Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

失恋モブという概念があるらしい

ことを知ったのだが、天下無双のグーグル先生に訊いてみたらどういう概念かをまとめてある記事などは見当たらなかった。そこから引用して簡単に説明しようかと思ったが、まぁ語感からある程度は類推可能な、そう難しくはない概念だとは思う。

 

“モブ(英:mob)とは、「群衆」「群れ」「暴徒」「十把一絡げ」などを意味する英単語である。 また、アニメや漫画では人が沢山いるシーンを「モブシーン」と呼び、群衆状態になったキャラを「モブキャラクター」と呼ぶ。

 さらに2ちゃんねるやpixivでは上記の意味が転じて、役者で言えばエキストラにあたる端役キャラや、狂言回しの無名キャラのことを「モブ」と呼ぶ場合がある。

 

以上はピクシブ百科事典からの引用だ。モブとは確かにこういうものだが、こうやって平易に噛み砕いて理解しやすい言葉としてまとめてくれるととても助かる。小説を書いている身ではあるが、概念についてわかりやすく説明してくれと言われると、やはり難しさを感じてしまうね。

つまるところ、モブとは固有名称や固有のビジュアルを持たない無名のキャラクターのことだ。物語の進行上、重要な位置にいることもあるだろうが、主要なレギュラーキャラクターではないことが重要だろう。……とまで書いて、例えば、物語の進行に深く関わらない端役としての主人公の両親などはモブと呼んで良いのかどうかということを疑問に思った。異世界転生ものの、現代側の主人公の両親とか。あまり数は読んでいないのでこれが異世界転生テンプレとして正しさを持つのかは自信が無いが、転生に至るまでの本当に短い過程の中でチラッと登場したり、現代の生活の回想でこちらもチラッと言及されたりみたいなのとか、もうほとんどモブと言っても違いない(物語に対しての)影響力しか持たないはずだが、でも「主人公の両親」って属性はあまりモブって感じがしないよね。両親という存在に対する培われた刷り込みみたいなものを感じる。話が逸れた。要するに主要キャラクターたちにとってはどうでも良い存在なのだ。マンガやアニメだと顔すら描き込まれていないモブも結構見るし。

失恋に関しては、まぁ、引用するまでもないだろう。

恋が実らなかった状態だ。好きなひとに自分の気持ちを伝えたら、それが丁重であるかぞんざいであるか嫌悪感剥き出しであるとかまぁ色々なパターンはあると思うが、その気持ちに応えてもらえなかったということだ。恋人になれなかったのだ。貴方のことは人間としては嫌いじゃないが異性としては見れない、貴方のことは本当に嫌いだからこの告白は私の頭の議事録から完全に削除して欲しい等々言われて突っぱねられてしまった後の祭りだ。ほろ苦い悲しみなのだ。好きの裏返しは無関心だなんてどこかの作家や偉いひとが言っていたような覚えがあるが、この場合は憎悪に転じてしまうことも有り得るから必ずしも無関心が好きの裏返しではないと僕は思う。なんか色々な記憶が頭の中を過ぎっていたので、この話はこのくらいにしておこう。

つまり失恋モブとは、恐らくその作品の主要キャラクターでない身分でありながらも主要キャラクターに告白し、振られてしまったモブキャラクターのことを指すであろう事実が朧気ながら浮き彫りになってきたわけだ。

先日、とある方が、ソシャゲのキャラクターに対して熱い気持ちを吐露している発言を見掛けた。

ここで重要なのが、その方のその発言は、そのキャラクターと男女としての仲、恋仲になりたいと明確に想像していながらも、それが失恋として(あるいは告白出来る決定的なチャンスを臆病心のせいで永遠に逃す)終わることを前提とした発言だったのだ。

僕はその発言を見て、驚愕の表情を浮かべた。

なぜなら、僕はそれと同じ類いの願望を、その方が発言する以前から抱いていたからだ。

後ほど、その方が「失恋モブ」と、概念として非常に理解しやすい言葉としてその状態を定義してくれて、僕はなるほどと膝を打った。元々僕が抱いていた願望は既に言葉になっていたのだ。ならそれほど珍しい願望ではないのかもしれないし、こういった願望を抱いている層はそれなりに存在しているのかもしれない。そう思ってこの記事を書こうとし、だがそれほど一般的な願望ではなかったらどうしよう……と思いながらグーグル先生に尋ねてみれば「わがんね」と一蹴され、僕はこの概念がオタク界隈(いや、オタク界隈に限らなくとも良いのだが)でどのような立ち位置を築いているのかわからず頭を抱えているのが今だ。

かつて、オタクたちは口を揃えて「嫁」と言った。

自分が好きなキャラクターを、自分の配偶者や伴侶として想定したがったのだ。「俺の嫁は〇〇。お前は?」みたいなことを僕も訊かれた覚えがある。当時はそれが当たり前のように感じていたので、僕もそれに「××だよ」といったようなことを答えた覚えもあるが、どのキャラクターを挙げたのかは覚えていない。だが、なんとなくの違和感を覚えたことは覚えている。「お前が言うその嫁キャラってのは、そのキャラクターが登場する作品の主人公、あるいは別の異性なり同性なりに恋愛感情を抱いた結果デレるなりツンツンするなりの固有の反応を見せているわけであって、別にモニターや紙面越しのお前らの嫁になりたいわけじゃないのでは?」といったような違和感だ。媒体としての特性を活かせば……、まぁ、エロゲのことだが、主人公として没個性的な要素を満たしていけばモニターや紙面といった明確な境界はそれなりに曖昧にすることが出来るのだろうが、基本的には主人公には主人公としての名前があるし、ビジュアルが存在する。選択肢を選ぶといった、主人公的な、物語に明確に介入出来る立場に立てるシステムも存在する。だが、例えばヒロインたちとの会話の1つ1つにまで我々が介入することは現状不可能だ。シナリオライターが書いたものを読み物として消費している以上、我々はどこまで行っても主人公の視点を借りるだけの傍観者としてしかその作品、その物語には関われない構造になっている。であるのならば、そのキャラはやはり我々の嫁ではないわけだと思うのだが……、まぁ、これは僕の「個人の感想」というやつです。

というような風潮は、しかし、僕の狭い観測範囲の中に限るが、あまり見られなくなってきたように思う。「推しキャラ」という万能の概念が登場している。アイドルのファンのようなものだろうと認識しているが、これは明確に、自分とキャラクターに直接的な関わりが無いことを示した概念ではなかろうか。「ママ」という業の深い概念も登場した。もはや恋愛対象ではないのだ。バブみを感じてオギャるなどという地獄に落とされても文句が言えないようなパワーワードも、まぁしかし当時ほどは見なくなった。いや、決してバブみの話をしたかったわけではなかった。

