Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/08(月)の気持ち

別に書くことは無かったけど、何となくここの更新は続けようと思っていたのだが、1日空けたら「まぁ良いか、書くこと無いし」となってしまって1週間空いてしまった。まぁ書くこと無いのに記事を書こうというのも大概おかしな話なので、別にこれはこれで悪くはないとは思っている。なぜだかちょいちょい読みに来ている方もいるようだし、誰が読んでいるか定かでは無いが、僕のメンタルがヘラヘラしている様子を率先して発信していくのもおかしな話なので、ヘラヘラ記事を書き連ねることで自分を追い込んでいくのをやめるためにも良かったんじゃないかと思う。そういうの読んでぷぷぷと笑いたい方はごめんなさいね。自分の躁鬱の激しさには大概嫌気が差すが、まぁいつまでもヘラヘラしているよりは良いとは思う。そういう感じで、あれだけボコボコと書き殴った鬱屈した気持ちは記事を書いたお陰かどうかスッキリして、今はそこそこ安定を取り戻しているような気がする。躁側に振り切り始めているような気もするが、何とか安定を取っていきたいところだ。これの難しさについては重々承知しているところなので、何とか折り合いをつけてやっていきたいと思っている。

最近肉体的な疲労がそこそこしんどくて座椅子の背もたれを倒した状態で長時間睡眠に突入して負のスパイラルに陥っていて本当に良くないのだが、創作意欲の方はそこそこ取り戻し始めていて良い兆候に思える。しかし肉体疲労が創作活動の直接的な妨げになることも過去の経験からしっかり把握していることなので、この辺を何とかしていきたいとは思っている。具体的にどうすれば良いかはわからないし、普通におふとんで睡眠をしっかり摂るくらいしか無いのだろうが……、まぁ、万全な体調で創作に臨みたいという意識はあるものの、万全な体調でしか創作と向き合えないというのも大概甘えた考えのような気もするので難しい。かつて新人賞シメキリファイターとして投稿を続けていたときは、普通に体調が悪くても書けていた経験があるので、なんでこうなってしまったのかな、という思いがこう思わせている気はする。締め切り直前1週間前とかに慌てて書いてたとき、普通に3時間未満睡眠を続けて、おうちで起きているときはずっとキーボードを叩き続けていた日もあった。1日で30000字以上書いた日もあった。それは必ずしも良い結果をもたらすものではないし、だから何だという話でもあるのだが、自分がそこそこ追い詰められて無理をすれば、それくらいはやって出来ないことは無いという経験が、今の僕に重くのしかかっている節はずっと感じている。稚拙で脳直な創作行為が未来の自分のためになど一切ならないというのはわかっているが。まぁ「それくらいは出来るぞ」というヘンなプライドみたいなものが良くないのだわな。もっと真っ新な気持ちで小説と向き合いたいというのは、最近薄らと思っていることだ。それが万人に対しての面白さに繋がらないとわかっているものでも創れる勇気。自分のための創作行為を取り戻せば、小説を書くという行為に感じているハードルの高さやプレッシャーみたいなものから逃れられるのだろうか。なんか身の丈に合っていない悩みを抱いているように感じる。別に皆から望まれて小説を書いているようなご身分でも無いのにそんなことを考えるのは大概バカらしいとも思うが、別に普通に失望されたくないじゃないですかね。「昔のあれ書いてたときの八神の方が良かったよ」なんて言われたくないじゃないですか。まぁ、仲間内で小説読み合うようなこともめっきり減ったので、そんなことすら思われないわけだけど。だとしたら、尚更自分のために創作をする必要性みたいなものを感じる。別に普通にずっとそうだったけど。評価なんてものはそれに付随してくるもので、地道にやって、宣伝活動にもそれなりにちからを入れて、ガツガツでも待ちの姿勢でもない承認欲求とのシーソーゲームが必要だとはずっと思っている。そういうのを、やっていかなければならないこともずっと思っている。まぁ、現状それが出来るモノが無いので今考えることではないのだが。うん。話が飛躍してしまった。話や論理を飛躍させたがりな思考回路であることには割と自覚的だが、もっと有効的に活用していきたいものですね。具体的には、設定詰めるときとかにね。

どうしても、こう、誰も見たことが無いものを作りたいという意識が根底に強くある気がしている。設定にせよ、キャラにせよ、物語構成にせよ。それが理論的に不可能であることはわかっているのだが、誰かの二番煎じをやる必要性ということをまず念頭に置いてしまう自分がいる。理論的に不可能とは言ったものの、それはたぶんやって出来ないことではないんだろうけど(題材と魅せたいもののピント、という辺りにヒントがあるんじゃないかとは思っている)、ただそれが自分の納得の出来る面白さに繋がらない可能性にはまず思い至る。自分の納得がまず根底にある。それが客観性を持ち得ていれば尚良い。だとするなら敢えて二番煎じを行うことはそれほど悪い話というわけでもない。世間的に人気を博しているものから換骨奪胎してくるというのは手法としても一般的だ。要は何を描きたいか、何を主張したいか、というところが自分由来のもので固められていれば読者の印象を「これは二番煎じだ」という思いからずらせるということも何となくわかっている。物語構成に類型がそれほど無いこともわかり切っている。定番の構成、というものは確かに存在するよね。こだわるべきはそこじゃないこともわかっているのだけど、こう、同じ物語構成を流用するとなるとどうしても流用元のイメージに思考が引きずられてしまうということも感じる。流用元作品に比べて~という思いを、まずそれを描く自分がいかに逸らせるかが重要なのかもしれない。構成は書きたい物語や主張を効率良く引き立てる土台でしかないので、そこにオリジナリティを求めるのは大概お門違いだ。書きたいキャラはある。こういうお話を書きたいという欲求もある。ただ、いつぞやのヘラヘラ日記にも書いた覚えがあるが、そこに込めるべき主張が見付かっていないのが今なので、やはりそことしっかり向き合っていかなければならないことはそりゃそうなのだが、これが難しいんだよね。主張というか、まぁあんまりテーマって言葉は使いたくないんだけどテーマ的なそれって、そもそも当て嵌めるべきものではないような気もしているので、その辺が難産の大きな理由になっている感は如実に感じている。難産になるくらいなら考えない方向で、もっとこう、読んで面白かった!で終わるようなエンタメ特化娯楽至上小説として考えていけば良いんじゃないかとは今自分で思ったが、消費者としての自分があまりそういうのを求めていないのに果たしてそんな器用なことが自分に出来るのか?という疑問は真っ先に浮かんだ。正しいエンタメ作品……って言うと語弊がある言い方かもしれないけど、そういうのは得意なひとがやれば良いってのはずっと思ってるし、僕自身はあまりそういう方向でお話を考えてきたことは無かった。その主張が成功しているにせよ失敗しているにせよ、そういう仕込みをしなきゃいけないという使命感?みたいなものが占める割合は僕の中ではそこそこ大きいらしいということもわかってきた。なるほどね。これを説教臭くならない塩梅でやるのがまた難しいんだ。僕は大抵めんどくさい懐古オタクおじさんなので「語りたい欲」とでも言うのだろうか、そういうのが気を抜くと出てしまうので、上手いこと自制出来るようにならなければならないね。まぁ何度も言うけど、今はその「語りたい」ものを模索しているところなんだけどね……。

前回……と言ってももう2年半くらい経つわけだけど、某賞に送った長編も大概難産だった。僕は魔剤……エナドリジャンキーなのでエナドリをめちゃくちゃ飲む不健康な生活をおくっているが、真冬の夜中に魔剤を売ってるちょっと離れた自販機まで散歩したりしていた。この時間が結構良くて、脳内でアイデアが固まるまで、思い付いてから結局半年くらい掛かったような覚えがあるが、そういったようなことを習慣付けて自分の中で「これは書ける」と思えるまで辛抱強く続けていたのは強く印象に残っている。このある種の成功体験が今、こうして難産に苦しんでいる状況を呼び寄せているような気もするが、でもそれも思い返してみればあまり能動的な行動ではなかったような覚えもあるんだよね。アイデアを待ち過ぎるのが良くないということはわかっていても、でもそういう意識改革ってどうしたら出来るんだろうね。頻繁に小説を書き上げてる皆さんはどうやってアイデア仕入れてきているんだろうか。集中力の問題かな?という思いもあるけど。まぁ、その辺は考えても仕方ないことか。よくわからんくなってきた。

