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Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

『境界の彼方』を観ました。

 

 

 

 

時折、強烈な「ちから」を持った作品に出会うことがあります。

 

僕こと八神きみどりは、それほど沢山のアニメを観てはいません。小説も映画もマンガも、そしてアニメも。どれも自信を持って語れるほどの言葉も持ちません。消費者という立場にせよ、多くの作品を観たり読んだりしていれば、それはそれでプロフェッショナルと呼べる者になれるのだろうと、僕は考えています。作品を多く摂取することは誇るようなことではないと、言うひともいます。量より質、という考え方には納得出来るところはあります。凡百な作品を無数に摂取したところで、得られる読書/映像体験は自分を満足させてはくれないだろう、という予測は立ちますし、経験則として理解出来るところでもあります。ともあれ、多くを知ることで自分の中には確固足る価値観が生まれるはずですし、語る言葉も生まれるはずです。それは時として頭の固さに繋がることもあるでしょうが、主観として語れる迷い無い言葉には強さがあります。そういう価値観や言葉を得たいという欲求は、少なからず僕の中にあるのではないかと思っています。

さて、『境界の彼方』は、2013年の秋アニメです。つまり3年前のアニメなわけですが、このアニメを今更観ようと思ったのには、深い理由はありません。

僕は『dアニメストア』というアニメ配信サービスを利用しているのですが、先日その新着ラインナップの中に『境界の彼方』が追加されていたからです。

あらかじめ明言しておくと、僕は京都アニメーションの作るアニメが好きです。とは言っても、僕が京都アニメーションというアニメ制作会社の名前を知ったのは『AIR』からです。『涼宮ハルヒの憂鬱』であったり、今期絶賛放送中の『響け!ユーフォニアム2』であったり、好きな作品は沢山ありますが、『フルメタルパニック』であったり『らき☆すた』だったり、『Kanon』『CLANNAD』あたりは観ていませんので、あまり熱心な視聴者ではない自覚はあります。

そんなこんなですので、『境界の彼方』が地上波で放送されていた時も、視聴環境が無かったという理由はありつつも、注目さえしていませんでした。ちょうどKAエスマ文庫発の作品がアニメ化し始めた頃の折ですかね。『中二病でも恋がしたい!』の1期は放送中も追っていましたが、僕は伝奇モノ(公式はダークファンタジーというジャンル付けをしているのですね)というジャンルに興味をそそられないたちですので、当然のようにスルーし、話題も6話終盤以外は僕まで届いてこなかったので、今の今まで作品の存在さえ忘れていたというのがこの作品を観るまでの、僕の、『境界の彼方』という作品に対する認識(というと違うかもしれませんね)でした。

 

結論から言ってしまえば、僕はこの作品が大好きになりました。

本編12話を2日で分けて視聴し(本音を言えば1日で全部観終えたかったのですが、生活がそれを許してはくれませんでした……)、その後Amazonビデオのレンタルで劇場版である『過去編』と『未来編』も2日に分けて観ました。『未来編』は、この記事を書いている直前に観終えました。その熱気が冷めない内に言葉にしておこうと思い、今この記事を書いています。

時折、強烈な「ちから」を持った作品に出会うことがあります。

冒頭に書いた言葉ですが、僕は『境界の彼方』という作品から、その「ちから」を強く感じました。

まず、これは明言しておかなければならないことですが、『境界の彼方』は所謂「完璧な作品」ではありません。

この作品には致命的な欠陥や粗が沢山あります。僕が抱いた違和感は、他の視聴者も同じく抱くであろうという予想も付きます。

例を挙げるならば、「妖夢」という存在に対する視聴者への説明が圧倒的に足りません。

妖夢」が本来どのような存在なのか、それが人間に憑依した結果どういう結末を迎えるのか(これは登場人物の言葉で語られるものではなく、実際にそれがどのように起こり、どのような作用をもたらしてどのようにその人間に末路を迎えさせるのか、その後、末路を迎えた人間と「妖夢」はどのように変化するのか{憑依した「妖夢」とは別に、死んだ人間も別の「妖夢」になる? 憑依した「妖夢」が死んだ人間を取り込み、その人間の怨嗟等を吸収して、より強力な「妖夢」になる? そもそも憑依する目的は? 強力な「妖夢」になることが目的だとして、それを行う果てにあるものは? 世界を滅ぼすという目的だとして、それを達成した暁に「妖夢」たちが得るものとは?})。

妖夢」を狩ることで街や人々を守り、自らの生計も立てる「異界士」たち。彼らが使う異能の力の源は? どういった理由で作用するものなのか? 血筋? 素質? 一般人視点での情報が無いので、「異界士」たちが現代日本でどのような立ち位置にいて、一般人からどのように認識/非認識されているのかも不明。日本円で取引される「妖夢石」の存在。金を払ってまで得るのには深い理由があるはずだし、取引しているのが「妖夢」であるのも不穏な憶測を招くが、それに疑問を抱かない作中「異界士」たち。そんな「妖夢」に渡った「妖夢石」の行き先とは?