僕は少なくとも現在、キャラクターを嫁にしたいという願望は露ほども抱いてはいない。そのキャラクターは僕に対して笑いかけているわけでも、親しげな態度を取っているわけでもないことを理解しているからだ。僕はそのキャラクターの魅力を引き出せる要素を何一つ持っていない。恋愛感情に基づく好意を向けられる余地が存在しないのだ。僕は自分が卑屈な人間であることは重々承知しているが、それにしたところで、そのキャラクターが恋をしているのはそのキャラクターが登場する作品の主人公であったり、別のキャラクターなのであって(あるいは恋すらしていないかもしれない)、その主人公に自分を重ねることは出来ない。それは感情移入というレベルを超えた没入だよね。それが出来ることは、しかし羨ましいとは思う。その作品がそれほど愛されている(とは違うかもしれないが、その当人にとって何かしら特別な作品ではあるだろう)のもまた、すごいことだとは思う。

で、卑屈な僕はこう考えるのだ。

その作品に登場するモブになりたい、と。

モブになったからといって、そのキャラクターとの接点は作れないだろう。だが、運の良い接点を見出すことは可能だ。学園モノなら隣のクラスの生徒、出席番号14番とかその辺だろう。ファンタジー作品なら、主人公パーティが立ち寄る町の町人Yとかその辺だ。無理矢理接点を作れなくもない立ち位置だ。それは都合が良い妄想だろうが、それくらいの都合の良さくらいは許してもらってもバチは当たらないはずだ。

で、卑屈な僕は次にこう考える。

その微妙な繋がりの中で作れる限界の関係を築き、抱いた淡い恋心が一切成就することなく、そのまま関係を繋ぎ止めておくことも出来ず、何年後何十年後に相手が夢を叶えるなり結婚するなりして幸せになっていることを風の噂で知って、ほろ苦い気分に浸りたいなぁ、と。

どうだ、これが卑屈な人間が考える精一杯譲歩した妄想だぞ。気持ち悪いだろう!笑いたければ笑え!銃なんか捨てて掛かってこいよ!!

「青春時代の綺麗な思い出」というものに過剰なコンプレックスがあることが窺える独白になってしまった。離別というモチーフに対しても惹かれるものがある。現実は別れた後も人生や生活は続いていくし、それは往々にして綺麗なものではないのだが、創作は瞬間瞬間で切り取ることが出来るから、一番綺麗な状態をピックアップ出来るしサイコーだと思う。報われたいという願望が結局報われないという想像力の限界も自分の身の丈以上にはなれないって現実を振り切れてなくて自分のことながら面白い。面白くはない。面白くないんだよ?でも、でもさ?自分の推しキャラとクラスメートだったりして、たまたま委員会が同じになったりして、ちょっとずつ話したりたまたま駅までの5分の道のりを一緒に帰ったりして友だちになれてさ、なんかこの子のこと好きかも……って気付いたのが高校3年の秋とかだったりして、その推しキャラは都会の芸大に行きたいってことも知るわけだ。委員会の仕事もなくなって、本格的に接点もなくなって、その推しキャラが無事芸大に入学が決まったことを知って、でも話し掛ける機会が無いまま卒業式当日になって、仲の良い友だちに囲まれて泣いたり笑ったりして話してるところに踏み込んでいく度胸も無くて、でも向こうがこっちに気付いて駆け寄ってきてくれて、一言二言喋って、告白するならこのタイミングしかないってわかっていながらその僅かな一歩を踏み出せなくて、「じゃあ元気でね」って別れて、家に帰ってから本当に死ぬほど後悔して、でも告白したところで意味無いってこともわかってて、で、それから10年くらいして地元でばったり出くわして、お互いに時間潰してるからって喫茶店とかに行って近況報告し合って、ホントに何気なく言われた「わたし去年結婚したんだ」って報告を聞いて、自分の気持ちに必死に蓋しながら「おめでとう」って言いたい。そういう願望があることからは目は背けられないんだよ。

背け、られないんだよ……。

僕から言えることは以上だ。

なんだこの記事は。

まぁ、そういう概念があるらしいのだ。

本当にあるのだろうか。僕は今とても不安だ。

継続し始めた行動が強迫観念に成り代わる気持ちについて

読書、アニメ視聴、映画視聴において顕著に現れる自覚がある。

今日は本を買いに外に出た。僕は外に出るのが、いや、人間が密集している場所に行くのがあまり好きではないタチなのだが、電子書籍を積極的に利用し始めようと思い始めた(KindleやBookWalkerなどのサービスが、パソコンでの読書環境を整えやすくなっていたからだ)今でも、やはり紙の本が好きだ。物を所有する、特に本を所有する、購入するという行為が好きなのだろう。だが、物理書籍を買うためには外に出なければならない。書店の品揃えに文句を言いたくなければ、繁華街の大きな書店に足を伸ばすことになる。必然的に人間が密集している場所を通過することになり、ひとは何故こんなにも集まりたがるのだろうかということに寸刻思いを馳せ、それは好きな本を物色している最中にはすっかり忘れることになる。

今日は本を買うぞ、という目的を強く意識していたため、最終的に10冊も本を買ってしまった。ここ最近は積読本が減っているようなイメージもあり、前々から読みたかった本や直近での最優先の本、読もうと思っていたが忘れていた本などを買い足した。僕はここで気付いた。例えば、最新刊まで読み終えた『弱キャラ友崎くん』シリーズ。これは別に1巻発売当初から追っていたシリーズではなかった。4巻が出てから、一気に4巻まで買い揃えて読み終えたのだ。今この記事を書くまで5巻の序盤を読んでいたシリーズ『筺底のエルピス』も、長らく積んでいる本の中では新参に近い。ということは、その2シリーズとあともう1シリーズ(2巻まで出ているラノベだ。これは以降追う予定が無いシリーズであり、内容に関して触れるつもりも無いので割愛させていただくが、直近で買ったシリーズだ)合わせて今月に10冊近く読んでいるのだが、積読本の中でも最新参の連中を読み終えて積読を崩した気になり、同じくらいの冊数を買い足しに書店に向かったわけだ。この事実に気付いたとき、僕は戦慄した。具体的には今だ。別に、買った本を是が非でも読まなければならないという決まりは無い。お金を払って本を購入し、自分の所有物となった本を購入者がどう扱おうが、基本的には誰にも責められない。だが、読んだ本の価値は、読み終えた後に、読んだ本人が決めるものだ。であるならば、この部屋に何冊もある積読本は現状無価値の紙束の集合体であり、僕は日々、未だ無価値の紙束の集合体に埋もれた部屋で暮らしている、ということになる。そう考えるとほら、なんか不味いことしてるような気がしてきた。買った本は読もう!いや、本当に、読みましょう。僕が言えた義理では無いけども。話が逸れた。

