Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

失恋モブという概念があるらしい

ことを知ったのだが、天下無双のグーグル先生に訊いてみたらどういう概念かをまとめてある記事などは見当たらなかった。そこから引用して簡単に説明しようかと思ったが、まぁ語感からある程度は類推可能な、そう難しくはない概念だとは思う。

 

“モブ(英:mob)とは、「群衆」「群れ」「暴徒」「十把一絡げ」などを意味する英単語である。 また、アニメや漫画では人が沢山いるシーンを「モブシーン」と呼び、群衆状態になったキャラを「モブキャラクター」と呼ぶ。

 さらに2ちゃんねるやpixivでは上記の意味が転じて、役者で言えばエキストラにあたる端役キャラや、狂言回しの無名キャラのことを「モブ」と呼ぶ場合がある。

 

以上はピクシブ百科事典からの引用だ。モブとは確かにこういうものだが、こうやって平易に噛み砕いて理解しやすい言葉としてまとめてくれるととても助かる。小説を書いている身ではあるが、概念についてわかりやすく説明してくれと言われると、やはり難しさを感じてしまうね。

つまるところ、モブとは固有名称や固有のビジュアルを持たない無名のキャラクターのことだ。物語の進行上、重要な位置にいることもあるだろうが、主要なレギュラーキャラクターではないことが重要だろう。……とまで書いて、例えば、物語の進行に深く関わらない端役としての主人公の両親などはモブと呼んで良いのかどうかということを疑問に思った。異世界転生ものの、現代側の主人公の両親とか。あまり数は読んでいないのでこれが異世界転生テンプレとして正しさを持つのかは自信が無いが、転生に至るまでの本当に短い過程の中でチラッと登場したり、現代の生活の回想でこちらもチラッと言及されたりみたいなのとか、もうほとんどモブと言っても違いない(物語に対しての)影響力しか持たないはずだが、でも「主人公の両親」って属性はあまりモブって感じがしないよね。両親という存在に対する培われた刷り込みみたいなものを感じる。話が逸れた。要するに主要キャラクターたちにとってはどうでも良い存在なのだ。マンガやアニメだと顔すら描き込まれていないモブも結構見るし。

失恋に関しては、まぁ、引用するまでもないだろう。

恋が実らなかった状態だ。好きなひとに自分の気持ちを伝えたら、それが丁重であるかぞんざいであるか嫌悪感剥き出しであるとかまぁ色々なパターンはあると思うが、その気持ちに応えてもらえなかったということだ。恋人になれなかったのだ。貴方のことは人間としては嫌いじゃないが異性としては見れない、貴方のことは本当に嫌いだからこの告白は私の頭の議事録から完全に削除して欲しい等々言われて突っぱねられてしまった後の祭りだ。ほろ苦い悲しみなのだ。好きの裏返しは無関心だなんてどこかの作家や偉いひとが言っていたような覚えがあるが、この場合は憎悪に転じてしまうことも有り得るから必ずしも無関心が好きの裏返しではないと僕は思う。なんか色々な記憶が頭の中を過ぎっていたので、この話はこのくらいにしておこう。

つまり失恋モブとは、恐らくその作品の主要キャラクターでない身分でありながらも主要キャラクターに告白し、振られてしまったモブキャラクターのことを指すであろう事実が朧気ながら浮き彫りになってきたわけだ。

先日、とある方が、ソシャゲのキャラクターに対して熱い気持ちを吐露している発言を見掛けた。

ここで重要なのが、その方のその発言は、そのキャラクターと男女としての仲、恋仲になりたいと明確に想像していながらも、それが失恋として(あるいは告白出来る決定的なチャンスを臆病心のせいで永遠に逃す)終わることを前提とした発言だったのだ。

僕はその発言を見て、驚愕の表情を浮かべた。

なぜなら、僕はそれと同じ類いの願望を、その方が発言する以前から抱いていたからだ。

後ほど、その方が「失恋モブ」と、概念として非常に理解しやすい言葉としてその状態を定義してくれて、僕はなるほどと膝を打った。元々僕が抱いていた願望は既に言葉になっていたのだ。ならそれほど珍しい願望ではないのかもしれないし、こういった願望を抱いている層はそれなりに存在しているのかもしれない。そう思ってこの記事を書こうとし、だがそれほど一般的な願望ではなかったらどうしよう……と思いながらグーグル先生に尋ねてみれば「わがんね」と一蹴され、僕はこの概念がオタク界隈(いや、オタク界隈に限らなくとも良いのだが)でどのような立ち位置を築いているのかわからず頭を抱えているのが今だ。

かつて、オタクたちは口を揃えて「嫁」と言った。

自分が好きなキャラクターを、自分の配偶者や伴侶として想定したがったのだ。「俺の嫁は〇〇。お前は?」みたいなことを僕も訊かれた覚えがある。当時はそれが当たり前のように感じていたので、僕もそれに「××だよ」といったようなことを答えた覚えもあるが、どのキャラクターを挙げたのかは覚えていない。だが、なんとなくの違和感を覚えたことは覚えている。「お前が言うその嫁キャラってのは、そのキャラクターが登場する作品の主人公、あるいは別の異性なり同性なりに恋愛感情を抱いた結果デレるなりツンツンするなりの固有の反応を見せているわけであって、別にモニターや紙面越しのお前らの嫁になりたいわけじゃないのでは?」といったような違和感だ。媒体としての特性を活かせば……、まぁ、エロゲのことだが、主人公として没個性的な要素を満たしていけばモニターや紙面といった明確な境界はそれなりに曖昧にすることが出来るのだろうが、基本的には主人公には主人公としての名前があるし、ビジュアルが存在する。選択肢を選ぶといった、主人公的な、物語に明確に介入出来る立場に立てるシステムも存在する。だが、例えばヒロインたちとの会話の1つ1つにまで我々が介入することは現状不可能だ。シナリオライターが書いたものを読み物として消費している以上、我々はどこまで行っても主人公の視点を借りるだけの傍観者としてしかその作品、その物語には関われない構造になっている。であるのならば、そのキャラはやはり我々の嫁ではないわけだと思うのだが……、まぁ、これは僕の「個人の感想」というやつです。