と、僕の拙い頭で考えたところで、根幹設定に対する疑問は尽きませんし、まだまだ突き詰めようとすれば出てくることでしょう。

境界の彼方」という、作中最強の「妖夢」については、その多くが語られません。なぜその「妖夢」が主人公である神原秋人の体内に宿っているのかも、同じく。その「境界の彼方」を「呪われた血の一族」の末裔であるヒロイン、栗山未来だけが倒せる理由も。理由を知る登場人物も、その理由を言葉にし、説明しません。

ですが、それらについて正しく説明すること、されることが、この作品をより強い「ちから」を持つ作品にすることかと問われれば、そうではないと僕は考えます。

 

境界の彼方』は「まったく同じ境遇の、正反対の位置にいる男女が、過去から繋がる結ばれない/結ばれてはならない/戦わなければならない宿命を背負ったその二人が、その宿命を断ち切り、どちらかが失わなければならない現状を否定し、自らの真の想いや、自らの望む幸せと向き合い、二人手を取り歩んでゆく未来を勝ち取る物語」です。

 

語られない設定や登場人物たちの過去は、それを補強しません。神原秋人と栗山未来の関係性をより強いものにもしません。それは1話~4話までの「虚ろな影編」から匂わされていました。『境界の彼方』には多くの登場人物がいますが、誰と誰にスポットライトが強く当たっていたかを考えればそれは明白です。神原秋人と栗山未来です。この二人の関係の変化を中心に描くこの作品において、設定や他の登場人物は、この二人の物語を最大限魅力的に描くために用意されたものたちであるはずです。であるならば、それらにより強くスポットライトを当てる必要はまったくありません。

……と、言い切ることが出来れば良いのですが、そうするためには「境界の彼方編」での情報不足は致命的です。尺が圧倒的に足りなかった、と、僕は考えています。「虚ろな影編」である4話までのエピソードはとても丁寧に描かれていて、「半妖」である秋人が「妖夢化」し、栗山未来によって我に返るまでの作劇に、情報不足という枷はありながらも、ほとんど隙が無い完璧に近い展開運びだったと僕は感じました。ですが、そこから「境界の彼方編」に繋ぐまでの5話~7話から綻びが出始めました。

具体的に尺が足りないと感じたのは伊波桜と栗山未来が和解する7話『曇色』です。

伊波桜は、栗山未来が背負う重苦しい過去の象徴です。「虚ろな影」は、栗山未来がその手で殺した伊波唯を幻影として出現させました。栗山未来はそれを払うことで、「虚ろな影」に憑依された伊波唯を殺した過去を、ある程度受け入れる(納得するのとも、払拭するのとも違う、現状を正常に認識する行為です)ことが出来ました(5話で栗山未来が「妖夢」を躊躇無く倒せるようになった描写がありますが、それを表す象徴的なシーンでしたね)。

ですが、栗山未来が真に向き合わなければならないのは、姉である伊波唯を失い、復讐に駆られる伊波桜です。

「虚ろな影」は確かに、伊波唯に憑依し、「異界士」である栗山未来の討伐対象となる直接的な原因を作った「妖夢」です。ですが「妖夢」に人間が理解出来る意思や目的は、作中では一度も示されてはいません。同様に、その「妖夢」が持つ能力によって現れた伊波唯の幻影にも、栗山未来の心の弱さを突き、動揺させる以外の意図や目的は無いと考えられます。であるのならば、それを倒したことで得られるものは、過去への正しい認識で留まるのは妥当です。認識は出来ても、精算は出来ない。栗山未来は自責の念に苛まされていますが、無二の親友を、「妖夢」に取り憑かれていたとはいえ、その手で殺したのなら、抱くそれが尋常なものではないことは想像の範疇です。それが許されるものなのか、精算出来るものなのかは、僕にはわかりません。それがどういうものかを想像することは出来ても、その状況が当事者にとってどれほどの呪縛になるのかを感覚的に理解することは難しいです。ただ、それを許すことが出来、精算出来る存在がいるとしたら、それは肉親である姉を殺された、伊波桜以外には有り得ないとは考えられます。