まぁつまるところ、今の僕は割と読書熱が熱い(ヘンな日本語だが)状態にあるのだ。僕は読書量を管理出来るサービスを利用しているので、今月(2017年9月)内に9冊のラノベを読んだことが確認出来る。3日に1冊くらいは読んでいるペースだ。読書家だなぁ!というと見劣りするペースのように感じるが、そう悪くないペースだとは自認出来る。本当は積んでいる翻訳小説や文芸作品なども交えて読めれば良いのだが、シリーズものは一気に読んでしまうのが望ましい。というわけで、そう悪くないペースだと自認出来る速度で本を読んでいるわけだが、これがそろそろ強迫観念に成り代わる時期に突入することは経験則で理解出来ている。

アニメ視聴に熱が入っていた時期、僕は1日1クールのペースでアニメを観ていた。さすがに一週間ぶっ続けというわけでも無かったが、かなりのペースでアニメを観た。僕の眼球(眼球の周りの筋肉かもしれない)はかなりタフなのだが(真っ暗な部屋でケータイを弄る日々を年単位で続けても視力が落ちない)、そのタフな眼球が休養を求めるレベルでアニメを観続けた。最終的には半ば強迫観念に陥っていた自覚はある。映画に対しても同様のことを行った。それをしないと落ち着かない状態なのだ。これを強迫観念と呼ばずに何と呼ぶのだろう。まぁ別にやめられないわけではないのだが、やめると一気にそれに対する意欲が無くなってしまうため、そうなるのが恐いのだろうか。非常に両極端な自分のこの性質が、とても煩わしいものだとようやく自覚出来るようになってきたのがここ最近だ。

読書をするのも、アニメを観るのも、映画を観るのも、それを楽しむためにする行為だ。誰から課された義務でも無い。観たり読んだりすることを強要されているわけでもない。だが、自分がそれをしないことが許せなくなる。いや、正確にはそれをすることで無為な1日ではなかったのだと自覚したいのかもしれない。単調な日々をおくっている自覚は強くある。久々に再会した友人に、何も話すことが無いことはその都度実感する。なればこそ、そうではない状態で居たいのだろうか。個人の感想にその個人以外に対しての価値が無いことを自覚し始めたあたりで、「面白かった」「僕は好き」等、他人に話すほどの感想を練らなくなり、それもそういう場や他人に薦めたいときにしか言葉にしなくなった。ならば単調ではない日々だと思い込みたい意味は、対外的には存在しない。何が強迫観念の発端になっているのだろう。自分でもよくわからない。

何が言いたかったのかと言うと、この両極端な性質を強く実感して、コントロールしたいのだ。この場所に独り言を書き連ねるようになってからは、波はあるものの、肉体的疲労感に包まれてでもいないかぎり、それなりに無気力さからは脱却出来ている自覚が芽生え始めている。ラノベに限ってはいるが、読書もしている。アニメも多少は観ている。本を手に取る、配信サイトの再生ボタンを押す、という行為は、無気力な人間にとって、とてもハードルが高いワンアクションだ。それに対する抵抗が無くなっているのなら、それをしなければならないという自分に強いる意識をコントロールしたい。あまり共感を得られなさそうな記事になってしまったが、何に対しても、強く自分を律したいという気持ちはずっと抱き続けている。

自分を変えるためには、自分を自覚し続けなければならないと思っている。

創作は決してハードルが高いものではない。やりたければやる。やりたくないならやらない。あるのはそれだけだ。そのハードルが高くなってしまった今の自分に、そうではない事実を刷り込まなければならない。やりたいのに出来ない状態は苦しい。他者がカンフル剤になることは無い。そもそも、動機を外に置くのはとても危険なことだ。

自分を、自分が思い描く良い方向に向かわせてやりたいものだ。

それを自分に言い聞かせるための記事ばかり書いてもアレなので、たまには読むひとを楽しませる記事も書きたいと、思ってはいるのだが。

 

阿波連さんははかれない 1 (ジャンプコミックス)

阿波連さんははかれない 1 (ジャンプコミックス)

 

収まりが悪い記事になってしまったので、オススメのマンガを紹介してお茶を濁す

阿波連れいなさんを、水あさと先生を信じろ。

僕から言えることは以上だ。

筺底のエルピス4 ―廃棄未来― を読んだあとの気持ち

 

読んだら感想を書くみたいなことを前回書いた記事で書いたような覚えがあるし、ちょっとこれは簡単にでもこの読後の気持ちを記しておくべきなんじゃないかなって思ったので、書いておこうと思う。

筺底のエルピス』という作品はこれ、ジャンルはどういったものになるんだろう。伝奇SFとかそういう感じ?あまり伝奇小説を読んだことがないので、「いやこれは伝奇小説ではないよ」って言われたら「そうッスか……すんません……」って気持ちなのだけど、軽く調べてみた感じそう違っているということもなさそうだ。

感想にしたところでこの作品がどういう作品なのか記しておかなければ、ブログなんてチラシの裏にしても読むひとたちに全然伝わらないんじゃない?って思って設定を少しずつ書き出していこうと思ったんだけど、いや、実際にちょっと書いてみたんだけど、恐らく本書を1巻から読んだ方が早い。なのでここには書かない。Amazonの作品ページに恐らく書いてあるので、興味があるひとはそっちを読むのが尚早い。右側にワンクリックで購入出来るボタンもある。文明だ。今すぐ買って読もう!違う、それじゃあ感想を書く前に記事が終わってしまうのでもう少し待ってほしい。

というわけなのだが、一応本シリーズは5巻が現在(2017年9月26日現在)の最新刊ということになっている。であるのだが、確か4巻から5巻が出る間に1年ちょっとくらいの空白期間があったはずだ。

その間、4巻の感想(というか反応かな)は幾多も目にしてきた。その間に具体的なネタバレを踏まなかったのが奇跡だというくらいの頻度で見てきた。そのとき僕は2巻までしか読んでおらず、なんか精神的に良くなかったのか(前回の記事で書いた覚えがあるが)あまりしっくり来なかったので4巻まで買ってきていたにも関わらず先を読むのをやめて1年以上の時が過ぎた。そうして5巻が出た。先月(2017年8月18日)の話だ。僕は4巻を読了したひとたちの反応を思い出した。「こんなのって無い」「この先どうするんだ」「あまりにも酷すぎる(褒め言葉)」といったような反応を幾度も目にして、僕はようやく読み進めることを決めて、先ほど読み終えた。読み終えた僕は思わず言葉にした。「こんなのって惨すぎる……」と。