とりあえず、小説を書くということが、それほどハードル高い行為ではないんだよということを、自分に言い聞かせ続けなければならないというのはずっと思っている。

気を張らずに短編なりショートショートを書き続けたら良いのかもしれない。でもそれが自分の水準を満たす、自分を満足させるための創作にならないこともわかっている。あまり意味が無いんだよね。決してハードルは闇雲に下げれば良いというわけじゃないような気もしている。凡作を作り続けて得られるものは、「凡作を作り続けた」という結果に集約される。自分の要求を満たす自分基準での傑作的なものを作り続けるのは理想を言えばそうなのだけど、それが現実的に考えて難しい以上、その両極端な振り幅の中間を探っていかなければならないのはそりゃそうだという感じだ。

そういえば昨夜は、蒼月エリさんのおうた配信をリアルタイムで見れた。思えばおうた配信をリアタイで見れたのは初めてだったようにも記憶しているが、その貴重な体験の最中、めちゃくちゃ楽しそうにおうたを歌って、どんどん楽しくなってきておうたが止められないモードに入ってしまって「自分だけが楽しい配信になってしまった」と少し反省していた蒼月エリさんはやはりお茶目な感じでめちゃくちゃカワイイだったのだが、でもその「自分だけが楽しい配信」が4000人くらい集まったリスナーのほとんどの胸を打って楽しませていた事実が、ある種の真理なんじゃないかなという気がした。

こうなりてぇよなぁ、と、思ったのだ。

それに触発されてコメ欄でじゃんじゃかスーパーチャットを投げていたタマキさんがその後におうた配信をやり始めていたことにはもっと早く気付きたかった。そう。そういう循環というか流れというか、そういうのが本当に尊いと思うのだ。

誰かを突き動かす創作がしてぇよな。

いつになく散文的な記事になってしまった。

日記なんだからそれで良い気もしている。理解を得るに越したことは無いが、全てに対して理解を得たいと思って行動する必要も無い気がしている。たぶん。

2018 10/01(月)の気持ち

かつて僕はケータイで小説を書いていた。

もう10年も前の話だ。ガラケーという、静電式のタッチパネル液晶ではない、ボタンをポチポチと押すタイプの携帯電話端末が、今現在ほぼほぼ化石と化してしまっている事実は、今尚それを使っている方々にとってはシツレイな物言いになってはしまうが、おおよそ共通認識となっている事柄なのではと思われる。

あの折りたたみ式だったりスライド式だったり、折りたたみ式の中でも軸の部分にボタンが付いていてワンプッシュで画面を開閉出来るものがあったり、開いた画面をZ軸方面に回転させてハンディカムのような形に出来るものがあったり、一見スライド式に見えるが実は画面をこう横に押し開いて回転させることで開くタイプがあったり、多種多様な形態(ケータイだけに)のものがあったが、まぁ僕もそれを使っていて、それのボタンをポチポチすることで小説を書いていた。たしかSO903iだっただろうか。背面に9つのボタンと小さな液晶画面が付いていて、ウォークマンのような使い方が出来る、音楽再生にも特化したケータイだったように記憶している。僕はFOMAシリーズが発表されたあたりからケータイを持っていたマセガキだったのだが、一番気に入ってた機種は?と訊かれるとたぶんこの機種名を出すと思う。その次に契約したのはSO905iで、まぁこれも良かったのだが、SO903iよりは印象に残っていない。それからXperia acroでスマホーンデビューを果たし、以降はずっとアイッピョーンを使っているのでそこからはあまり語り甲斐の無いケータイ生活をおくっている。まぁ、これから先リンゴ社がどうなるかはわからんが、Androidを使うことは二度と無いとは思うので、これからもアイピョーッンを使うだろうとは思われる。懐古に夢中になって話が逸れた。懐古おじさんはこれだからいけない。

実家に帰ったときに、なんという番組かは忘れたが、なんかのテレビ番組を観た。僕の現在のおうちにはテレビが無いのだが、実家に帰ると誰かしらが常にテレビを観ている状況になっているので、特にやることが無い僕もそれに乗じてそれを観ることになる。確かお笑いコンビのペナルティの特集だっただろうか。テレビを観なくなるとテレビに出ているひとたちが今何をしているのかも当然わからなくなるので、ペナルティのヒデさんが小説を書いているということも当然ながら僕は知らなかった。そのヒデさんが、楽屋で小説を書いているという情報が何度か出てきて、実際にその現場も映された。アイピョンで小説を書くと語るヒデさんの姿に、僕は「マジか」と思いながら大層驚いてしまった。書籍として発刊される小説を、アイピョンで……。それは僕に途轍もないカルチャーショックを与えた。

そもそもお笑い芸人の方々がある時期を境に小説家としてデビューするということにまず思うところがあるめんどくさいオタクおじさんであるところの僕だが、それをこのアイピョンの小さい画面を無限にフリックすることで出来上がる小説というものにも大層思うところがあるし、まぁ実際それは別に間違ったことではないし方法論としておかしなことでも無いのだけれど、まぁかつて実際にケータイを使って小説を書き、それをやめてパソコンで小説を書き始めてパソコンでしか小説を書けなくなった僕の身からしてみると、なんだかなぁという思いが無いわけでもないのが本心だ。

まず、小説を書くのに必要なのは、文字を書くツールだ。鉛筆と原稿用紙(ノートでも良いし、チラシの裏でも良い)があれば、その環境は容易に構築出来る。関係無い話だけど、僕はマンガやアニメや小説や、まぁ媒体はなんでも良いんだけどこう小説家として登場するキャラクターが鉛筆と原稿用紙を使って小説を書いているのを見ると無性に腹が立つんだけど(媒体に小説も含めたが、小説が元になった映像作品なんかは割とノートパソコンで小説を書かせてるイメージがあるので、小説を書いたことが無いひとにそういうイメージが強く備わっている気がしている)、そのステレオタイプなキャラ表現マジで即刻やめろって思いませんかね小説書いてる皆々様。ホントかどうか知らんが神林長平先生が『いま集合的無意識を、』だかで「僕らが最後の手書き世代だ」って言ってたぞ。何十年前のステレオタイプを持ち出してきてるんだしっかりしろ。話が逸れた。……まぁ文字が書ければ何でも良いのだ。パソコンでも良いしケータイでも良いしキングジム社様から発売されているポメラなんかを使っても良い。まぁ、ケータイで小説書いてるひとを見ると前述したような反応をする僕のことだから、ポメラを使って小説書いてるひとを見ると同じような反応しますけどね。ポメラ買うのやめてその代金分足してiPadSurface買いません……?って思うんだけど……、なんか無限にヘイトが湧いてきて本題に辿り着かないなこの話題……。こういう攻撃性はマジで良くないですね、ホントに……。

何が言いたいかと言うと、画面サイズの問題なんだよね。

これは実際にケータイで小説を書いていた環境からパソコンで小説を書くようになった人間特有の感覚だとは思うんだけど、画面サイズが大きくなるということは、表示出来るテキストの範囲が格段に広がるということなんだよね。

何を当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、例えばあなたが今持ってるそのスマホーンなりアイッピョーンなりのテキストアプリを開いて文字を打っていって、どんどんスクロールしていってみてくださいよ。画面下半分をキーボードが覆っているのだから、実際に表示出来るテキスト量ってホントにかなり微々たるものですよね。それ、パソコンの縦書き出来るソフトだと、スマホーンでどれだけスクロールしたものを一括で表示出来ます?かなり一生懸命スクロールした範囲が一括で表示出来ると思うんですけど、それって実際かなり重要なことだと思うんですけど、何が重要だかわかります?