というような風潮は、しかし、僕の狭い観測範囲の中に限るが、あまり見られなくなってきたように思う。「推しキャラ」という万能の概念が登場している。アイドルのファンのようなものだろうと認識しているが、これは明確に、自分とキャラクターに直接的な関わりが無いことを示した概念ではなかろうか。「ママ」という業の深い概念も登場した。もはや恋愛対象ではないのだ。バブみを感じてオギャるなどという地獄に落とされても文句が言えないようなパワーワードも、まぁしかし当時ほどは見なくなった。いや、決してバブみの話をしたかったわけではなかった。

僕は少なくとも現在、キャラクターを嫁にしたいという願望は露ほども抱いてはいない。そのキャラクターは僕に対して笑いかけているわけでも、親しげな態度を取っているわけでもないことを理解しているからだ。僕はそのキャラクターの魅力を引き出せる要素を何一つ持っていない。恋愛感情に基づく好意を向けられる余地が存在しないのだ。僕は自分が卑屈な人間であることは重々承知しているが、それにしたところで、そのキャラクターが恋をしているのはそのキャラクターが登場する作品の主人公であったり、別のキャラクターなのであって(あるいは恋すらしていないかもしれない)、その主人公に自分を重ねることは出来ない。それは感情移入というレベルを超えた没入だよね。それが出来ることは、しかし羨ましいとは思う。その作品がそれほど愛されている(とは違うかもしれないが、その当人にとって何かしら特別な作品ではあるだろう)のもまた、すごいことだとは思う。

で、卑屈な僕はこう考えるのだ。

その作品に登場するモブになりたい、と。

モブになったからといって、そのキャラクターとの接点は作れないだろう。だが、運の良い接点を見出すことは可能だ。学園モノなら隣のクラスの生徒、出席番号14番とかその辺だろう。ファンタジー作品なら、主人公パーティが立ち寄る町の町人Yとかその辺だ。無理矢理接点を作れなくもない立ち位置だ。それは都合が良い妄想だろうが、それくらいの都合の良さくらいは許してもらってもバチは当たらないはずだ。

で、卑屈な僕は次にこう考える。

その微妙な繋がりの中で作れる限界の関係を築き、抱いた淡い恋心が一切成就することなく、そのまま関係を繋ぎ止めておくことも出来ず、何年後何十年後に相手が夢を叶えるなり結婚するなりして幸せになっていることを風の噂で知って、ほろ苦い気分に浸りたいなぁ、と。

どうだ、これが卑屈な人間が考える精一杯譲歩した妄想だぞ。気持ち悪いだろう!笑いたければ笑え!銃なんか捨てて掛かってこいよ!!

「青春時代の綺麗な思い出」というものに過剰なコンプレックスがあることが窺える独白になってしまった。離別というモチーフに対しても惹かれるものがある。現実は別れた後も人生や生活は続いていくし、それは往々にして綺麗なものではないのだが、創作は瞬間瞬間で切り取ることが出来るから、一番綺麗な状態をピックアップ出来るしサイコーだと思う。報われたいという願望が結局報われないという想像力の限界も自分の身の丈以上にはなれないって現実を振り切れてなくて自分のことながら面白い。面白くはない。面白くないんだよ?でも、でもさ?自分の推しキャラとクラスメートだったりして、たまたま委員会が同じになったりして、ちょっとずつ話したりたまたま駅までの5分の道のりを一緒に帰ったりして友だちになれてさ、なんかこの子のこと好きかも……って気付いたのが高校3年の秋とかだったりして、その推しキャラは都会の芸大に行きたいってことも知るわけだ。委員会の仕事もなくなって、本格的に接点もなくなって、その推しキャラが無事芸大に入学が決まったことを知って、でも話し掛ける機会が無いまま卒業式当日になって、仲の良い友だちに囲まれて泣いたり笑ったりして話してるところに踏み込んでいく度胸も無くて、でも向こうがこっちに気付いて駆け寄ってきてくれて、一言二言喋って、告白するならこのタイミングしかないってわかっていながらその僅かな一歩を踏み出せなくて、「じゃあ元気でね」って別れて、家に帰ってから本当に死ぬほど後悔して、でも告白したところで意味無いってこともわかってて、で、それから10年くらいして地元でばったり出くわして、お互いに時間潰してるからって喫茶店とかに行って近況報告し合って、ホントに何気なく言われた「わたし去年結婚したんだ」って報告を聞いて、自分の気持ちに必死に蓋しながら「おめでとう」って言いたい。そういう願望があることからは目は背けられないんだよ。

背け、られないんだよ……。

僕から言えることは以上だ。

なんだこの記事は。

まぁ、そういう概念があるらしいのだ。

本当にあるのだろうか。僕は今とても不安だ。