Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2019 5/01(水)の気持ち

ぼんやりと過ごしていたら元号が変わっていた。

改元という節目を迎えるのは初めてだ。平成に生まれ、平成を生きてきた。昭和っぽい空気感というものは感覚として理解出来るところではあるが、実際に昭和という時代の空気を吸ったことの無い僕にはやはり根本的なところでその空気感というものに壁を感じるし、これから先、その空気感はどんどんわからないものになってくる。

別に、元号が変わる瞬間を無意識に迎えたわけでは無いのだが。

今更になって感傷的な気分になっている。

特に広げる話題も他に無いので、この話はここで終わるが。

 

さて、先月初めによくわからん記事を書いたままこの場所をほったらかしにしてしまった。

与太話を書くのが楽しいという気持ちを得る貴重な体験ではあったが、特に誰からの反応も無く悲しかったというのも実際の気持ちだ。別にどこに宣伝したわけでも無いし、誰かに読んでくれと頼んだわけでも無いが、書いたものに反応があるということは結構強烈に、尊いこと(尊いという言葉の本質は秒毎に死んでいるので出来るならあまり使いたくは無いが)なのではないかと思っているのが今だ。うん。面白いでも、つまらないでも、こいつのパーソナルは絶対に理解出来ないし理解したくもない、でさえも。

 

ここに何かを書こうと思ったということは、以前までの記事を読んでくれているひとならわかるかもしれないが、精神が低迷しているという話をしに来たということだ。

何をどうしたら小説を書ける気持ちになれるのか、またわからなくなってしまった。

今年に入ってから、いや、入る前からか?1本の短篇を書いていて、それを書き終えれば何かしら自分の中で変わるものがあるんじゃないかと思っていたが、特にそういうことも無く、むしろ小説というものがわからなくなり、自分の気持ちとモチベーションは乖離し続け、脳細胞を秒毎に殺しながら、僕はまたこうして延々とうだつの上がらない記事を書くこととなる。

 

やる気が無いんじゃないかと思っていた。

自分にはやる気が致命的に欠如しているんじゃないかと。

それは恐らく事実だ。僕にはやる気が無い。休日には有り得ないほどのロングスリープをキメて、起きた時間にショックを受けながら、体調も精神も低迷させながらユーチューブで動画を見漁り、その場その場のテンションだけを何とか上向かせようと足掻いてはみるが、根本的な気持ちは上向かず、休日はあっという間に過ぎ去り、その間に出来たことは何も無いという体たらくだ。そういうルーチンを長らく続けてきた。続けてきてしまった。

しかし、思えば僕にやる気があった時期などあったのか、という、そもそもの疑問が湧いてきたのが少し前のことだ。

別にそんな時期は無かったということに気付いた。

少しでもやる気があったのなら、こんな状態になっていないということにも思い至った。自分が、何事かを成し遂げるちからが無い人間ではない、という自己認識は、たぶん自分の自我を保つためのギリギリのラインに設置されている、正しい自己認識とは違う、予防線みたいなものだという認識は持っている。消極的な自己肯定感、とでも呼べば良いのか。自己肯定ということに関して大概、懐疑的な考えを持っている僕ではあるが、そんな考えを持っていたところで、自分を最低限肯定してやらなければ、この世に留まる理由さえ消失してしまうことは考えずともわかる。人間が生きる理由なんてものはどう考えたって存在しないものではあるが、それは、死にたいという気持ちとは別にイコールでは結びつかないはずだと僕は思っている。それは言うなれば「死んでいないだけ」という状態ではあるが、その状態でギリギリ踏み留まるための最低限の自己肯定が、前述した「消極的な自己肯定感」ではないかと思っている。僕の場合はそれが「僕は何事かを成し遂げられない人間ではない」という、過去の多少の経験を基にした自己認識なのであろうが、それは、その過去の時点の僕の自己認識であり、決して継続性のあるものではないということは、多少考えればわかることではある。僕は今、「何事かを成し遂げられない人間ではない」という認識を改めなければならない。結局、創作活動というものは成果物ありきな活動なので、それは少し勇気を出して現実を正しく認識すれば簡単にわかることではあるのだな。なぜなら、僕の手元には、新しい成果物など何も無いのだから。

別に、本当に何もしていないということは無い。書いている短編、7000文字くらいの未完成原稿は手元にあり、いつでも続きを書けるように、そのプレーンテキストは常に開かれた状態で置かれている。ここ最近の僕にしては珍しく、積極的な気持ちで書き始めようと思った、デレマスの二次創作SSだ。随分久しぶりに追加された新アイドルの内の、とあるアイドルのことを書こうと思って書き始めた短編だ。これもまた、いつぞや書いていた岡崎泰葉のSSと同じくわからなくなってしまって、しばらく筆が止まっているのだが、こういう体験が本当に多い。失敗体験……いや、失敗させるつもりは無いのだが、そういう負の体験が続くと流石に堪えるものがあるし、自分の認識もどんどん下方修正されていく。

反骨精神が失われているという自己認識を最近得た。

元々、僕はそういう気持ちだけを頼りに小説を書いていた、というようなことを思い出した。誰かを、誰をも見返してやりたい。僕を取り巻く全ての物事に対して反逆してやりたい。厨二病で片付けられたら楽であろうこの気持ちが、ここ数年で強烈に失われてしまったがためにこんな状況に陥っているのではないかと思うようになった。それが全てではないかもしれないが、状況の一部としてはあり得るし、妥当だと思えるような気がしている。

あまり怒らなくなった。他人に対して苛立つことが少なくなったような気がしている。

これは日々を過ごすうえで大事なことだ。都度怒ったりイライラしたりというのは、自分の精神を良好な状態に保つうえで極力排除していきたいものだ。そんなことを日常的に続けていたら疲れて摩耗して潰れてしまう。だから他人に対しての興味を喪失し、どのような勝手で理不尽な感情をぶつけられようとも後々まで引き摺らないためにメンタルのダメージコントロールを水面下で行い、その場その場をやり過ごすための分厚いペルソナで自分を守り、僕は僕の創作を十全に行えるようにしていきたいと願ってやってきたここ数年のこの精神状態は、実は根本的に間違っていたのかもしれないと思い始めてきた。現に、僕はこうして牙を抜いて反骨心を削ぎ、凪のような日々をおくるために全神経を注ぎ込んでいるがために、創作物に込めるべき感情がわからなくなったり、その感情に自分自身が押し潰されてしまうようなことになりかけている。本末転倒だろう。本末転倒、だろうか。本当に?

創作家の中に、時折現れる存在がいる。

自分の創作物に、自分の人生を、自分の幸せを喰わせるタイプの連中だ。

それは修羅道だ。

これにならなければならないのかもしれない。

自分が安定した状況、安定した心理状態の中で満足な創作が出来ないタイプの人種であることには割と自覚的だ。

先月に誕生日を迎えて加齢し、元号も変わり、もういよいよ自分の人生を決める猶予が無いことに焦りを覚えている。

修羅道に進むべきなのかもしれない。

正味、自分の幸せに、さほど興味は無い。安定した精神状態は恋しくとも、一般的に謳われている幸せというものには、ほとほと興味が無い。

あとは決意するだけだ。

決意、しなければならないのだろうな。

こんなタイミングでこんな記事を書きたくは無いのだが、書かなければ自分がわかってくれないので、書いておこうと思う。

小説を書いて生きていくということを、もっとしっかり考えようと思う。