僕は大抵自分のあらゆる能力に対して懐疑的な人間なので、だからこう思うのかもしれないけど、表示されてない文章を知覚なり把握なりし続けることって可能ですか?改行含めて10行にも満たない、300文字未満くらいの文字数、その段落だけが表示されてる状態で、それ以前に書いた情報をリアルタイムで把握し続けることってなかなか困難じゃないですか?そんな情報制御が困難な状況の中で、必要充分な情報を詰め込んだ小説が書けます?もちろん色々な書式設定があるとは思うし、パソコンで書いているからといって文庫本サイズで50ページ100ページ300ページ分の情報を1画面で表示することは不可能だけど、1ページ分なり2ページ分なりの情報を1画面で表示出来るだけでケータイの画面で見落としてしまいがちな文章や情報の粗というリスクは格段に落とせるとは思う。もちろんこれは推敲作業のことをまったく考慮していない考え方だけど、推敲するにしたって最初からボロボロな文章なんて書きたくないとは思うのだ。あとまぁ僕がフリック入力を片手でするので両手でフリック入力するひとは違うのかもしれないけど、脳内からテキストに反映する速度が遅いとそれだけでイライラするよね。キーボードタイピングが速くないひとのことも考慮していないけど、だから、それなりにしっかりと書こうと思っている文章はキーボードでしか書けないというのが僕の持論だ。

だから、小説を書く環境として、パソコン以外でやっているひとを見るとカルチャーショックを受けてしまう。別に否定しているわけではない。それで面白い小説を書けるなら、僕には到底出来ないことなので純粋に凄いことだと思う。別にツールが作品の出来不出来に関わってくるなんてことは一切無いので、それが出来るならそれに越したことは無い。WindowsXPで書いた小説よりWindows10で書いた小説の方が面白いなんてことには当然ならない。だからiOS12で書いてもAndroid9.0で書いてもポメラで書いても作品の面白さには関係しない。自分に合ったやり方で小説を書けば良いとは思う。まぁ効率はめちゃくちゃ悪いだろうけどね。

……というのが、ケータイで小説を書くのをやめて、パソコンで小説を書き続けてきた僕が今まで抱いてきた偏見に充ち満ちた考え方だった。

そういう考えを意識の内か無意識の内か抱き続けてきて、つい先ほど、自分がこういう考えに支配されていることに気付いた。自分がどうしてケータイで小説を書かないのか少し考えてみたのだ。上記した幾つもの理由は理由としてあるが、そこからその考えに至った道筋にも考えを至らせてみて、どうやらそれは自分が捨て去ったやり方なのだから、それを克服した今、改めて試すなりやってみる価値がある方法論では無いだろう、という凝り固まった思考が原因していることを突き止めた。

なるほど、と僕は思った。いつぞやの記事に僕は自分が過去の自分を八つ裂きにしたいと常々思っている、といったようなことを書いた覚えがあるが、今回の件もそういった動機によって成されている可能性が強くなってきたことに気付いた時、僕は戦慄した。上記した理由は確かに自分の中では理路整然……とまではいかないかもしれないが、それなりに納得出来る理由だと僕は思っているが、だがそれはケータイからパソコンに執筆環境を移した自分が無意識の内に、より良い環境になったと思い込むがために構築していたかもしれない理由だったのだとしたら、その偏見は多少なりともほぐしたいと思ったのでこういう記事を書き始めた次第だ。

まぁ別に、改めてケータイで小説を書こうと思っているわけじゃない。前述した理由が、持論として僕の中で確立しているのは確かだ。情報制御が困難な状況で小説なんか書きたくない。ケータイは出先でも小説が書けるし実際便利だという意見もあるかもしれないが、無数に他人がいて自分の思考の妨げになるようなものが無数に存在するおそとなんて環境で小説を書きたいなんて僕はこれっぽっちも思わない。集中力が散漫だからこそ、集中できる環境は大事にしたいのだ。まぁ、パソコンというツールはそのHDDなりSSDの中、あるいは無線有線の先に繋がるインータネットの先に大量の誘惑を秘めたものでもあるから、それ自体が集中を妨げるものであるという意見には100億回頷いて同意するが、ともあれ、このブログを書いているような状態で小説を書くべきだと僕は考えている。それはたぶん揺らがない。実績もある。

だが、設定や世界観、ネタ出し作業においてはどうだろう、と思ったのだ。

僕の中の基準なのだけど、それは恐らく、必ずしもこのブログを書いているような環境でやる必要の無いことだ。むしろお布団に横になってもっとリラックスした状態の方が良いものが出てくるんじゃないかとは思っている。わからんが。まぁ、一文一文に気を遣わなくて良いのは確かだ。本文執筆よりも、ある意味においては精密な行為というわけではないような気がしている。

別にそれを実践してきたことが丸きり無いわけではないのだけど、あんまり長続きしてこなかったのだな。まぁそもそもあまり設定を煮詰めてから書き始めるタイプでもないというのもあるが、でもしっかり用意するに越したことは無いとはさすがに思っている。それは出来ないからやらない、というよりは、何が必要になるのかマジでわからないから都度その場で考えるようにしている、というのが実情だ。必要にならないかもしれないものに思考リソースは割きたくないし、お話の展開によっては当初の設定を否定しなきゃいけないような場面もまぁ訪れる。別にイタコ型の、キャラが勝手に動くタイプの書き手でも無いが、キャラの動きってまぁ基本的には必然よね。プロット通りに誘導するにしても、軌道修正が必要な部分ってのはどうしても出てくる。それを設定というか、プロットをガチガチに固めた状態で、それ以外の動きは許さない、というような作り方をすると破綻が起きやすいような気がしているし、端的に言えばキャラがブレるとも思っている。

というような先入観があることも、これを書きながらわかってきた。

一度自分の中に作り上げてしまった方法論を否定するのは、とても勇気がいる行為に思える。別に否定まではしなくても良いんだけど、もうちょっと柔軟な考え方をしたいなぁと思ってこういう記事を書いてみた。今僕のアイピョーン8+は、せっかく無駄に大きな画面を備えていてパソコンと手軽に同期出来るテキストアプリを入れているにも関わらず、アズールレーン専用機になっているのでそれもマズイよなぁ……と思ったので、もう少し有効活用したいと思ったのだ。何より季節の変わり目で座椅子に座ってるだけでマジでつらい状況とかもままあるので、お布団に寝転がりながらクリエイティビティを発揮出来たらさいつよなのでは!?と思ってこうして考えてみた。気付くのが遅いという向きはあるかもしれないが、まぁ、何事も遅すぎるということは無いのだ……。そう自分に言い聞かせて、そろそろ筆を置かせて頂こうと思う。また5000文字も書いてしまったが、こう、もっと端的な物言いが出来ないものかね、きみどりくんや……。

ケータイでネタ出しをしてみよう。

僕は基本ネタ出しを脳内だけでやるんだけど、脳内だけでやると、取りこぼしてるものは沢山あるんだよな……。

2018 9/30(日)の気持ち

非常に強力な台風くんが過ぎ去った。

天候に影響されやすい体質だということは直近の記事に書いた。気圧の変化にはやたらと敏感だ。僕は『頭痛ーる』というアプリをアイッピョーンにインストヨールしていて、これはヤバい気圧下降なんじゃないかと直感にて3秒で理解したときにそのアプリを開いて気圧の変化を確認している。台風接近前と通過後でおよそ40hPaもの差があったようだ。もの凄い勢いで急降下していくグラフを、台風がまだ沖縄近海あたりにいたときに確認して思わずおかしな笑いが込み上げてしまったものだが、おうちが強風と豪雨でぐらぐら揺れてる間の体調の悪さといったらなかった。そうでなくともここ数日はやたらと雨が降りまくって体調の悪さが際立っていたというのに、それを3倍濃縮して圧力鍋でぐつぐつと急速で煮込んだようなクレアおばさんもびっくりな身体の重さだった。クレアおばさんって誰や。まぁ、そんなこんなで翌日は(今日だが)台風一過ということもあって(関係無いが、僕は昔、台風一過のことを台風一家だと思っていてあいつら一族で日本列島襲ってくるんかマジでヤバイな……と思っていたが後半は今思い付いた)関東らへんの気温は30℃を越えるらしい。マジで意味がわからんが風邪を引きそうな気温差だということはわかるのでなんとかご自愛していきたいものだ。