何を言ってもネタバレにしかならなそうなので何も言わないが、もしこのペラッペラな記事を読んで『筺底のエルピス』に興味が湧いた方がいるのなら、少なくとも4巻までは手元に置いた状態で読んでほしい。そして、是非4巻まで通しで読んでほしい。ハードルを上げるつもりは無いのだが、あまりの惨さに、僕はしばらく放心状態になった。現在手元に5巻は無いので、近々買ってくる予定だが、この先の展開はまったく予想できない。作者が何を書こうとしているのかの片鱗さえ掴めないまま、ただ続刊を買いに行くことしか僕には出来ないし、5巻を読んだら読んだで6巻を震えながら待つことになるだろうことも想像に難くない。

しっかりした骨太の設定に世界観、臨場感あるバトル描写、これでもかと書かれた人間描写。息をつかせない展開の目白押し。咀嚼しやすく半自動で飲み込めるわかりやすいライトノベルはいったん休憩して、読み応えのあるラノベに手を伸ばしたいと思っているひとにこそオススメです。

僕と同じ気持ちになれ。

一緒に引き返せない場所に行きましょう、是非。

ブログの記事を書くことで抱く達成感について

なんかこう、「よし、今日も一日何もしなかったわけじゃないぜ!!」みたいな気持ちになってしまうよね。

僕はかなり単純な人間なので、こうして昨日一昨日とブログを書こうと思って益体が無い内容であることは自覚しながらも書いて公開して、今日もこうして新しい記事を書いているわけだけど、一度やり出して日課にしてしまえば、割と苦も無く続けることが出来ないわけではないのだと自覚している。それが創作だったり勉強だったり、なんだろう、自分のモチベーションに関わらず小手先で出来るものなら尚のこと、というような感じがする。

新しい記事を書くことは別に難しいことじゃない。別のことをしながら「今日はこういうこと書けるな~」って思って、パソコンを立ち上げて管理画面を開いて、思い付いた「こういうこと」から逸脱しない程度に自由に書けば良いだけだし、逸脱したらしたで楽しさもあるだろうし、つまりあれだ、これは僕にとって全然クリエイティビティな行為では無いのだ。自分と対話しているようなものだし、あまり読者目線を意識しないで書いているのだから当然だ。

だが、こと創作に関しては日課にするのが難しい。難しくなってしまった、というのが正しいのかもしれない。僕はあまり筆が速い物書きではないが、ピーク時で年3本くらいの長編を書いていた。年に45万文字くらいだ。合間合間で短編も書いたりしていたので、50万文字ちょっとは書いていたのかもしれない。これは決して、全然多いペースではないのだが、今の僕からしてみれば驚異的な数字だ。ちなみに、このペースは維持出来なかったので、まぁ最大風速的な感じでもある。合間合間で燃え尽き症候群も発症している覚えもあるので、実際はそんなに書いていないのかもしれない。どっちだはっきりしろ。話が逸れた。

ともあれ、ブログを日課にすることに意味が無いことはハッキリ自覚しておきたいので、こうしてそれをブログに書いておく。

ただ、書きたいのに書けない~~とか言ってる手前、(こいつ本当は書くの嫌いなんじゃ……)みたいな風に見えるかもしれないが、僕は書くのが好きなのだ。なんかブログを再開したことで気持ちが上向いてきているような雰囲気を感じる。風が、吹いてきているんじゃないのかな……。今このあたりで1000文字くらいなのだが、これくらい書くのは全然脳直で出来てるし、それが結構楽しい。願わくば、この気持ちがクリエイティビティなアクションをインデュースしてくれることをホープしたい。ホープするだけじゃなくて、アクションするのが大事なんだけどな、自分から。

 

 

というわけで、今はこのラノベを読んでいる。

知る人ぞ知る、というか、4巻で一気に知名度を上げたのだと認識しているけど、今めっちゃナウいラノベだ。SF鬼狩り絶望系、敬語罵倒後輩ヒロイン&異星人の依り代ボクっ娘ラノベだ。要素の宝石箱か。

随分前に2巻まで読んで、なんかそのときの気分とか精神が優れなかったのかあんまり……って思ってたけど5巻が出たらしいとのことで最初から読み返して今は2巻の半ばくらい。改めて、めっちゃ面白いです。

人間の感性なんて体調や気分やその日あったこととか直前に読んだ本とか観たアニメとかにかなり依存している気がしているので、どんな本でも万全な状態で、真っ新な状態で読みたいなと思いました。今、自分が万全で真っ新な状態かはわからないけど、楽しめているのでまぁ良い方なんじゃないかと思います。みんなも読もう。

とりあえず4巻まで読んだらなんか書くかもだし、書かないかもしれない。

別の本に浮気するかもしれない。

読んでない本が300冊くらいあるんだ……許してほしい……。

やる気が出ない状態について

基本的に、身体は倦怠感に包まれている。精神の方もそれに寄り添っている気がする。順序は逆かもしれないが、双方ともがマイナス方向に位置し続けて結構長い時間が経つ実感がある。つまり、だるくてめんどくさい状態だ。元々やる気とか活気とかなんかそういう漲る力!みたいなものとは縁遠い人間である自覚はあるが、それにしてもここ2~3年の状態はとても酷い。酷い自覚だけが積み重なり続けている。

小説を書かなければならない(この場合の“書かなければならない”というのは別に誰かや社会から課せられた使命や職務的な意味合いとしてのものではなく、なんだろう、自分がやると決めたものに対して責任……というと大袈裟な話かもしれないが、ともかく、それをすることで自分の状態を大きく変えたいという願いのようなものである気がする)という意思だけはハッキリと存在している。同時に、それをより円滑に進めるためのインプット……なんか横文字使うと気取ってる感が出てしまって嫌味っぽい気がする……まぁ面白いものなり興味深いものに触れることで自分の意識を触発させるための手段としてのそれをしようという意思も同時に存在する。ラノベなり文芸小説なり、アニメや映画なり。面白いものは基本的に大好きだ。そういうものに触れたい気持ちは強い方だと自覚している。それすらも摂取しようとは思えない酷い時期も過去にはあったのだが、その段階は克服出来たように思う。でも、今でも時々ダメになってしまう時はある。精神の状態が良くない自覚はずっとある。それは色々な外的要因によって引き起こされるものだとは思うが、こうも長引いているのには、そんな色々な外的要因よりもよっぽど大きな、重篤な要因があるんじゃないかと疑わざるを得ない。

