Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 10/01(月)の気持ち

かつて僕はケータイで小説を書いていた。

もう10年も前の話だ。ガラケーという、静電式のタッチパネル液晶ではない、ボタンをポチポチと押すタイプの携帯電話端末が、今現在ほぼほぼ化石と化してしまっている事実は、今尚それを使っている方々にとってはシツレイな物言いになってはしまうが、おおよそ共通認識となっている事柄なのではと思われる。

あの折りたたみ式だったりスライド式だったり、折りたたみ式の中でも軸の部分にボタンが付いていてワンプッシュで画面を開閉出来るものがあったり、開いた画面をZ軸方面に回転させてハンディカムのような形に出来るものがあったり、一見スライド式に見えるが実は画面をこう横に押し開いて回転させることで開くタイプがあったり、多種多様な形態(ケータイだけに)のものがあったが、まぁ僕もそれを使っていて、それのボタンをポチポチすることで小説を書いていた。たしかSO903iだっただろうか。背面に9つのボタンと小さな液晶画面が付いていて、ウォークマンのような使い方が出来る、音楽再生にも特化したケータイだったように記憶している。僕はFOMAシリーズが発表されたあたりからケータイを持っていたマセガキだったのだが、一番気に入ってた機種は?と訊かれるとたぶんこの機種名を出すと思う。その次に契約したのはSO905iで、まぁこれも良かったのだが、SO903iよりは印象に残っていない。それからXperia acroでスマホーンデビューを果たし、以降はずっとアイッピョーンを使っているのでそこからはあまり語り甲斐の無いケータイ生活をおくっている。まぁ、これから先リンゴ社がどうなるかはわからんが、Androidを使うことは二度と無いとは思うので、これからもアイピョーッンを使うだろうとは思われる。懐古に夢中になって話が逸れた。懐古おじさんはこれだからいけない。

実家に帰ったときに、なんという番組かは忘れたが、なんかのテレビ番組を観た。僕の現在のおうちにはテレビが無いのだが、実家に帰ると誰かしらが常にテレビを観ている状況になっているので、特にやることが無い僕もそれに乗じてそれを観ることになる。確かお笑いコンビのペナルティの特集だっただろうか。テレビを観なくなるとテレビに出ているひとたちが今何をしているのかも当然わからなくなるので、ペナルティのヒデさんが小説を書いているということも当然ながら僕は知らなかった。そのヒデさんが、楽屋で小説を書いているという情報が何度か出てきて、実際にその現場も映された。アイピョンで小説を書くと語るヒデさんの姿に、僕は「マジか」と思いながら大層驚いてしまった。書籍として発刊される小説を、アイピョンで……。それは僕に途轍もないカルチャーショックを与えた。

そもそもお笑い芸人の方々がある時期を境に小説家としてデビューするということにまず思うところがあるめんどくさいオタクおじさんであるところの僕だが、それをこのアイピョンの小さい画面を無限にフリックすることで出来上がる小説というものにも大層思うところがあるし、まぁ実際それは別に間違ったことではないし方法論としておかしなことでも無いのだけれど、まぁかつて実際にケータイを使って小説を書き、それをやめてパソコンで小説を書き始めてパソコンでしか小説を書けなくなった僕の身からしてみると、なんだかなぁという思いが無いわけでもないのが本心だ。

まず、小説を書くのに必要なのは、文字を書くツールだ。鉛筆と原稿用紙(ノートでも良いし、チラシの裏でも良い)があれば、その環境は容易に構築出来る。関係無い話だけど、僕はマンガやアニメや小説や、まぁ媒体はなんでも良いんだけどこう小説家として登場するキャラクターが鉛筆と原稿用紙を使って小説を書いているのを見ると無性に腹が立つんだけど(媒体に小説も含めたが、小説が元になった映像作品なんかは割とノートパソコンで小説を書かせてるイメージがあるので、小説を書いたことが無いひとにそういうイメージが強く備わっている気がしている)、そのステレオタイプなキャラ表現マジで即刻やめろって思いませんかね小説書いてる皆々様。ホントかどうか知らんが神林長平先生が『いま集合的無意識を、』だかで「僕らが最後の手書き世代だ」って言ってたぞ。何十年前のステレオタイプを持ち出してきてるんだしっかりしろ。話が逸れた。……まぁ文字が書ければ何でも良いのだ。パソコンでも良いしケータイでも良いしキングジム社様から発売されているポメラなんかを使っても良い。まぁ、ケータイで小説書いてるひとを見ると前述したような反応をする僕のことだから、ポメラを使って小説書いてるひとを見ると同じような反応しますけどね。ポメラ買うのやめてその代金分足してiPadSurface買いません……?って思うんだけど……、なんか無限にヘイトが湧いてきて本題に辿り着かないなこの話題……。こういう攻撃性はマジで良くないですね、ホントに……。