そういうわけでなんか今日も書いていこうと思う。

正直前回の記事に自分が小説を書きたくなるときのメカニズム解明みたいなものを書いたので後はそれに従っていくだけなのだが、生憎にもぐずついた天気やら台風やらにメンタルフィジカル諸共メチャクチャにされて何も手が付いていない。周防パトラさんの配信を観るようになったら決心したはずのVの者たちとの距離感も見失って、特に今日なんかはやたら追ってるVの者たちの配信が立て続けに成されて(随分と絞ったはずなのにこの体たらくだ)ひたすらヨウチューッベに寄り添った半日になってしまった。これはマズイと思って日記なり自己分析ごっこなりをしていこうと思って今これを書いている仕組みだ。

今読んでる本が全4巻のラノベなのだが、一区切り付いたあたりで読むのをやめたら読書熱も冷め始めていてヤバさを感じている。こう、飽き性な人間特有のムーヴになり過ぎている気がする。あれよね。飽き性な人間って飽きやすいだけあって熱中しやすさもあるのよね。のめり込むのも速ければやらなくなるのもめっちゃ速い。まぁ、別に普通に最後まで読むけども。最近読んだ翻訳小説なんかも途中で数日読まない期間空けてしまったけど最後まで読んだし。別にただそれなだけだし。

……。

なんかよくわからないテンションになってしまった。急激に下がった気圧が急激に下がる前あたりに戻ろうとしているのでその反動だろうと思われる。

まぁ土日はまともにやることもやれないようなリズムで生活してるので、今日あたりはこういう感じで良いのかもしれない。1週間7日間を無休で駆け抜けられるバイタリティ溢れた人間だったら良いのになと切に思うが、残念ながら僕はクソ雑魚メンタルフィジカル人間なのでそういうワケにもいかないのが実情だ。

こう、週明け頃に友人とした通話で負ったダメージが未だ深く残っている感はある。これを含めてもう3記事も書いてしまったメンタルヘラヘラ日記を付けるようになった直接的な原因でもあるのだが。そいつがこれを読んでいないと踏んで思い返していこうと思う。

確か最初は、別に普通に通話をしていたはずだった。僕と友人と互いにやってるソシャゲであるところのアズールレーンの話をちょくちょくしながら、別に明確な話題も無くだらだらと喋っていたところで、友人が切り出してきた。

「書こうと思ってる短編なんだけど」

そいつも小説を書いている……いや、まぁあまり詳しくは書かないが、あれだ。まぁ、そいつは僕が小説を書く直接のキッカケになったやつだ。別にそいつに指導してもらったとかそういうことは一切無いが。インータネットを経由して知り合った友人たち(今でも交友が続いている付き合いが長い、僕の数少ない友人たちだ)で小説なりを書いている友人はその内の大半を占めるが、リアルの友人では数少ない同好の士というやつだが、まぁ互いにそういう風に思っているかは微妙だ。まぁ、相談に乗るくらいだったら良いかと思って僕は至って気軽に話題に乗じた。

結果を端的に言えば、僕はそいつの小説に対する姿勢みたいなものを、ほぼほぼ全否定した。「お前がそのスタイルでこれからもやるなら、僕はお前の小説はもう二度と読まない」と何度も何度も繰り返し言い放った。それでなぜ僕がメンタルをヘラヘラさせなければならないのかと疑問に思うかもしれないが……、まぁ、あれだよね。

僕は大概他人に対して攻撃性みたいなものを剥き出しにしているような人間だが、別にそれを好きこのんで出しているワケではないのはそりゃそうだという感じだ。だって疲れるじゃない。自分調べで数年前に比べて根に持つようなことも無くなってきて(僕は大概根に持つ人間だ。だからこれは単純に嬉しい兆候だ)、自分のメンタルに掛ける負荷も減ってきてだから創作意欲も衰えてきているのではないかと疑っているがそれはそれとして、まぁそういうのはなるべくならしたくはないのだな。僕たちはもっと自分の短所なり欠点なりと向き合ってそれを御したり改善したりをし続けなければならないのだと僕は常々考えているのだが(考えることと実行することは、残念ながら大きく違う……)、別に他人を言いくるめたり切り捨てたりみたいなことは嬉々としてする場合も無いとは言えないが、親しい間柄の友人に対してやることではないとは、さすがの僕でも考えている。

別に内容を詳しく書いたりはしないが、ほとんど口論のような形で会話が続いた。持ち掛けられたその短編に対する意見交換はまだ良かったが、そいつが以前に書いた短編を僕がその場で読んで感想を伝えてるときはほぼほぼ口論だった。これには滅入った。別に僕は自分の創作スタイルのみが正しいと考えているような頭のおめでたさまでは持っていないと願いたいが、それを押し付けなければならないような展開になってしまったときは(なぜこんなことをしているんだろう……)くらいには思っていた。前述もしたが、全否定をしたのだ。そいつがそれなりの自負を持って読んでくれと頼んできたものを、全否定したのだ。それは即ち、その友人の創作スタイルの全否定だった。こんなことをしたいワケがない。だが、感想を偽るワケにもいかない。かつてトゥイッターのワナビクラスタなんて連中が寄り集まっていたとき(今もそういう連中はいるんですかね。業界に疎いので知らないのですが)には選考で落ちた応募作をタイムラインに持ち寄って感想を送り合うなんてものが局所的に行われてはいたが(ツイッター老人会かよ)、そういう場では「これはおもろないわ!そりゃ選考も落ちるわ!!」なんて本音は隠して当たり障りの無い感想を伝えてフォロワー諸氏に角が立たないような立ち振る舞いが必要になる場面もあったかもしれないが(戯画化して書きすぎなのでわ!?)、僕はそいつに面白い小説を書いてほしいと思っているので、そんな毒にも薬にもならないような振る舞いは最初から度外視されている。

別に創作論みたいなものをひけらかすことに抵抗があるわけじゃない。それは確かに恥ずかしいことなのかもしれないが(別に応募作を書くときに縦書きと横書きのどちらで書くだとか、転じてどのエディタで書いているだとか、三点リーダは2つで1セットが業界の常識だとか、文末に「~~だ」「~~だった」が連続してるのはダメだとか、そういう本当に心底クソくだらない創作論未満のクソどうでも良いクソ話題をひけらかすのは本当に心底恥ずかしいとは思う)、別にそれって自分が考えてきたり実践してきたことの軌跡じゃないですか。だったら別に恥ずかしがることではないし、それを理解出来るのは同じこと考えてるひとに限られるじゃないですか。そうじゃない方法で面白い小説書いてるひとは違うこと考えてるし違う方法論使ってるから関係無いじゃないですか。そもそも面白い小説を書くということを実践するために出来ることは「面白い小説を書く」ってことに集約されるので(随分前に別の友人に言われたことがようやくわかってきた感じがある)、そもそも言語化出来ることなんてのも少ないわけじゃないですか。まぁ、そんな感じで、数少ない言語化出来ることを伝えたからといって、相手は違うことを考えてる違う人間なのだからそれは伝わらないのだ。伝わらないことを言い続けた時間だったのだ。心底疲れた数時間だった。

僕は大抵、怒りや疲れが後から燃えてくるタイプの筋金入りの根に持つ人間なのだが、まぁそんな感じなので翌日以降のモチベの低下があまりにも酷かった。別に自分の利ばかりを考えようと思っているわけではないのだが、それでも考えてしまうのだ。何の利にもならない時間だったなと。伝えたいことの殆どは伝わらないし、そいつにはそいつの考えがあるので僕の言葉を受け入れようという気も無いし(こればかりは完全に僕の想像だが、受け入れようと思ってくれるなら口論にはならないだろう)、受け入れてもらったからどうという話だし、僕の感じる「面白い」が正義というわけでもないし、だから何、お前は僕に気に入ってもらう小説を書くために小説を書いてるワケ?という思いもあるし、なんか、そういうことがそれから数日僕の脳内を支配した。

