わないが、もしこのペラッペラな記事を読んで『筺底のエルピス』に興味が湧いた方がいるのなら、少なくとも4巻までは手元に置いた状態で読んでほしい。そして、是非4巻まで通しで読んでほしい。ハードルを上げるつもりは無いのだが、あまりの惨さに、僕はしばらく放心状態になった。現在手元に5巻は無いので、近々買ってくる予定だが、この先の展開はまったく予想できない。作者が何を書こうとしているのかの片鱗さえ掴めないまま、ただ続刊を買いに行くことしか僕には出来ないし、5巻を読んだら読んだで6巻を震えながら待つことになるだろうことも想像に難くない。

しっかりした骨太の設定に世界観、臨場感あるバトル描写、これでもかと書かれた人間描写。息をつかせない展開の目白押し。咀嚼しやすく半自動で飲み込めるわかりやすいライトノベルはいったん休憩して、読み応えのあるラノベに手を伸ばしたいと思っているひとにこそオススメです。

僕と同じ気持ちになれ。

一緒に引き返せない場所に行きましょう、是非。

ブログの記事を書くことで抱く達成感について

なんかこう、「よし、今日も一日何もしなかったわけじゃないぜ!!」みたいな気持ちになってしまうよね。

僕はかなり単純な人間なので、こうして昨日一昨日とブログを書こうと思って益体が無い内容であることは自覚しながらも書いて公開して、今日もこうして新しい記事を書いているわけだけど、一度やり出して日課にしてしまえば、割と苦も無く続けることが出来ないわけではないのだと自覚している。それが創作だったり勉強だったり、なんだろう、自分のモチベーションに関わらず小手先で出来るものなら尚のこと、というような感じがする。

新しい記事を書くことは別に難しいことじゃない。別のことをしながら「今日はこういうこと書けるな~」って思って、パソコンを立ち上げて管理画面を開いて、思い付いた「こういうこと」から逸脱しない程度に自由に書けば良いだけだし、逸脱したらしたで楽しさもあるだろうし、つまりあれだ、これは僕にとって全然クリエイティビティな行為では無いのだ。自分と対話しているようなものだし、あまり読者目線を意識しないで書いているのだから当然だ。

だが、こと創作に関しては日課にするのが難しい。難しくなってしまった、というのが正しいのかもしれない。僕はあまり筆が速い物書きではないが、ピーク時で年3本くらいの長編を書いていた。年に45万文字くらいだ。合間合間で短編も書いたりしていたので、50万文字ちょっとは書いていたのかもしれない。これは決して、全然多いペースではないのだが、今の僕からしてみれば驚異的な数字だ。ちなみに、このペースは維持出来なかったので、まぁ最大風速的な感じでもある。合間合間で燃え尽き症候群も発症している覚えもあるので、実際はそんなに書いていないのかもしれない。どっちだはっきりしろ。話が逸れた。

ともあれ、ブログを日課にすることに意味が無いことはハッキリ自覚しておきたいので、こうしてそれをブログに書いておく。

ただ、書きたいのに書けない~~とか言ってる手前、(こいつ本当は書くの嫌いなんじゃ……)みたいな風に見えるかもしれないが、僕は書くのが好きなのだ。なんかブログを再開したことで気持ちが上向いてきているような雰囲気を感じる。風が、吹いてきているんじゃないのかな……。今このあたりで1000文字くらいなのだが、これくらい書くのは全然脳直で出来てるし、それが結構楽しい。願わくば、この気持ちがクリエイティビティなアクションをインデュースしてくれることをホープしたい。ホープするだけじゃなくて、アクションするのが大事なんだけどな、自分から。

 

 

というわけで、今はこのラノベを読んでいる。

知る人ぞ知る、というか、4巻で一気に知名度を上げたのだと認識しているけど、今めっちゃナウいラノベだ。SF鬼狩り絶望系、敬語罵倒後輩ヒロイン&異星人の依り代ボクっ娘ラノベだ。要素の宝石箱か。

随分前に2巻まで読んで、なんかそのときの気分とか精神が優れなかったのかあんまり……って思ってたけど5巻が出たらしいとのことで最初から読み返して今は2巻の半ばくらい。改めて、めっちゃ面白いです。

人間の感性なんて体調や気分やその日あったこととか直前に読んだ本とか観たアニメとかにかなり依存している気がしているので、どんな本でも万全な状態で、真っ新な状態で読みたいなと思いました。今、自分が万全で真っ新な状態かはわからないけど、楽しめているのでまぁ良い方なんじゃないかと思います。みんなも読もう。

とりあえず4巻まで読んだらなんか書くかもだし、書かないかもしれない。

別の本に浮気するかもしれない。

読んでない本が300冊くらいあるんだ……許してほしい……。

やる気が出ない状態について

基本的に、身体は倦怠感に包まれている。精神の方もそれに寄り添っている気がする。順序は逆かもしれないが、双方ともがマイナス方向に位置し続けて結構長い時間が経つ実感がある。つまり、だるくてめんどくさい状態だ。元々やる気とか活気とかなんかそういう漲る力!みたいなものとは縁遠い人間である自覚はあるが、それにしてもここ2~3年の状態はとても酷い。酷い自覚だけが積み重なり続けている。