ならば、それを7話の決闘と、それに付随するやり取りだけで許せてしまった伊波桜の心情描写は、まったくと言って良いほど足りません。それまでの話数で、伊波桜が栗山未来に向けていた感情を考えれば、あれで許せてしまうのはあまりも性急です。

以降の伊波桜は、栗山未来と神原秋人を繋ぐメッセンジャーという役割を持たされた人物であると感じました。二人の仲をより繋ぐ、栗山未来寄りの立ち位置です。ですが、作劇上ではそれほど重要な役割を持たされてはいません(武器を失い、戦闘に参加出来なくなったほとんど普通の人間である伊波桜が、「異界士」や「半妖」である主要人物の輪からやや外れた位置に落ち着くのは必然です)。

となると、やはり、栗山未来と和解し、彼女が過去の精算を始められるキッカケを作るために用意された人物であることは明白なわけです。

6話『ショッキングピンク』は当時も話題になりましたが、所謂ギャグ回です。ですがあの回は本当に良く出来ていて、京都アニメーション特有の尋常じゃなく凝ったダンス描写やテンドンを駆使した展開に目が行きがちですが、栗山未来が神原秋人を中心に構成するコミュニティに馴染むシークエンスが、非常にスムーズに描かれています。

丁寧にも丁寧すぎるくらい慎重に描かれていた、栗山未来とそれ以外の人物の関係性の構築が一気におざなりになってしまった7話『曇色』は、視聴者の没入感を削いでしまう強烈な痛手となったであろうことは、実感として僕の中に強く残っています。

もう一つ決定的な綻びは、神原秋人から抜けた「境界の彼方」との最終決戦から、12話『灰色の世界』終劇まで続く一連です。

視覚的な情報のみで、決定的な情報を欠いたまま進められる戦闘や、展開の数々。何が起こっているのか、視聴者がよくわからないままに映像は続いてゆきます。訳知り顔で何も語らない大人たち。「境界の彼方」が舞台である長月市直上に現れた理由。消えたはずの栗山未来がそこで孤独に戦う理由。結局、藤間弥勒が企んでいたこととは。「境界の彼方」へと吸い寄せられる「妖夢」たち。「異界士」としての力が弱まる名瀬博臣。クライマックスにて起きる、栗山未来と神原秋人のやり取り以外の全て。栗山未来が、神原秋人の前へと戻ってきた理由。

それらは何も理由が語られません。これは致命的です。語られない設定は物語を補強しない、とは前述した僕の言葉ですが、これはそれ以前の問題です。

ですが、それらに納得出来る理由を見つけることは可能です。

それは「文脈」です。

物語終盤で最後の戦いを起こす必然性は言うまでも無いでしょう。であるならば、それ以前に主人公とヒロインが離れ離れになってしまったのなら、再開する展開が望ましいです。主人公が力を失ってしまっていたのなら、それを僅かでも取り戻す展開が望ましいです。敵が強大であるなら、主人公とヒロインが共に戦う展開が望ましいです。敵が「妖夢」であり、人間の心の弱さに付け入ってくるのなら、それを視覚的にわかりやすく表明する描写を用いるのが望ましいです。幻影が晴れた後に現れるのは、当然無数の「妖夢」たちでしょう。それを全て倒す展開は必然です。神原秋人の体内から「境界の彼方」を排除した栗山未来の方法から考えれば、神原秋人が自己肯定の末に「境界の彼方」を取り戻した後、栗山未来が消えるのは必然です。物語の方向性を考えれば、栗山未来と離別したまま終劇するのは望ましくありません。ですので、栗山未来は戻ってきます(劇場版をご覧の方はご存じだとは思いますが、それは代償を伴った、決して幸せとは呼べない終劇ではあるのですが)。

もちろん、これは納得出来る理由ではありません。視聴者の期待を裏切らない展開を用意したとはいえ、その理由が全く示されていないのなら、納得出来る作劇とは呼べないものになってしまうからです。