こればかりはどこかに吐き出さなければならないと思って書いた一連だった。本当にしんどかったし、欲を言うなら誰かに共感して欲しいという思いもあるが、まぁそこまではさすがに望まない。読まれているか読まれていないかわからんこんなインターネットの僻地に吐き出すのが一番だなと思ったのでそうした。ようやく肩の荷が下りてきた感はある。

書いて落ち着いた今、本当に益体の無い記事になってしまったとやや後悔している。ブログに愚痴を書くなんて中学生かよという感じもするが、まぁ自分の脳内で完結させられる問題ならそうしているので大目に見て欲しいところだ……。後悔が一定値を越えたら下書きに戻すと思うので、まぁ仮にあなたがこれを読んでしまったなら、僕と同じようにインターネットの僻地に吐き出して処理してほしい。嘘です、ごめんなさい……。

きみどりちゃんのブログはタメにならないなぁ~。

タメにならないなぁ……。

2018 9/28(金)の気持ち

特段、習慣化するつもりは無かったのだが、思考整理のついでという感じでちょこちょこ書いていこうと思う。

長編のネタを考えている。小説をちゃんと書き始めようと決めたときから考え続けてはいるのだが、これがなかなかまとまってこない。どうやったらまとまるのだろう、ということもずっと考えている。こればかりはなんというか、タイミング的なところもあるので、考えても答えが見付からないのはわかっているのだが、でも考えてしまう。ちからを入れるべきはアイデア出しなのだが……、というところで思考がループに陥ってしまう。とても不毛な思考リソースの割き方だ。それも自覚はしている。

ここ最近、〇〇先行というようなネタの出し方が出来なくなっていることに気付く。色々アニメや映画を観たり小説を読んだりノベルゲーなどをやることで自分の中でパターンを当て嵌めるちからがついてきているのには自覚的だが、これが良くない方向に作用しているのは頻繁に実感する。

こういうキャラが書きたい、こういう設定を思い付いた、こういう世界観が好きだ、のように、まぁ並行して色々な要素を並べたとする。それが脳内でなかなか結び付いてくれないのだな。まず、正誤判定がある。こういう書きたいキャラを書くならこういう設定とは食い合わせが悪い気がするし、こういう世界観だとこういうキャラを上手く活かせない、のような判定が一瞬で出る。まぁこればかりは試行錯誤するなり必要なのだが、一度正誤判定を下してしまったものについて深く掘り下げて考えられない傾向にある気もする。自分の中でそれらを組み立てるのを諦めてしまっている状態にある気がする。まぁ、そもそもこういうお話の作り方は僕に向いていない(慣れていない)のは最初からわかっていることなのだが、強烈に書きたい「何か」が無い状態だとこういう手探りの仕方を始めて時間をドブに捨てるのは僕のこれまでの典型的なパターンのような気がしている。

自分が普段どういう作品の作り方をしているかと思い返したとき、まずクライマックスか主題がある気がしている。クライマックスは、クライマックスだ。その小説の中で一番読者を驚かせたいギミックを思い付くのが割と多い。つっても僕はプロットや構成で読ませるタイプの書き手ではないことには自覚的なので(出来るようになりたいとは思っている)、めちゃくちゃ凝ったギミックを使えた!という達成感に浸れたことはほぼほぼ無いのだが、まぁ僕の中で「よく出来た」ラインにある短編なんかはこういう作り方をしていることが多い気がする。別にギミック先行でなくても、「クライマックスにこういうシーン置きたいなぁ~」というシーン先行の作り方もそれなりにある気がしている。全体を通した構成の起伏としてそれほど珍しいものでなくとも(そもそもプロット構成にパターンなどそれほど無いのだが)、シーンありきで書き始めると、むしろそのシーンを特別際立たせるために苦心することになるのでモチベも維持出来ていた気がする。苦心し過ぎてモチベを維持出来なかったものは、最近多いような気がするな。飽き性なので、その辺の自分に対する配慮みたいなものは考えなければいけないのかもしれない。放置してる長編のことを思い出したが、今は脇に置くことにする。

主題から書き始めるのも結構多い。主題というか、主張か。主題とか主張とか書くと大袈裟な気もするが、要するに「今はそうじゃない主人公くんに、あれこれ乗り越えてこうなって欲しい」みたいなものだ。思考停止している人間が嫌いだ。自分がそうではない自信はあまり無いが、そういう他人を見るのはあまり好きじゃない。だから主人公には最初思考停止してもらって、それをあれこれ乗り越えることで自分で考える人間になってほしいみたいなものはよく書いてきた気がする。説教臭さみたいなものとのシーソーゲームになるのだが、それがエンタメになっているかの自信は、どうだろう。好きなもの先行という形になるので、他人にとっての面白さに繋がらない可能性はあるが、まぁそれは別にこれに限った話でも無いか。自分が最初に楽しめない作品を他人様に楽しんでもらうことなど出来ないという有り触れた話は僕も持論として持っているので、まぁこういうものを用いてモチベとしてきたものを書いた時は評判も良かった憶えがある。

こうやって益体も無いことをあれこれ並べてみると、僕にとって小説を書くということは、自分のモチベとの戦いなのかもしれないということを思う。まぁ、自分が面白いと思えないものを書き続けるのは実際とてもつらい。経験もある。〇〇新人賞に出すために書き始めた長編が、締め切りも間際になっているから慌てて書き進めはするのだが、どう考えても「これ面白く無いよな」と思いながら書いているときのつらさといったら無い。それでも〇〇新人賞に出さないよりはマシだ。だから書き終える。ゆっくり読み返す時間も取れてないのでやけっぱちで送ったそれは、読み返す気も起きない。友人からは辛辣な感想が飛んでくる。当然一次選考は通らない。一次で落ち続けてきた時期は、こういうことをよくやっていた。今、締め切りだけをモチベにしてやることは出来ないなぁとは思う。自分が書いているものにだって面白い面白くないという判断は容易に下せる。面白い面白くない、というよりは、要素やシーンが足りてる足りてないというような判断基準だが、その基準はあまり的外れではない自負もそれなりにはある。「これ足りてないよなぁ」という状態から「うん、足りてる」という状態に持っていくのは相当苦心する。何度も何度も読み返してまったくわけがわからなくなってくる。それでも自分の納得のために頭を捻り続ける。今思えばこの頭を捻り続けてる状態はなんてしあわせな時間だったのだろうと思ったりもするが、まぁ今はアイデア出しの部分で躓いている状態なので今考えるべきはどうアイデアを出すかという問題だ。

実際、僕は特別何かを書き続けたいという根源的欲求を持っているタイプの書き手ではない。どちらかといえばもうひたすら「僕にとって面白いものを書いていきたい」という欲求に近いような気もするし、実際僕が書いてきたものに書き方以外の統一性というのもあまり無い気がする。

今、とある尊敬する作家の古い作品を読んでいて、それを読みながら「こういう書き方は是非出来るようになりたい」というようなことを改めて思ったのを思い出した。

僕には僕のスタイルというものが確立されている。もう10年くらい小説を書いているので、得意なスタイルは嫌でも確立されてしまう。別に僕はこれを曲げるつもりは無いし、このスタイルこそが僕が一番映えるように書けるスタイルだ、くらいには思っている。それはこのブログの記事たちを読んでもらえば薄々気付いてもらえるようなわかりやすいかたちだ。まぁ、それは良い。

自分のそのスタイルに適合させられるか否かの判断基準がかなり強く作用しているんじゃないのか、というようなことを今これを書きながら考えていた。他の書き方で映えるやり方が出来るなら、自分のスタイルはあまり考えないし、それを基準にアイデアをねじ曲げるような考え方はしなくても良いのかもしれない。

