Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/15(月)の気持ち

今日は久しぶりに友人と小説の話をした。小説をまた書き始めようと思ってから初めて、小説に関して有意義な話が出来たと実感した。僕が温めてるネタについてまだまだ掘り下げが出来ていない状態なので、それについて突っ込んだことが相談出来なかったことだけが無念という感じだったが、別にいつでも話せる友人なのでまた相談に乗って貰おうと自分勝手にも思っている。

何にせよネタを温めてカタチにしていかなければ相談に乗ってもらうことも出来ないので、そうしていこうと思っている。得た創作意欲を無駄にしないためにも頭を働かせていかなきゃならないよな。もちろん話を聞いてもらうだけなのは不釣り合いなので、友人の相談にも全力で応えていきたいとは思っているが、教養が無いので的を射たことを言えるかが心配だ。その友人に限らず、友人たちの話をどう聞けば良いか、というのは都度考えることだが、肩肘張らずに背中を押してあげる、というだけでも違うものなのかもしれないとも思う。難しい話だし、答えが出ない話だとも思う。もっと考えていきたい。(持ちつ持たれつ、という価値観が過ぎているような自覚は多少はある。やってもらったことは必ず同等以上のことで返さなければならない、と、半ば義務的以上の感覚で思ってしまっているようにも感じるが、この価値観が既に肩肘張りすぎているもののようにも感じる。たぶん、自分が誰かにとって必要な存在にはなり得ない、という強すぎる劣等感がまず根底にある気がしている。もちろんそれは一側面的なものでしかないので、必ずしもそういった価値観のみで行動しているわけでは無いのだろうが……。人間は矛盾を容易に孕めるので、平気な顔で二枚舌しながらそれでも自分は正しいと思って生きていける愉快な生き物であるからして……、全然関係無い方向に話が逸れだしたのでこの話はこの辺にしておこうと思う)

 

先日、労働をしている最中に革命的な閃きを得た。今までずっと書きたいものの外枠は揃い始めてるけど肝心の核が見当たらない状況が続いていて、その核を埋める手助けになる閃きだったのだが、友人に相談しようと思って言葉にした途端に(え、思い付いたときは革命的だと思ったけどこれ、まだまだ全然足りなくない!?)と気付いてしまったので、革命的という言葉を気分で使うのは良くないということを学んだ。まぁオタク特有の誇大表現はともかく、方向性が定まったことは事実なのだが、「こういう話にしたいんスわぁ~」と伝えただけで伝えられるものがあるなら苦労はしないので、その方向性に適した肉付けをしていく必要を切に感じた。まぁ、ずっと悩んでいたことなのだ。それの一部とはいえ答えを導き出せたのは純粋に先に進むための、大小関わらず確かな一歩に違いないので、別に卑屈になる必要はないとは思っているが。ともあれ、言葉(音にせよ文字にせよ)にすることで気付くことは多い。大概僕は、脳の中で保管しているその言葉未満の情報が、言葉として出力することで存外情報量を持っていなくて驚くことが多い。言葉にする、ということは、誰かしらにそれを伝える必要があってそうしているということじゃんね。ということは、それが誰かに伝える情報として足りないということは、転じてみれば自分の中でその情報がその言葉以上の意味合いを持っているということもあるのかもしれない。希望的観測だが。さっき(全然足りなくない!?)とかゆうてたやろが。うん。

あまり積極的に友人知人に自分のアイデアをプレゼンするという機会に恵まれていたわけではないので(単純に苦手意識を持っているだけかもしれないが)、その辺りの技術がまだまだ稚拙というのはあるだろう。誰かに伝えられる情報まで昇華出来れば、それは情報として確かな意義を持っているように感じる。もちろんそれが面白いか、つまらないか、という判断基準は存在するが、それはアイデアそのものに依存した話になるので今は置いておく。ともあれ、他者が判断出来るまで固められた情報には、何にせよ意図が込められているはずだと思っている。それはそれで一つの判断基準になるはずだ。要するに、自分の中で作品として出力出来る状態になっているかどうか、ということじゃないだろうか。