人間は基本的に全ての物事に因果を求める生き物だ。〇〇がそうなったのには××といった理由がある。△△がこうならないのには□□といった理由がある。誰々さんが私を嫌いなのにはこれこれの理由がある。私が誰々々さんを嫌いなのにはこれこれこれといった理由がある……。まぁ大体その通りだろう。いや、大体そういった理由が理由の一つとして存在する場合が多いのだろう、と言った方が適切かもしれない。わからない状態はひどく不安だ。因果が存在しないものというのは往々にして当事者なり観測者なり、そのひとたちの理解の外側にあるものである場合が多いから、上手く飲み込むことが出来ないものである場合もやはり多い。なんでこうなったんだろう……とか、なんであのひとのことこんなに嫌いなんだろう……みたいな、そういう状況はあまり望ましくないのだ、不安になってしまうから。だから自分が一番妥当だと思える理由を作って、それを自分に言い聞かせる場面というのは結構あることなんじゃないかと思う。隣の奥さんは燃えるゴミの回収日の翌日に決まって燃えるゴミを出す……。きっとあの奥さんには曜日感覚が無いのだ。旦那が深夜にみすぼらしい格好でコンビニに行くのを週に何度も見る。あんなだらしない旦那と結婚するような奥さんなのだから、きっと彼女自身にも問題があるに違いない。だから曜日がわからないのだろうし、燃えるゴミを回収日の翌日に出すのだ。……なんか即興で考えた割にヘンにそれっぽいエピソードになってしまった。別に僕の住んでいる家の隣にこういう奥さんがいるわけではないが、こういうことだとして納得する場面って結構あるし、この主観である奥さんは持っている少ない情報を繋げているだけで新しい情報を得て答えとしているわけではない。自分が一番よく理解出来る妄想だということだ。

話が逸れたように思うが、つまりは「やる気が出ない状態」というこの僕の長らく続くマイナスの状態に答えを導き出そうとしたところで、それはこう、人間の心理や精神の状態についてのプロが下した判断ではないのだから、こじつけになる可能性が高い、ということだ。いや、間違い無くこじつけになるはずだ。色眼鏡無しに可愛い可愛い自分に冷静な目を向けられる人間なんてまぁいないってことも、経験からなんとなくわかるよね。

なんやかんや色々書いたが、恐らく「やる気が出ない状態」に因果を求めることに意味は無い。やる気が無いからやる気を出していこう、という気持ちの切り替えが大事なのは言うまでもない。小説を書きたいんだから書けば良い。まぁ、その通りだ。ケチの付けようが無いくらいその通りの正論だ。それでも動けないのだから、因果を求めてしまう。で、それに意味が無いのは、前述するくらいなのだから、僕自身が一番よくわかっている。

色々あるよね。失敗することが恐いとか。失敗したことで時間を無駄にしてしまうことが恐いとか。それ以上に時間を無駄にすることに時間を費やしているのに、そうなってしまうことの方がリスクとして大きいと認識しているのは我ながらヘンな認識だ。

例えば小説を書いてる途中に盛大な失敗をしてしまったとして、それは恐らく何らかの糧にはなるはずだ。設定が矛盾してしまったとか、キャラが崩壊してしまったとか。恐らくその状況そのものが反面教師というか、糧そのものになることは殆ど無いとは思うが(同じようなモチーフを繰り返し書いているひとなら結構あるのかもしれない。僕にはよくわからない状況だ)、その状況が起こったことに対して向ける注意が増える、という意味では糧になるのかもしれない。設定や登場人物を、もっと注意深く作ろう、的な。わお、盛大に話が逸れた。

注意出来ないこともあるし、対策が取れないようなこともあるだろうけど、まぁそんなことは考えても仕方の無いことなのだから、自分の認識を説得していく姿勢を作っていくべきなのだろうとは思う。

やる気出ないよね。でもなんとかやっていきたいよね。

そういう気持ちで小説を書くということと徐々に向き合っていきたい。

自分に言い聞かせるつもりで書いた記事だが、なんか無駄に精神論っぽくなってしまったし(僕は基本的に精神論が嫌いだ)、こういうこと書きたかったんだっけ……という思いが無いことも無い……。

あとは、そうだなぁ……、最近切羽詰まってないように感じる。

でも、切羽詰まるってどうやってしたら良いんだろう。

……僕の明日はどっちだ!

ブログの管理画面を開くと身構えてしまう気持ちについて

なんていうんだろう。ブログをこう、書かなきゃ!みたいな気持ちでいるとハードルが上がってしまうということは往々にしてあるとは思う。

別にここは大逸れた発表の場ではないし、何か目新しいことを書かなきゃいけない決まりがあるわけでもないし、思ったことをまぁそれなりの文量で、飽きない範囲で書きたいことを書くための場所なのだけれど、ブログって空気がこう、なんだろう、脳に作用している感じがある。しっかりやれよ、と。読者様を退屈させるんじゃないぞ、と。全部被害妄想みたいなものだ。被害は受けてないのでこれは正しく被害の妄想だ。

まとまった文章を書くにあたって、やはりこういうのは日頃からこなしていないと、いざそれをやろうと思ったときに思ったように出来ないというのはあると思う。それはタイピングの速さの問題ではなく、思考やアイデアをキーボードにぶつけて長文、いや、単文の積み重ねでも良いが、つまり何千文字も一気に吐き出すにあたって、その伝達経路というか、水道の蛇口的なものが錆で詰まってしまう感覚に近いと思う。

現にこれを書いている今、割と四苦八苦している。ここ最近また少しずつ小説を書こうとしているのだが、あ、そう、僕は小説を書いています。なんかpixivのプロフィール欄にURLを貼ったような覚えがある。飛んできてるひとがいないことは管理画面で確認出来ているので、まぁこれはつまり独り言だ。いや、徹頭徹尾独り言だった。で、なんだ、小説を書いているんだけど、まぁそれが進まない。遅々として進まない。だとしたら頭の蛇口が錆で詰まっているんだろうってことで、こういう訓練を改めてやってみようと思い立ったわけだ。この場所の存在は度々忘れてはいたが、概ね覚えてはいた。書かなきゃなあ、みたいな使命感みたいなものだけは漠然と抱きながら、まぁ書くことも無いのでまたすぐに忘れることになる。思い出しているうちにやろうという魂胆だ。人間の記憶とか感性とかそういうものはアテにならないので、やろうと思ったときにやらないとその連鎖は止められない事実は、多くはない僕の経験から導き出される数少ない事実なのかもしれない。

当初の予定だと観た映画なり読んだ本の感想を書くための場所にしたかったみたいで、発信しようとしていた気持ちはあったのか丁寧語で書いてあるし、まぁ長いこと書いてて我ながらよくやったわ、と思った。それらをもっと気軽に出来る場所だったりひとに話すなりで解消しているうちに、長文で消化する気はすぐに失せてしまった。何より、それほどの熱意を持って感想を書きたくなるような作品にはそうそう出会えない。不満を不特定多数から見られるような場所でだらだらやるのも誰得だ。まぁどちらにせよ、「自分の感性や琴線はこういう形をしていますよ~」と示すことが誰得であることには変わりないのかもしれない。気にすると深みに嵌まりそうになるから、これくらいにしておこうか。