まず、書きたいものありきだ。それはわかっている。それは後々二転三転することになって、原型が残らない場合もままあるが、それでもそれがモチベとしてきっちり作用して、僕が書きたい僕にとって面白い小説の雛形になるのなら、それは意義をしっかりと生んだことになる。僕が本当にそれをしたいのなら、こだわるべきは当初浮かべた書きたいものではないよね。まぁ大事だけど。それが無くならないように発展させていくようにはなるべくするけども。

 

今まで散々自己分析ごっこをしてきたこのブログだが、今回はより読み手の理解をすっ飛ばして書き殴り続けた記事になりすぎた気がする。

書きながら考えるのはとても良い。願わくばそれが僕が前に進めるちからの一役を担ってくれると尚良い。

まだまだこのブログを僕のために有効活用していきたいね。

2018 9/27(木)の気持ち

あんなにも暑くて暑くて暑かった夏はもうすっかり成りを潜め、ここ最近は雨が多いしやたらと涼しい日が続いている。

自分がかなり気候や天気に影響されやすい人間だという自覚はとてもある。週明け頃には風邪を引きそうになった。微妙な体調に気付いた瞬間に風邪薬を飲んだら持ち直したが、また微妙な体調になり始めている。ルーチンのような日々を過ごしているのであまり風邪を引かない(引いていたとしても気付かない)僕も、さすがに季節の変わり目には弱い。知り合いや応援してるひとたちも続々と体調を崩しているように見受けられるので、体調管理くらいには気を遣いたいと思った。

季節の変わり目は体調に大きく影響を及ぼすが、精神にも同じくらいの負荷を掛けていることにも自覚的になるようにはしている。

気圧が下がると精神状態も危うくなる傾向にある。頭痛に悩まされる、までいくと頭痛のことだけしか気にならないのでむしろ自分を御しやすい。問題は「あー今日何もやる気無いなぁ」くらいのテンションだ。いや、この辺はまだ自分の精神状態について自覚的な範囲か。なんとも表現しにくいが、「何をやっても空回るときのテンション」というのがある。酔っ払いが「俺は酔ってない」と頻りに言うような、なんだろう、「僕の精神状態はまだ大丈夫」と表面上なり表面下なりで思っているような状態だ。こういうときは大抵天気が悪かったり、前日との気温差がすごかったりする。「僕はまだ大丈夫だから、意欲的になるための行動ができる」と思って、やたらと、普段はあまりしない他人に対してのアクションを取ったりし始める。こういう精神状態のときはヤバイ。まず、自分の精神状態が普段と違うことに自覚的ではない。アクションを取ることで浮上できると思うのは良いのだが、その不安定な精神状態(必ずしもテンションが低いというわけでもない)が引き起こすアクションはその誰かに対しての配慮がすっぱり抜け落ちていることも多い。それが功を奏したというような記憶は当然あまり無い。

自分の性格が失敗体験を殊更重視している傾向には気付いている。それが何かしら良かった結果をもたらしたこともあるのかもしれないが、そういう記憶はまったく印象に残っていない。だから自分のこの傾向が兎角悪いものだという印象ばかりが募っている。

まぁ、自分のテンションちょっとヤベェなという時があったとして、それが個人的な内的外的問わない要因だったりしない場合、前述したような天気に影響されたり温度差に影響されてるなとその時なり後から気付いた時、大抵普通に他のひとも天気や温度差や気圧に影響されて滅入っている場合が多いだろうし、単純に事故が起こりやすい状況になっているのはそうだろうなと思っているので、やっぱりそういうときは大人しくしているのが一番っぽい。

別に何かしら直近であったわけではないが、そういう状況になりやすい条件がめちゃくちゃ揃っているここ数日なので、そういうことが起こらないように自分を律していきたいなという願いも込めてここに記しておく。

でも、最近ちょっと自分の中の他者への攻撃性というか、そういうのがやたらと強まっている気がしている。

僕は元来そういう攻撃性を糧にして創作をしてきたタイプの人間だ。だからこれは単純に良い悪いという基準で判断出来ない。創作する機運が高まってきているとも取れる。だが、他者への攻撃性を剥き出しにした人間が、普通に誰かとコミュニケートする場に出ていったり、おそとにほいほい出て行くのは普通にとても危険だ。そりゃそうだ。僕ならそういう奴がいるような場所には行かない。ミュートなり何なりの機能がある場所ならそれを使ってそいつを視界に入らないようにする。

というようなことを最近ちょくちょく考えていた。

なんだろう、僕は自分が面倒だなと思った事柄からとにかく逃避する傾向にある。そりゃ普通に暮らしていれば色々なひとたちと関わり合う機会は沢山あるが、そのほとんどの繋がりを逃避することで潰してきた自覚はとてもある。新しいことにチャレンジするのも億劫だ。僕みたいな人間が、という枕詞が、別にくちに出して言ったりはしないが、自分の中で何かをやらない、諦めるときの口癖になっている自覚もある。少し思考をネガティブに進め過ぎた。

まぁ、だからこれも一つの逃避なんだろうことはよくよく理解している。

しばらく、何かを吐き出したり思ったことを書きたいなと思ったときはここをメインに使うことにする。誰も見ていないわけではないが、殆ど人目に付かない場所というのはとても都合が良い。例えば文房具店でノートを買ってきてそこに書き殴るなり、プレーンテキストを開いてそこに書き殴る、というのは、こう説明が難しいのだけど、僕の中では「違う」気がしている。

誰かに見られる可能性がある場所に「公開する」という手続きを、殺しきれない承認欲求の漏洩が踏ませたがっているのだろうか。まぁ、単純に誰かに見られない文章なんて書く気がしないというのはもっともっぽい理由のような気はしている。それが結果的にお蔵入りさせた書きかけの小説と違うところは、その小説はそもそも誰かに読ませるために書いたものだから、というような例を持ち出したらそれっぽい気もする(それっぽくは無い)。別に承認欲求が特別悪いものだとは思わないけど、大勢に「俺を承認しろ」って言ってまわる姿はちょっとみっともないって思ってしまうよね。頑張っていれば必然的に周りが承認してくれる、という姿勢も大概みっともないとは思うけど。成果物と宣伝行為の天秤関係、みたいなことをぼんやり考えながら、今日のところは筆を置くことにする。

書きたい書きたい言ってる小説もまぁアイデアが降ってこないし、この姿勢がそもそも良くないってことはわかっていても、自分から要素を当て嵌めていく土台の作り方に慣れていないし、まぁそれも一つのチャレンジなんだろうけどな。逃避していてばかりではダメなんだ、本当に。

この半年間バーチャルユーチューバーを追い続けたことと今、そして今

この半年間バーチャルユーチューバーを追い続けたことと今について - Yellow Green Mechanical

昨朝にこういった記事を書いた。

 


【バイノーラル雑談】エリがお泊りしにきたよ!【周防パトラ / ハニスト】

まずはこれを聞いてほしい。話はそれからなんだが。

1時間40分ある?そんなことは些末な問題だ。この1時間40分はおおよそ5分の体感時間によって急激に過ぎていくので安心してほしい。安心しろ。

 

実はリアルタイムで配信を聞けたのは後半からだったのだが(今、これを書きながらアーカイブの2周目、つまり前半は2周目、後半は3周目を聞いている)ちょっとハニストというグループについての見解が大いに変わり始めていて、「俺は蒼月エリさんを強く推していく」みたいなことをあれこれ書いた覚えがあるが、ちょっとわからなくなり始めてるのが今、そして今。

蒼月エリさんが素晴らしいのは改めて書くことではないが(改めて書きました)、貴重なオフラインお泊まりコラボにて縦横無尽に活躍する周防パトラさんがあまりにも素晴らしすぎて、僕は先日の記事に綺麗にオチを付けることに決めた。

ハニストは良いぞ。

 

…………。

 

まぁ、小説以外の何事もほどほどにしていきたいと思う。

皆さんも頑張っていきましょう。

先生からは以上です。1時限目の英語の授業を始めます。それでは出席を取りまーす!