先日、SF作家の大御所の先生たちが「冷静に考えて書けなくなる場面でもないのに、次の一文が出てこないという現象が度々起きる」という話をされていた。なるほどこれは僕にも心当たりがあるぞ、と思った。まぁそれはだいぶミクロな話ではあるのだが、前述した僕の判断基準に通じるものがあるのかもしれないと、今ふとそれを思い出して思ったのだ。僕は別段妄想ぢからに得意意識がある書き手では無いとは思っているが、まぁ僕の話は置いておくとしても、「冷静に考えて書けなくなる場面ではない場面」というのは、おおよそどこかしら、それ以前や今書いているその場面に欠けているものがある状態なのではないかということは、大御所の先生が指摘されていたことだ。その通りだと、僕も心中で同意した。一文でそうなのだから、大枠ならもっと大袈裟な話になるはずだとも思った。こう、確かにスイッチみたいなものが存在する気がしている。「これは書けない」時と、「これは書ける」時が。それは客観的に見てあまり納得を得られる状況ではないのだが、自分の中でそうとしか言えない(「これは書ける」、あるいは「これは書けない」)状態は、他の書き手の方にも同意してもらえる状態なのではないかと勝手に思っている。どれだけ下準備するかは人それぞれだし、それがいつ訪れるかも大概定かでは無いが、そこを目標にして考えていくべきだろうな、とは、まぁここまで言葉を尽くしてまで再確認することではないのかもしれないが、そう思っている。なんか大して広げようと思っていたわけではない話題なのに無駄に広げてしまって「そっか」という感じだが、メタ的な視点で見て頂ければ幸いだ。つまり、これを言葉にして再確認して、他者に対して説明出来る規模感で言葉にすることで自分に言い聞かせようという魂胆だ。本当だろうか……。

 

本題。僕の思考基盤が消費者目線になりすぎている傾向について。

最近割と本を読んでいる。読んだ端から新しい本を買ってくるので積んでる本が一向に減らないのだが、それは置いておくとして。

僕は読書した本を管理出来るサイトを使っているので読書記録というか、まぁそういうものを付けているのだが、どうやら9/6から読書を再開して、今日10/15(日付が変わっているので10/16だが、寝るまでが“今日”だと僕は信じている)までに11冊の小説を読んだらしいということをそのサイトから知ることが出来る。今は12冊目の本を読んでいる。幸いにも良書ばかり引き当てていて、またここで紹介出来ればと思っているが、需要があるのかどうか定かではないので「紹介」という名目でやるかどうかはわからない。よほどの本では無い限り細部までは記憶出来ないにしても印象くらいは覚えているので備忘録を付ける必要性みたいなものも考えてしまうわけだが、まぁ鮮度が高い状態で感想を記録しておく意義みたいなものは普通にありそうだし、無駄では無さそうだ。まぁ、それはそれとして、大体3~5日に1冊くらいのペースで本を読んで、それが良質な読書体験だったと思えば思うほど、自分の考え方が普通の消費者じみてきているな……という実感が増してきているように感じる。別に普通に僕は普通の何者でもない消費者だし、こう、別に普通に面白い小説は面白い小説として楽しみたいわけじゃないですか。面白くなかった小説に対して露悪的である必要は無いとは思うが、別に好意的である必要も無いと思っているので、「これこれこういうところがつまらなかったよ」と、心中で分析したりはするかもしれないし、それは面白い小説に対しても変わらない(面白い小説だからといって手放しで100%褒められる作品も大抵希少だ)が、その体験に対してあまり貪欲ではなくなっているような気がするのだよな。

例えば、面白い小説というのは、小説を書くための技法書を読むより何百倍も実践的な面白い小説を書くための技法が詰め込まれているとは思っている。それを読み取れるか読み取れないか、読解力というそもそもの話はあるし、その小説を面白くするために使われた技術たちがその他の小説を面白くするための応用力を持っているか、という問題もあるが、何をどう組み合わせて組み立てれば自分を楽しませてくれるに足るカタチとして出力されるのか、ということはそう難儀せずとも読み取れるのではないかとは思う。このヒロインが好き、とか、クライマックスが激アツ、とか。それも充分に有用な情報だ。だが、だからといって面白い小説を技法書や教科書のように消費するのは余りにも勿体ない。それは他では得難い、唯一性の高い読書体験になり得るかもしれない。だから別に面白い小説=教科書として消費しようとは思っていない。

かといって、それがどうしてこうも僕の感情を揺さぶるのか、その構造について思いを馳せないわけでもない。何がどう良いと感じたのか言語化することは大切だ。語彙力よわよわ限界オタクたちは往々にして「好き……」「良い……」と鳴いてみせるが、極力そうならないようにはしたいとは思っている。……まぁ、なるのだが。自分なりに飲み込んで言語化することを試みようとは思っているのだが、それが最近どこかこう、自分の外に対して作用しようとする言葉しか出てこないような気がしているのだよな。抽象的な書き方になってしまって心苦しいのだが、なんだろう、うん。自分のために労しようという気概があまり感じられないことしか書けなくなっている気がしている。良くない表現をするならば、批評家になろうとしている、というようなところだろうか。別に批評家の方たちを貶めるようなことを書くつもりはないが。まぁ、批評家の先生たちに対する個人的な思いについても割愛させて頂くが。