と、まぁもっと気軽に出来る土台を作って気軽にやっていこうと思う。錆び付いた頭の錆取りの場として使うぞという意思表明だ。なんだかタイピングも軽くなってきて、これなら小説もすぐに書けそうな気がしてくる。それは間違い無く気のせいなのだが、自分を奮い立たせたいのに客観的な視点を持ち込んでも仕方が無いので、そういうことだと思っておくことにしておく。願わくば、この記事を投稿したことで達成感に包まれておふとんに包まれないことを祈りたい。ぜひあなたも祈ってほしい。

 

先日、このラノベを読んだ。

僕は買い物をするにあたって、特に面白くない本を読みたくないという気持ちがとても強い読者なので(面白くない本を率先して読みたいやつなんているか?)、基本的にはシリーズ物は1巻だけを買って帰ってくる。

オススメされた小説だったのだが、僕はちょいと一人称小説にうるさいタチなので、多少ぶーぶー言いながら読み始めた。とりあえず文句を言っておきたいタチでもあるのだ。拗れたラノベ懐古おじさんには共通してそういうところがあると思うのだが、僕の観測範囲はとても狭いので真偽の程はわからないし、偏見である自覚が無いことも無い。ともかく、そういうスタンスで読み進めていたのだが、結果的には最新刊である4巻までを4~5日で完走した。都度続刊を買いに行った。根性があるのだ。

とても面白かった。

僕は本の感想にあらすじを書いたりするようなことはしたくないので、あらすじはこのリンクを辿ったりガガガ文庫のサイトに行くなりして各々調べてほしい。

ただ、読むタイミングを盛大に間違えてしまったので、これから読む方は5巻の発売を待ってからにすることをオススメしたい。もちろん今すぐ読んでもらっても構わない。引きで終わったエピソードに一緒に悶えましょう。

 

こちらは第23回の電撃大賞、大賞受賞作。

以前にブログで紹介した『塩の街』に匹敵する、あるいはそれ以上に好きかもしれないと思った作品だ。

こちらは2巻の表紙にわかりやすく「上」と書いてあるので、かしこい僕は即座にこれが上下巻であることを察して買ったまま寝かしてある。下巻である3巻が出たら一気に読もうと思っている。読むのがとても楽しみだ。

1巻は完結しているエピソードなので、安心して読んでいただいて問題無い。

なんというか、あらゆるモチーフが好みだった。悔しいとすら思ったよ。

 

寄宿学校のジュリエット(1) (講談社コミックス)
 

マンガも紹介しておこう。

ジュリエット・ペルシアはいいぞ。

 

こんなところだろうか。

読んだ本の感想も良いけど、思考の整理とかにも使っていきたい気持ちもあるからそうするかもしれないし、しないかもしれない。

やる気に満ち溢れたじゅうじつしたせいかつをてにいれたいですね、せつじつに。

『境界の彼方』を観ました。

 

 

 

 

時折、強烈な「ちから」を持った作品に出会うことがあります。

 

僕こと八神きみどりは、それほど沢山のアニメを観てはいません。小説も映画もマンガも、そしてアニメも。どれも自信を持って語れるほどの言葉も持ちません。消費者という立場にせよ、多くの作品を観たり読んだりしていれば、それはそれでプロフェッショナルと呼べる者になれるのだろうと、僕は考えています。作品を多く摂取することは誇るようなことではないと、言うひともいます。量より質、という考え方には納得出来るところはあります。凡百な作品を無数に摂取したところで、得られる読書/映像体験は自分を満足させてはくれないだろう、という予測は立ちますし、経験則として理解出来るところでもあります。ともあれ、多くを知ることで自分の中には確固足る価値観が生まれるはずですし、語る言葉も生まれるはずです。それは時として頭の固さに繋がることもあるでしょうが、主観として語れる迷い無い言葉には強さがあります。そういう価値観や言葉を得たいという欲求は、少なからず僕の中にあるのではないかと思っています。

さて、『境界の彼方』は、2013年の秋アニメです。つまり3年前のアニメなわけですが、このアニメを今更観ようと思ったのには、深い理由はありません。

僕は『dアニメストア』というアニメ配信サービスを利用しているのですが、先日その新着ラインナップの中に『境界の彼方』が追加されていたからです。

あらかじめ明言しておくと、僕は京都アニメーションの作るアニメが好きです。とは言っても、僕が京都アニメーションというアニメ制作会社の名前を知ったのは『AIR』からです。『涼宮ハルヒの憂鬱』であったり、今期絶賛放送中の『響け!ユーフォニアム2』であったり、好きな作品は沢山ありますが、『フルメタルパニック』であったり『らき☆すた』だったり、『Kanon』『CLANNAD』あたりは観ていませんので、あまり熱心な視聴者ではない自覚はあります。

そんなこんなですので、『境界の彼方』が地上波で放送されていた時も、視聴環境が無かったという理由はありつつも、注目さえしていませんでした。ちょうどKAエスマ文庫発の作品がアニメ化し始めた頃の折ですかね。『中二病でも恋がしたい!』の1期は放送中も追っていましたが、僕は伝奇モノ(公式はダークファンタジーというジャンル付けをしているのですね)というジャンルに興味をそそられないたちですので、当然のようにスルーし、話題も6話終盤以外は僕まで届いてこなかったので、今の今まで作品の存在さえ忘れていたというのがこの作品を観るまでの、僕の、『境界の彼方』という作品に対する認識(というと違うかもしれませんね)でした。

 

結論から言ってしまえば、僕はこの作品が大好きになりました。

本編12話を2日で分けて視聴し(本音を言えば1日で全部観終えたかったのですが、生活がそれを許してはくれませんでした……)、その後Amazonビデオのレンタルで劇場版である『過去編』と『未来編』も2日に分けて観ました。『未来編』は、この記事を書いている直前に観終えました。その熱気が冷めない内に言葉にしておこうと思い、今この記事を書いています。

時折、強烈な「ちから」を持った作品に出会うことがあります。

冒頭に書いた言葉ですが、僕は『境界の彼方』という作品から、その「ちから」を強く感じました。

まず、これは明言しておかなければならないことですが、『境界の彼方』は所謂「完璧な作品」ではありません。

この作品には致命的な欠陥や粗が沢山あります。僕が抱いた違和感は、他の視聴者も同じく抱くであろうという予想も付きます。

例を挙げるならば、「妖夢」という存在に対する視聴者への説明が圧倒的に足りません。

妖夢」が本来どのような存在なのか、それが人間に憑依した結果どういう結末を迎えるのか(これは登場人物の言葉で語られるものではなく、実際にそれがどのように起こり、どのような作用をもたらしてどのようにその人間に末路を迎えさせるのか、その後、末路を迎えた人間と「妖夢」はどのように変化するのか{憑依した「妖夢」とは別に、死んだ人間も別の「妖夢」になる? 憑依した「妖夢」が死んだ人間を取り込み、その人間の怨嗟等を吸収して、より強力な「妖夢」になる? そもそも憑依する目的は? 強力な「妖夢」になることが目的だとして、それを行う果てにあるものは? 世界を滅ぼすという目的だとして、それを達成した暁に「妖夢」たちが得るものとは?})。

妖夢」を狩ることで街や人々を守り、自らの生計も立てる「異界士」たち。彼らが使う異能の力の源は? どういった理由で作用するものなのか? 血筋? 素質? 一般人視点での情報が無いので、「異界士」たちが現代日本でどのような立ち位置にいて、一般人からどのように認識/非認識されているのかも不明。日本円で取引される「妖夢石」の存在。金を払ってまで得るのには深い理由があるはずだし、取引しているのが「妖夢」であるのも不穏な憶測を招くが、それに疑問を抱かない作中「異界士」たち。そんな「妖夢」に渡った「妖夢石」の行き先とは?