この半年間バーチャルユーチューバーを追い続けたことと今について

バーチャルYouTuberとは 

主にYouTube上で動画等の配信活動を行う架空のキャラクター群を指すのに用いられる呼称である。「VTuber」などと表記されることもある。また、そのほかのライブ配信サービスを利用する場合などにYouTubeという特定のサービス名を使用することを避けるため「バーチャルライバー」などと呼称することもある。

バーチャルYouTuberとは (バーチャルユーチューバーとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

バーチャルユーチューバーとは、端的に言えばこういう存在らしい。

一応の補足としてニコニコ大百科より引用させてもらった。これを読むひとがこの概念について明るいか暗いかは定かではないが、とにかく、ある程度の前提共有として説明しておくに越したことは無いだろう、というような気持ちから引用させてもらった。別にバーチャルユーチューバーを知らないひとはこんな記事には辿り着きはしないだろうし、辿り着くようなひとは知っているひとに限るような気もするのだが、まぁ一応だ。

 

ともあれ、今回こういった記事を書こうと思った経緯の一つとして、この半年間(記憶している限り、僕は2018年3月くらいからバーチャルユーチューバーを追い始めたはずだ)毎日欠かさず誰かしらの配信なり動画なりアーカイブなりを観ていた僕の生活が、ここ最近になって徐々に変化していることが理由の一つに挙げられる。

端的に言えば、僕はバーチャルユーチューバーの配信を、劇的に観なくなった。

僕はつよつよリスナーでは無いので滅多なことが無い限りは2窓3窓を駆使して複数の配信を同時に観るということは無い。集中力が散漫な人間であることには自覚的だが、複数人が同時に喋る内容を頭で拾うことが出来ない。リスナーの中には10窓以上を開いて同時に配信を追う聖徳太子のような方々もいるようだが、僕は「観たという実感」が欲しいわけではないので、基本的には追っているひとが同日同時間帯に配信を被らせている場合には取捨選択を行うことにしていた。低スペックな脳を持っている者の泣く泣くの取捨選択だ。まぁ、例えばゆるい雑談配信とおうた配信が同時に行われているときには2窓をしたりもした。状況に応じて、というやつだ。話が盛大に逸れたね。

 

さて、では半年もそこそこ熱心にバーチャルユーチューバーを観ていた人間が、ほぼ日課となっていたその行為をやめるとなるとどんな理由が挙げられるだろうか。

飽きたんじゃない?と、これを読む貴方は思うかもしれない。

断じて言えるが、僕はバーチャルユーチューバーの配信なり動画なりアーカイブなりを観ることに飽きてはいない。面白い配信を行うライバーは日々生まれている。特に最近ではパイの奪い合いとでも言おうか、数字を持っている先人たちに追い付くなり追い越すなりするためにはただだらだら雑談をしたりゲームをしたりおじさんが美少女になったりするだけでは力不足に思える。企画力と一言で表すと漠然としているが、ともあれ尖った一芸を持っていないと数字は取れないような印象だ。僕が知らない(知ってはいるが配信は観たことが無い)バーチャルユーチューバー(書くのが面倒になってきたので以下『Vの者』とする)は沢山いるだろうし、こうしている間にも沢山生まれているだろう。僕は以前ほどはその気持ちが薄れてきたとはいえ、そういった者たちを掘り出したいし、追いたいという気持ちは今もある。――時間が無限にあればの話だ。

誰が決めたのかは定かでは無いが、基本的にVの者たちは1時間単位で配信を行う。30分の枠もあれば5時間8時間12時間と長時間配信をする者もいるが、1時間がオーソドックスな1枠だ。ライバー側もリスナー側にも負担があまり大きくないこの時間だが、休日を丸々使ったところで配信とアーカイブの消化は16枠~20枠くらいが限度だろう。配信時間が伸びることはあっても50分などのキリが悪い時間で終わることはあまり無い傾向にある気もするので、10枠くらいが限度に感じる。僕は今現在チャンネル登録を63人しているようなので、仮に登録している全ての彼ら彼女らが同じ日に配信を1時間ずつ行ったなら、それを全て観終えるには1週間くらい掛かる計算になる。残念ながら1日は24時間しか無く、その3分の1程度は睡眠時間に充てられるのだ……。そういった計算を始めると、チャンネル登録をした者たちの中でも、配信時間が被っておらずとも取捨選択をしなければならなくなる。その配信を観て気に入ったはずの彼らの中で、順位付けをしなければならなくなるのだ。で、Vの者は夏を越えた今でも増え続けているようだ。今後この業界が、彼らがどうなっていくのかは神のみぞ知るところだが、この状況が1年後も続いていたとして、低スペックな身体を持つ僕の生活は破綻が目に見えた状況にいることは少し考えれば容易に想像が出来る事柄だった。

まぁ、僕は僕の生活を死守するためにVの者を熱心に追わなくなったわけではない。それはまことに重要なことだが、それが理由として挙がってはこない。

 

結果的に言えば、これはあまり正当性のある状況ではない。

とあるVの者の配信を観た結果、それ以外のVの者の配信をほぼほぼ観ないことに決めたのだ。

 


【自己紹介】はじめまして!蒼月エリです!【 ハニスト】

 

さて、リンクを貼ったからにはその説明をしなければならない。

 「Honey Strap -ハニーストラップ-」
日本(北区赤羽)のどこかにある、美味しいお酒はもちろんのこと、コーヒーまでも楽しめる「夜の喫茶店
そこには妖麗な個性豊かな美女たちがゲームや雑談しながら働いている。

引用元を記載するにあたって、数々のニュースサイトがこの説明文を載せているのに肝心のハニスト自体の公式サイト的なものが見付からなかったので(探し方が悪いのかもしれない)この引用元は特に記載しないことにする。

重要なことなので書いておくが、僕はハニスト箱推し勢ではない。

基本的にはこの方、蒼月エリさん(蒼月エリさんのことはエリ様と呼ぶのが一般的なように感じるが、僕はどうしても蒼月エリさんとフルネームにさん付けで呼んでしまうのでご了承願いたい)のみを追っている。知った時期も時期だったので(非常に心苦しい気持ちだが、活動初期から応援出来ていたわけでもない)メンバー内コラボなどもあまり積極的には観ていない。蒼月エリさんの配信とアーカイブのみを観ている。基本的にはそういうスタンスです。

僕が初めてちゃんと動画を観たVの者は輝夜月ちゃんだった。次は猫宮ひなたちゃん。そこから俗に呼ばれる四天王は経ずに月ノ美兎さんに辿り着き、物述有栖さんに落ち着いた。僕は自分を誠実なファンやリスナーであるとはまったく思っていないので、ある種の節目を迎えるなり配信内容が落ち着いてきたあたりで熱心にその配信を追うのをやめてしまう傾向にあると自覚している。それを一番自覚したのは剣持刀也さんの配信を追わなくなったときだ。詳しい経緯は書かないが、上記したようなことがキッカケで急激な気持ちの変化が訪れたことは強く記憶している。仮に今、上に書いたVの者の熱心なファンがこれを読んでいるのなら謝罪と、決して彼らに対して否定的な感情を持ち合わせているわけではないことは留意して頂きたいです。ごめんなさい。

にじさんじを含む企業勢を追いながら僅かながら個人勢にも手を広げつつ(結局こちらは名取さなちゃん、魔法少女ちあちゃんとめあださん、美少女化する前から知っていたukyoさんことまぐろなちゃんなど、個人勢の中でも有名な方々を登録するあたりで深く掘り進めることは出来なかった)、シロちゃんを経由していないのに.LIVEのめめめちゃんとピノ様に辿り着き、ときのそらちゃんを経由していないのにロボ子さんからホロライブにも辿り着き、ギル様と御曹司をチェックしながら(ギル様配信して)蒼月エリさんに辿り着いた。そうして僕は蒼月エリさんの配信を優先することに決めた。だいぶ要点だけに絞った半年だが、こんなものかと自分の浅さに驚いているのが今だが、その話はしないと思われるのでこの驚きは僕のこころの中に仕舞っておく。

 