人間が外に向ける感情というのは必ずしも一方向的なものではないとは思っている。かといって100%を上限にしたパーセンテージの中で分割して共存しているものでも無いとは思っている。好きが100%で嫌いが100%みたいな作品は節目節目で現れる。50%50%じゃねぇの?って思うかもしれないけど、この機微を正確に言語化して伝えることはとても難しい。例えば僕が数年前にプレイしたAUGUSTというブランドの『穢翼のユースティア』というえっちなゲームがあるのだが、これに関しては本当にその機微を正確に伝えることが難しい。シナリオ全体のマクロの感想と、章ごと、あるいは1シーンあたりのミクロの感想、他には例えばノベルゲームなら構成する要素として前述したシナリオだったり、他にはCGだったり演出だったり声優さんの演技だったりもうとても一括りには出来ないほどの沢山の要素があって、それを強引に1個の感想として出力しようとするからおかしなことになる、というのはたぶんその通りなのだが、それは別に他者に対して説明する義務があることではないのだよな、ということは最近薄々思っている。自分がその作品のプレゼンターとしての役割を演じて振る舞う必要性はどこにも無いのだ。それがより多くの他者に対して働きかけられる立場にいるのならそのちからを存分に振るうべきなのかもしれないが、現状僕に発信力というものは備わっていない。好きなVの者を他者に薦めたいと思っても、好きだと思った本を薦めたいと思っても、十中八九僕のプレゼンは他者には届かない。別にこれは卑屈な感情でそう言っているわけではなく、単純な事実として認識していることを事実として言っているだけなので、ここに僕の感情が挟まる余地は無い。だとしたらそれをやる必要性は、やはり皆無なのだ。それよりも自分にだけわかる言葉で記述して、それを自分のアイデアの源泉に放り投げることの方がよほど大事なのだろう。そういうことを言語化したかった。ので、割と今は満足している。なんだか上記したようなことを連ねて書いてしまった感もあるが、まぁそれは愛嬌だ。愛嬌か?

なんでもかんでも言語化しておきたいという気持ちはある。一応僕はそれなりに描写にちからを入れて小説を書こうとは思っていて、それが言語化に向いてないものほど「言語化して引き摺り出してやろう」という熱が湧いてくるヘンな性分を抱えてはいるのだが、それの危険性というのもまぁ無視は出来ないよね。言語化するということは、その曖昧な思考に確固たるカタチを与えてやるということだ。例えば熱々の味噌汁ってあるじゃないですか。あれってお碗の中で対流していて、溶けたお味噌が刻々とカタチを変えてそれをボーッと見ているだけでなんか和むみたいな危うい精神状態のときって無きにしも非ずじゃないですか。いや、知らんけど。まぁ、そういうお味噌が対流して刻々と姿形を変える混沌とした……まではいかないかもしれないが、そういう状態が敢えて良い、みたいなものはあるとは思うんだよな。その刻々とカタチを変えるお味噌汁を瞬間冷凍させて個体にすることで失われる情緒というものは確かにあるのだとは思う。例えとして適切かどうかはわからないけど、そんなようなことを今思った。自分の中で「これしか答えが無い」みたいな回答の試みは、前述した様々な個別の要素が絡み合って複合的なものとして仕上がってる作品を無理矢理1つの感想として出力して点数を付ける、みたいな、ある種危うい落とし込み方になってしまうことにも繋がる気がしている。何が正解かはわからない。わからないけど、そうだと自覚しておくことは臨機応変さに繋がる気はしている。好きだけど嫌い、嫌いだけど好き、みたいな感想の書き方は間違ってはいないのだろう、ということでここは一つ。

 

 

また6000字近くも書いてしまった。僕も大概学ばない人間なのでここにたわ言を書き込む時間で他に出来ることがあっただろう、ということには気付いてはいるのだが、まぁ思考整理のために必要な文字数って大体これくらいなんだろうなぁ、ということにも今更ながら思い至っている。

読み甲斐の無い記事ばかり書いて申し訳ない。申し訳ないが、ここは僕の日記帳なので好きに使わせてくれ。それでもし読んでいる誰かがいたとして、その誰かが楽しんでくれたら幸いだ。まぁ、正直そこまでは望んではいない。そういう混沌とした感情もまた大事だという話でした。良いオチになったね。