と、僕の拙い頭で考えたところで、根幹設定に対する疑問は尽きませんし、まだまだ突き詰めようとすれば出てくることでしょう。

境界の彼方」という、作中最強の「妖夢」については、その多くが語られません。なぜその「妖夢」が主人公である神原秋人の体内に宿っているのかも、同じく。その「境界の彼方」を「呪われた血の一族」の末裔であるヒロイン、栗山未来だけが倒せる理由も。理由を知る登場人物も、その理由を言葉にし、説明しません。

ですが、それらについて正しく説明すること、されることが、この作品をより強い「ちから」を持つ作品にすることかと問われれば、そうではないと僕は考えます。

 

境界の彼方』は「まったく同じ境遇の、正反対の位置にいる男女が、過去から繋がる結ばれない/結ばれてはならない/戦わなければならない宿命を背負ったその二人が、その宿命を断ち切り、どちらかが失わなければならない現状を否定し、自らの真の想いや、自らの望む幸せと向き合い、二人手を取り歩んでゆく未来を勝ち取る物語」です。

 

語られない設定や登場人物たちの過去は、それを補強しません。神原秋人と栗山未来の関係性をより強いものにもしません。それは1話~4話までの「虚ろな影編」から匂わされていました。『境界の彼方』には多くの登場人物がいますが、誰と誰にスポットライトが強く当たっていたかを考えればそれは明白です。神原秋人と栗山未来です。この二人の関係の変化を中心に描くこの作品において、設定や他の登場人物は、この二人の物語を最大限魅力的に描くために用意されたものたちであるはずです。であるならば、それらにより強くスポットライトを当てる必要はまったくありません。

……と、言い切ることが出来れば良いのですが、そうするためには「境界の彼方編」での情報不足は致命的です。尺が圧倒的に足りなかった、と、僕は考えています。「虚ろな影編」である4話までのエピソードはとても丁寧に描かれていて、「半妖」である秋人が「妖夢化」し、栗山未来によって我に返るまでの作劇に、情報不足という枷はありながらも、ほとんど隙が無い完璧に近い展開運びだったと僕は感じました。ですが、そこから「境界の彼方編」に繋ぐまでの5話~7話から綻びが出始めました。

具体的に尺が足りないと感じたのは伊波桜と栗山未来が和解する7話『曇色』です。

伊波桜は、栗山未来が背負う重苦しい過去の象徴です。「虚ろな影」は、栗山未来がその手で殺した伊波唯を幻影として出現させました。栗山未来はそれを払うことで、「虚ろな影」に憑依された伊波唯を殺した過去を、ある程度受け入れる(納得するのとも、払拭するのとも違う、現状を正常に認識する行為です)ことが出来ました(5話で栗山未来が「妖夢」を躊躇無く倒せるようになった描写がありますが、それを表す象徴的なシーンでしたね)。

ですが、栗山未来が真に向き合わなければならないのは、姉である伊波唯を失い、復讐に駆られる伊波桜です。

「虚ろな影」は確かに、伊波唯に憑依し、「異界士」である栗山未来の討伐対象となる直接的な原因を作った「妖夢」です。ですが「妖夢」に人間が理解出来る意思や目的は、作中では一度も示されてはいません。同様に、その「妖夢」が持つ能力によって現れた伊波唯の幻影にも、栗山未来の心の弱さを突き、動揺させる以外の意図や目的は無いと考えられます。であるのならば、それを倒したことで得られるものは、過去への正しい認識で留まるのは妥当です。認識は出来ても、精算は出来ない。栗山未来は自責の念に苛まされていますが、無二の親友を、「妖夢」に取り憑かれていたとはいえ、その手で殺したのなら、抱くそれが尋常なものではないことは想像の範疇です。それが許されるものなのか、精算出来るものなのかは、僕にはわかりません。それがどういうものかを想像することは出来ても、その状況が当事者にとってどれほどの呪縛になるのかを感覚的に理解することは難しいです。ただ、それを許すことが出来、精算出来る存在がいるとしたら、それは肉親である姉を殺された、伊波桜以外には有り得ないとは考えられます。

ならば、それを7話の決闘と、それに付随するやり取りだけで許せてしまった伊波桜の心情描写は、まったくと言って良いほど足りません。それまでの話数で、伊波桜が栗山未来に向けていた感情を考えれば、あれで許せてしまうのはあまりも性急です。

以降の伊波桜は、栗山未来と神原秋人を繋ぐメッセンジャーという役割を持たされた人物であると感じました。二人の仲をより繋ぐ、栗山未来寄りの立ち位置です。ですが、作劇上ではそれほど重要な役割を持たされてはいません(武器を失い、戦闘に参加出来なくなったほとんど普通の人間である伊波桜が、「異界士」や「半妖」である主要人物の輪からやや外れた位置に落ち着くのは必然です)。

となると、やはり、栗山未来と和解し、彼女が過去の精算を始められるキッカケを作るために用意された人物であることは明白なわけです。

6話『ショッキングピンク』は当時も話題になりましたが、所謂ギャグ回です。ですがあの回は本当に良く出来ていて、京都アニメーション特有の尋常じゃなく凝ったダンス描写やテンドンを駆使した展開に目が行きがちですが、栗山未来が神原秋人を中心に構成するコミュニティに馴染むシークエンスが、非常にスムーズに描かれています。

丁寧にも丁寧すぎるくらい慎重に描かれていた、栗山未来とそれ以外の人物の関係性の構築が一気におざなりになってしまった7話『曇色』は、視聴者の没入感を削いでしまう強烈な痛手となったであろうことは、実感として僕の中に強く残っています。