小説を書かなければならない(この場合の“書かなければならない”というのは別に誰かや社会から課せられた使命や職務的な意味合いとしてのものではなく、なんだろう、自分がやると決めたものに対して責任……というと大袈裟な話かもしれないが、ともかく、それをすることで自分の状態を大きく変えたいという願いのようなものである気がする)という意思だけはハッキリと存在している。同時に、それをより円滑に進めるためのインプット……なんか横文字使うと気取ってる感が出てしまって嫌味っぽい気がする……まぁ面白いものなり興味深いものに触れることで自分の意識を触発させるための手段としてのそれをしようという意思も同時に存在する。ラノベなり文芸小説なり、アニメや映画なり。面白いものは基本的に大好きだ。そういうものに触れたい気持ちは強い方だと自覚している。それすらも摂取しようとは思えない酷い時期も過去にはあったのだが、その段階は克服出来たように思う。でも、今でも時々ダメになってしまう時はある。精神の状態が良くない自覚はずっとある。それは色々な外的要因によって引き起こされるものだとは思うが、こうも長引いているのには、そんな色々な外的要因よりもよっぽど大きな、重篤な要因があるんじゃないかと疑わざるを得ない。

人間は基本的に全ての物事に因果を求める生き物だ。〇〇がそうなったのには××といった理由がある。△△がこうならないのには□□といった理由がある。誰々さんが私を嫌いなのにはこれこれの理由がある。私が誰々々さんを嫌いなのにはこれこれこれといった理由がある……。まぁ大体その通りだろう。いや、大体そういった理由が理由の一つとして存在する場合が多いのだろう、と言った方が適切かもしれない。わからない状態はひどく不安だ。因果が存在しないものというのは往々にして当事者なり観測者なり、そのひとたちの理解の外側にあるものである場合が多いから、上手く飲み込むことが出来ないものである場合もやはり多い。なんでこうなったんだろう……とか、なんであのひとのことこんなに嫌いなんだろう……みたいな、そういう状況はあまり望ましくないのだ、不安になってしまうから。だから自分が一番妥当だと思える理由を作って、それを自分に言い聞かせる場面というのは結構あることなんじゃないかと思う。隣の奥さんは燃えるゴミの回収日の翌日に決まって燃えるゴミを出す……。きっとあの奥さんには曜日感覚が無いのだ。旦那が深夜にみすぼらしい格好でコンビニに行くのを週に何度も見る。あんなだらしない旦那と結婚するような奥さんなのだから、きっと彼女自身にも問題があるに違いない。だから曜日がわからないのだろうし、燃えるゴミを回収日の翌日に出すのだ。……なんか即興で考えた割にヘンにそれっぽいエピソードになってしまった。別に僕の住んでいる家の隣にこういう奥さんがいるわけではないが、こういうことだとして納得する場面って結構あるし、この主観である奥さんは持っている少ない情報を繋げているだけで新しい情報を得て答えとしているわけではない。自分が一番よく理解出来る妄想だということだ。

話が逸れたように思うが、つまりは「やる気が出ない状態」というこの僕の長らく続くマイナスの状態に答えを導き出そうとしたところで、それはこう、人間の心理や精神の状態についてのプロが下した判断ではないのだから、こじつけになる可能性が高い、ということだ。いや、間違い無くこじつけになるはずだ。色眼鏡無しに可愛い可愛い自分に冷静な目を向けられる人間なんてまぁいないってことも、経験からなんとなくわかるよね。

なんやかんや色々書いたが、恐らく「やる気が出ない状態」に因果を求めることに意味は無い。やる気が無いからやる気を出していこう、という気持ちの切り替えが大事なのは言うまでもない。小説を書きたいんだから書けば良い。まぁ、その通りだ。ケチの付けようが無いくらいその通りの正論だ。それでも動けないのだから、因果を求めてしまう。で、それに意味が無いのは、前述するくらいなのだから、僕自身が一番よくわかっている。

色々あるよね。失敗することが恐いとか。失敗したことで時間を無駄にしてしまうことが恐いとか。それ以上に時間を無駄にすることに時間を費やしているのに、そうなってしまうことの方がリスクとして大きいと認識しているのは我ながらヘンな認識だ。

例えば小説を書いてる途中に盛大な失敗をしてしまったとして、それは恐らく何らかの糧にはなるはずだ。設定が矛盾してしまったとか、キャラが崩壊してしまったとか。恐らくその状況そのものが反面教師というか、糧そのものになることは殆ど無いとは思うが(同じようなモチーフを繰り返し書いているひとなら結構あるのかもしれない。僕にはよくわからない状況だ)、その状況が起こったことに対して向ける注意が増える、という意味では糧になるのかもしれない。設定や登場人物を、もっと注意深く作ろう、的な。わお、盛大に話が逸れた。

注意出来ないこともあるし、対策が取れないようなこともあるだろうけど、まぁそんなことは考えても仕方の無いことなのだから、自分の認識を説得していく姿勢を作っていくべきなのだろうとは思う。

やる気出ないよね。でもなんとかやっていきたいよね。

そういう気持ちで小説を書くということと徐々に向き合っていきたい。

自分に言い聞かせるつもりで書いた記事だが、なんか無駄に精神論っぽくなってしまったし(僕は基本的に精神論が嫌いだ)、こういうこと書きたかったんだっけ……という思いが無いことも無い……。

あとは、そうだなぁ……、最近切羽詰まってないように感じる。

でも、切羽詰まるってどうやってしたら良いんだろう。

……僕の明日はどっちだ!