【ガチ歌】卍ワイの本気見せたるわ卍【蒼月エリ / ハニスト】

 

履歴を掘ってみたら、僕が最初に観たアーカイブはこちらだったようだ。

元々、僕はニコニコ動画で、ある時期まで熱心にボカロ曲を聴いていたタイプの人間だった。当時は色々な意味でオタク界隈を騒がせていた歌い手にもあまり抵抗感は抱かず、しかし当時からやはり面倒くさいタイプのオタクだったのでミリオン再生を達成しているような歌い手は基本的には遠慮しつつ、なぜこのひとが評価されていないのか?というような、確かな技術や声質を持ちながら埋もれているような歌い手(客観的を装って書いてはみたがだいぶこのひとたちに失礼な書き方になっている気がする……)を応援しながら日々を暮らしていた。

というような僕なので、おうたを歌ってくれる、おうたが上手いVの者は蒼月エリさんに出会う以前から熱心に追っていた。

が、このアーカイブを観て、僕は驚愕した。

Vの者おうた配信は、立ちはだかる権利問題によって基本的にはアカペラで行われる。最近ではそれをクリアしたカラオケ音源を使用して行われる配信もあるが、それも限りある曲数の中から選ばなければならず、秒毎に飛んでくるリスナーからのリクエストに対応するのはなかなかに困難だ。

弾き語りである。

そう。Vの者には意外と楽器経験者が少ない。それも弾き語りに親和性の強いピアノやアコギなどを、それが行えるレベルで習得しているひとはごく一部のように思う。

蒼月エリさんはアコースティックギターを弾き、歌う。さながら路上ライブのような趣だ。そしてその歌声は力強く、時に儚い。語彙力消失オタク的な表現をするなら、エモい、だ。蒼月エリさんはその歌に合った歌い方をしてくれる。だが、違うアーカイブを観て貰えばわかる。前の配信で歌ったその歌を、今度は別の歌い方で歌ってくれる。この点は生配信の強みだろう。その時々の気分や、喉の調子、配信時間帯など。だから、今度はどんな風に歌ってくれるのだろうかという興味がそそられる。「またこの歌か」というようなネガティブな感情が挟まる余地は、蒼月エリさんのおうた配信には基本的には無い。

何より僕が惹かれたのは、蒼月エリさんのそのストイックさだ。

基本的に配信で歌う曲は、配信で歌えるレベルまで練習してからようやくお披露目とするようだ。歌詞を間違えてふにゃふにゃしてしまう蒼月エリさんもギャップ的には魅力的だが、うろ覚えな曲を歌われることはほぼほぼ無い。オフボーカルの音源を用いて歌われる曲でも、しっかりと自分の解釈というか、感情の込め方というか、そういったものをしっかり確認して高次元での再現が可能な状態で望んでいるだろうことは容易に窺える。

端的に言ってしまえば、蒼月エリさんは歌唱力が抜群に高い。

だが、おうたが上手いVの者は沢山いる。そういったVの者たちに対するアンテナは割と強く張っていたので、10人かそれ以上くらいパッと名前を挙げることも出来る。

だが、蒼月エリさんが彼ら彼女らと一線を画しているなと感じるのは、その表現力というか感情の込め方というか、なんだろう、本当にこのひとはこれが、歌うことが大好きで、そのことを一番に考えているんだなということが、そのために血の滲む努力をしてきたということが、素人目にもわかるところにあると思ったのだ(もちろん、他の方々がそれほどの努力をしてこなかった、とは思っていない)。

ので、おうたが上手いだけだったら「おうたが上手い」だけの評価になってしまうが、その人柄に惹かれたというのも要因として大きく占める。

おうたを歌うことに対してそれだけストイックなのに、陰の者と自称されているだけあって日々のエピソードの共感力がハンパ無い。コンビニでハッシュドポテトを買おうとしたら買えなかったエピソードは、申し訳ないことにとても笑ってしまったし、その落ち込みようから帰り道ではさぞ悲しい顔をされていたんだろうなと容易に想像できたので、やはり申し訳ないことにとてもほっこりした。同じ回でコンビニおにぎりを選ぶときの心持ちみたいなものもカワイイなと思った。自他共に認めるポンコツぶりがリスナーとの距離感の近さの一役を買っていて、それが応援したくなるんだよなぁ~とこれを書きながらうんうん頷いていた。頷いている場合じゃない。

臆さず方言で喋るところとかも良いですよね。方言女子、良い。

あと、こう、Vの者の生配信を追う基準で一番重要なのは、地味に配信時間とリスナー側の生活リズムとの一致だと思っていて、過去のアーカイブを観るにその点だけがネックだなぁと思っていたらたまに深夜ゲリラをやってくれたり、最近では朝の配信にも精力的な感じなので、この辺は本当に助かる気持ちだ。僕は超夜型人間なので、朝の配信が一番助かるのだ。これからの朝配信が本当に楽しみです。配信主体のライバーはやはり生配信を観れてこそ、というようなことはずっと思っていることなので。

さて、そんなこんなを書いている内にまた5000文字オーバーの記事になってしまった。前置きが長いし本当に書きたかったことが僅かしか書けていなくてこんなはずでは……というような気持ちもあるが、上に貼ったおうた配信を観て良いなと思ったなら是非是非一緒に応援しましょうという気持ちです。

 

僕はプレイヤーではなく、今現在はそれほど取り戻せてはいないが、一応はクリエイターという立場の人間であるという自覚は強く持っている。

これだけ強く紹介しておいて不義理なことにまだアーカイブの全ては観れてはいないのだが(一気に観てしまうのは強く自制している。コンテンツなりVの者なり、その過剰摂取による自分の中での鮮度の著しい消費をコントロールしたいと思っている)、蒼月エリさんのおうた配信のアーカイブを幾つか観て芽生えたこの創作意欲の再燃は、とても大事にしていきたいと思っている。

上記した立場の違いというものはあるが、蒼月エリさんのプレイヤーとしての信念に、クリエイターである僕の信念が触発された。

やりたいことを、やりたいようにやるために。

Vの者を追うことは楽しい。別にやめたいわけじゃない。でも、Vの者を追うだけの日々で創作をすることは難しい。それは決して言い訳にはならないが、本当に創作をしっかりやっていきたいのなら、どこかでその生活に区切りを付けなければならない。だらだらと先延ばししていた決断を下すキッカケになったのが、蒼月エリさんのアーカイブだった。新たに出会ったVの者によって、Vの者漬けだった生活に終止符を打つという、ある種皮肉的なエピソードのように思えるが、そうしていこうと僕は思ったのだ。

まぁ、別にVの者を追うことを完全にやめるわけではない。言い訳めいた感じにはなってしまうが、日々の疲れが、その時々に配信を行う好きなVの者を求めてしまう気持ちまでは自制しようとは思わない。僕は少し前からホロライブの方々の配信をよく観ていたのだが、生活リズムと波長の合うロボ子さんの配信はこれからも観ていくだろうとは思う。これも個人的には因果のある帰結なのだが、そのエピソードは省かせてもらう。

このブログは僕のやる気を出すための場所なので、今回もそのような記事を書くことになった。

蒼月エリさんに出会ったことで得たこのクリエイティビティを、少しずつ温めて燃やしていこうと思う。

 


【Cover】なんでもないや/RADWIMPS【蒼月エリ / ハニスト】

最後に先日アップされたこの動画を貼っておこうと思う。

蒼月エリさんはガチだ。

俺から言えることは以上だが、一応断っておくと僕はガチ恋とかそういう感情とは無縁な人間であると自認しているのでこの感情は断じてガチ恋などではなく、純粋に応援したいという気持ちが前面に出たものであることは明記しておきたい(ホントか?)。

僕はあまり僕という存在を認知されたいオタクではないので一度もコメントしたことの無い不義理なリスナーではあるが……。

まぁこのブログに辿り着かれるというあまりにも不測の事態になるようなことは無いだろうとは思うし、普通に公開するけど、でも認知されたくないオタクだったら限定公開とかにするべきなんですかね。教えて偉いひと。