ですが、映像作品としては、唯一無二の作品に仕上がっていたと僕は感じます。

その唯一無二の映像体験を得ながら、僕が考えていたことは「惜しい。あまりにも惜しすぎる」という、ただ一点です。

最低でも、あと2話あったのなら、と考えます。

7話『曇色』を補強する1話と、11話『黒の世界』と12話『灰色の世界』を補強する1話があれば、『境界の彼方』はとんでもない傑作として語られる作品になったのではと思って止みません。

僕が感じた欠陥や粗については、「もしかしてこいつは『境界の彼方』が嫌いなんじゃないのか?」と思われても仕方が無いくらいあれこれと書きました。

そうでは無いのです。僕はこの作品が秘めたポテンシャルを身を以て体験しました。だから勿体なく思うのです。もちろん、僕が列挙した通りに改善すれば『境界の彼方』が傑作として語られる作品になるとは限りません。僕はアニメの作り方を知らない一視聴者です。脚本も書けません。ただ、思ったことを思ったまま書くだけの、自分勝手な消費者です。そんな人間が挙げた改善点など、実際に現場で活躍する方たちには一笑に付されるものではあるかもしれませんが、そう思ったことを言葉として残そう、自分の中で消化するためのキッカケを作ろうと思ったので、この記事を書きました。

ここ数年で、僕はようやく感想を並列して持つことが、少しばかり出来るようになってきました。

列挙した疑問点などは、実際に視聴中に浮かべたものです。ですが、それと同時に、僕はこの映像体験が得難いものであるとも考えていました。とても良いと、同時に思っていました。それは決して矛盾しません。

理由や納得とは程遠いところで、僕は『境界の彼方』が持つ「ちから」を感じました。

感性を揺さぶられ、琴線に触れました。エモーショナルな映像体験に理由はいりません。「虚ろな影」に蝕まれる神原秋人が、自分を刺すように栗山未来を駆り立てるあのシーンの強さに理由はいりません。自らが消えても神原秋人を救いたいという、「境界の彼方」を殺すためだけに長月市へとやってきた当初の理由を捨ててまで、彼のためだけを考える栗山未来の強い想いに不感症などではいられません。ようやく取り戻したと思った栗山未来が、掴む間も無く消えてしまう展開に説得力などいりません。それらを越えた場所にあるこの作品が、本当に好きだと感じたのです。だからこそ、それをもっと、すんなりと受け入れられる展開として用意して欲しいと思ったのです。余計な疑問を抱く暇も無いくらいに仕上げてほしいと思ったのです。

と、僕が『境界の彼方』を観て感じたことは、以上です。

 

さて、散々フルネームで記述し、愛着の欠片も持っていないような扱いをした栗山未来ちゃんですが、この子がヒロインだったからこそ、僕は『境界の彼方』が無二の作品であると感じたとは思っています。

あの可愛い生き物は何なのかと、視聴中に数知れないくらい思いました。あの可愛い生き物は何なのでしょう。どこまで可愛ければ気が済むのでしょう。どうしてアニメ塗りなのにあんなにふわふわもふもふしているように見えるのでしょう。不思議です。理由を確かめるためにサンクトペテルブルグへと取材班が向かうレベルです。

あと、眼鏡に対する作画のこだわりが尋常じゃ無かったですね。眼鏡のリムやテンプルって省略するのが一般的なんだと思っていましたが、一切省略されないあの赤ブチ眼鏡には並々ならない執念が感じられました。眼鏡キャラの表情は、省略しない眼鏡のパーツも含めてのものだろう、と言われているような錯覚さえ覚えました。

画面作り、という点にはおいてのこだわりもすごかったです。画面が常に、何かしらの色を重ねたような色合いになっているんですよね。恐らくそこには何らかの意味合い(色によって登場人物たちの感情を表すような意図など、でしょうか)があるのでしょうが、残念ながら僕の頭では「そうなのでは?」という程度にしか読み取れなかったので、まだまだ研鑽が足りないなと思う次第です。

散々書き殴って、少しずつ消化出来始めているのでは、と思えるようにはなりました。もちろん感想を書き殴る程度で消化など出来るわけが無いので、何らかの形で、この思いを払拭し、糧にしていこうとは考えています。どんな形になるのかは未定ですなのが。

絶賛放送中の『響け!ユーフォニアム2』はサイコーのアニメとして続いてくれていますが、僕としては『境界の彼方』と同じくKAエスマ文庫発である『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のアニメ化がとても楽しみです。

続報を待ちたいですね。上巻を買ったので、下巻が出る前には読み終えなければ……。

 

以上です。