もう一つ決定的な綻びは、神原秋人から抜けた「境界の彼方」との最終決戦から、12話『灰色の世界』終劇まで続く一連です。

視覚的な情報のみで、決定的な情報を欠いたまま進められる戦闘や、展開の数々。何が起こっているのか、視聴者がよくわからないままに映像は続いてゆきます。訳知り顔で何も語らない大人たち。「境界の彼方」が舞台である長月市直上に現れた理由。消えたはずの栗山未来がそこで孤独に戦う理由。結局、藤間弥勒が企んでいたこととは。「境界の彼方」へと吸い寄せられる「妖夢」たち。「異界士」としての力が弱まる名瀬博臣。クライマックスにて起きる、栗山未来と神原秋人のやり取り以外の全て。栗山未来が、神原秋人の前へと戻ってきた理由。

それらは何も理由が語られません。これは致命的です。語られない設定は物語を補強しない、とは前述した僕の言葉ですが、これはそれ以前の問題です。

ですが、それらに納得出来る理由を見つけることは可能です。

それは「文脈」です。

物語終盤で最後の戦いを起こす必然性は言うまでも無いでしょう。であるならば、それ以前に主人公とヒロインが離れ離れになってしまったのなら、再開する展開が望ましいです。主人公が力を失ってしまっていたのなら、それを僅かでも取り戻す展開が望ましいです。敵が強大であるなら、主人公とヒロインが共に戦う展開が望ましいです。敵が「妖夢」であり、人間の心の弱さに付け入ってくるのなら、それを視覚的にわかりやすく表明する描写を用いるのが望ましいです。幻影が晴れた後に現れるのは、当然無数の「妖夢」たちでしょう。それを全て倒す展開は必然です。神原秋人の体内から「境界の彼方」を排除した栗山未来の方法から考えれば、神原秋人が自己肯定の末に「境界の彼方」を取り戻した後、栗山未来が消えるのは必然です。物語の方向性を考えれば、栗山未来と離別したまま終劇するのは望ましくありません。ですので、栗山未来は戻ってきます(劇場版をご覧の方はご存じだとは思いますが、それは代償を伴った、決して幸せとは呼べない終劇ではあるのですが)。

もちろん、これは納得出来る理由ではありません。視聴者の期待を裏切らない展開を用意したとはいえ、その理由が全く示されていないのなら、納得出来る作劇とは呼べないものになってしまうからです。

ですが、映像作品としては、唯一無二の作品に仕上がっていたと僕は感じます。

その唯一無二の映像体験を得ながら、僕が考えていたことは「惜しい。あまりにも惜しすぎる」という、ただ一点です。

最低でも、あと2話あったのなら、と考えます。

7話『曇色』を補強する1話と、11話『黒の世界』と12話『灰色の世界』を補強する1話があれば、『境界の彼方』はとんでもない傑作として語られる作品になったのではと思って止みません。

僕が感じた欠陥や粗については、「もしかしてこいつは『境界の彼方』が嫌いなんじゃないのか?」と思われても仕方が無いくらいあれこれと書きました。

そうでは無いのです。僕はこの作品が秘めたポテンシャルを身を以て体験しました。だから勿体なく思うのです。もちろん、僕が列挙した通りに改善すれば『境界の彼方』が傑作として語られる作品になるとは限りません。僕はアニメの作り方を知らない一視聴者です。脚本も書けません。ただ、思ったことを思ったまま書くだけの、自分勝手な消費者です。そんな人間が挙げた改善点など、実際に現場で活躍する方たちには一笑に付されるものではあるかもしれませんが、そう思ったことを言葉として残そう、自分の中で消化するためのキッカケを作ろうと思ったので、この記事を書きました。

ここ数年で、僕はようやく感想を並列して持つことが、少しばかり出来るようになってきました。

列挙した疑問点などは、実際に視聴中に浮かべたものです。ですが、それと同時に、僕はこの映像体験が得難いものであるとも考えていました。とても良いと、同時に思っていました。それは決して矛盾しません。

理由や納得とは程遠いところで、僕は『境界の彼方』が持つ「ちから」を感じました。

感性を揺さぶられ、琴線に触れました。エモーショナルな映像体験に理由はいりません。「虚ろな影」に蝕まれる神原秋人が、自分を刺すように栗山未来を駆り立てるあのシーンの強さに理由はいりません。自らが消えても神原秋人を救いたいという、「境界の彼方」を殺すためだけに長月市へとやってきた当初の理由を捨ててまで、彼のためだけを考える栗山未来の強い想いに不感症などではいられません。ようやく取り戻したと思った栗山未来が、掴む間も無く消えてしまう展開に説得力などいりません。それらを越えた場所にあるこの作品が、本当に好きだと感じたのです。だからこそ、それをもっと、すんなりと受け入れられる展開として用意して欲しいと思ったのです。余計な疑問を抱く暇も無いくらいに仕上げてほしいと思ったのです。

と、僕が『境界の彼方』を観て感じたことは、以上です。

 

さて、散々フルネームで記述し、愛着の欠片も持っていないような扱いをした栗山未来ちゃんですが、この子がヒロインだったからこそ、僕は『境界の彼方』が無二の作品であると感じたとは思っています。

あの可愛い生き物は何なのかと、視聴中に数知れないくらい思いました。あの可愛い生き物は何なのでしょう。どこまで可愛ければ気が済むのでしょう。どうしてアニメ塗りなのにあんなにふわふわもふもふしているように見えるのでしょう。不思議です。理由を確かめるためにサンクトペテルブルグへと取材班が向かうレベルです。

あと、眼鏡に対する作画のこだわりが尋常じゃ無かったですね。眼鏡のリムやテンプルって省略するのが一般的なんだと思っていましたが、一切省略されないあの赤ブチ眼鏡には並々ならない執念が感じられました。眼鏡キャラの表情は、省略しない眼鏡のパーツも含めてのものだろう、と言われているような錯覚さえ覚えました。

画面作り、という点にはおいてのこだわりもすごかったです。画面が常に、何かしらの色を重ねたような色合いになっているんですよね。恐らくそこには何らかの意味合い(色によって登場人物たちの感情を表すような意図など、でしょうか)があるのでしょうが、残念ながら僕の頭では「そうなのでは?」という程度にしか読み取れなかったので、まだまだ研鑽が足りないなと思う次第です。

散々書き殴って、少しずつ消化出来始めているのでは、と思えるようにはなりました。もちろん感想を書き殴る程度で消化など出来るわけが無いので、何らかの形で、この思いを払拭し、糧にしていこうとは考えています。どんな形になるのかは未定ですなのが。

絶賛放送中の『響け!ユーフォニアム2』はサイコーのアニメとして続いてくれていますが、僕としては『境界の彼方』と同じくKAエスマ文庫発である『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のアニメ化がとても楽しみです。

続報を待ちたいですね。上巻を買ったので、下巻が出る前には読み終えなければ……。

 

以上です。