何が言いたいかと言うと、画面サイズの問題なんだよね。

これは実際にケータイで小説を書いていた環境からパソコンで小説を書くようになった人間特有の感覚だとは思うんだけど、画面サイズが大きくなるということは、表示出来るテキストの範囲が格段に広がるということなんだよね。

何を当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、例えばあなたが今持ってるそのスマホーンなりアイッピョーンなりのテキストアプリを開いて文字を打っていって、どんどんスクロールしていってみてくださいよ。画面下半分をキーボードが覆っているのだから、実際に表示出来るテキスト量ってホントにかなり微々たるものですよね。それ、パソコンの縦書き出来るソフトだと、スマホーンでどれだけスクロールしたものを一括で表示出来ます?かなり一生懸命スクロールした範囲が一括で表示出来ると思うんですけど、それって実際かなり重要なことだと思うんですけど、何が重要だかわかります?

僕は大抵自分のあらゆる能力に対して懐疑的な人間なので、だからこう思うのかもしれないけど、表示されてない文章を知覚なり把握なりし続けることって可能ですか?改行含めて10行にも満たない、300文字未満くらいの文字数、その段落だけが表示されてる状態で、それ以前に書いた情報をリアルタイムで把握し続けることってなかなか困難じゃないですか?そんな情報制御が困難な状況の中で、必要充分な情報を詰め込んだ小説が書けます?もちろん色々な書式設定があるとは思うし、パソコンで書いているからといって文庫本サイズで50ページ100ページ300ページ分の情報を1画面で表示することは不可能だけど、1ページ分なり2ページ分なりの情報を1画面で表示出来るだけでケータイの画面で見落としてしまいがちな文章や情報の粗というリスクは格段に落とせるとは思う。もちろんこれは推敲作業のことをまったく考慮していない考え方だけど、推敲するにしたって最初からボロボロな文章なんて書きたくないとは思うのだ。あとまぁ僕がフリック入力を片手でするので両手でフリック入力するひとは違うのかもしれないけど、脳内からテキストに反映する速度が遅いとそれだけでイライラするよね。キーボードタイピングが速くないひとのことも考慮していないけど、だから、それなりにしっかりと書こうと思っている文章はキーボードでしか書けないというのが僕の持論だ。

だから、小説を書く環境として、パソコン以外でやっているひとを見るとカルチャーショックを受けてしまう。別に否定しているわけではない。それで面白い小説を書けるなら、僕には到底出来ないことなので純粋に凄いことだと思う。別にツールが作品の出来不出来に関わってくるなんてことは一切無いので、それが出来るならそれに越したことは無い。WindowsXPで書いた小説よりWindows10で書いた小説の方が面白いなんてことには当然ならない。だからiOS12で書いてもAndroid9.0で書いてもポメラで書いても作品の面白さには関係しない。自分に合ったやり方で小説を書けば良いとは思う。まぁ効率はめちゃくちゃ悪いだろうけどね。

……というのが、ケータイで小説を書くのをやめて、パソコンで小説を書き続けてきた僕が今まで抱いてきた偏見に充ち満ちた考え方だった。

そういう考えを意識の内か無意識の内か抱き続けてきて、つい先ほど、自分がこういう考えに支配されていることに気付いた。自分がどうしてケータイで小説を書かないのか少し考えてみたのだ。上記した幾つもの理由は理由としてあるが、そこからその考えに至った道筋にも考えを至らせてみて、どうやらそれは自分が捨て去ったやり方なのだから、それを克服した今、改めて試すなりやってみる価値がある方法論では無いだろう、という凝り固まった思考が原因していることを突き止めた。

なるほど、と僕は思った。いつぞやの記事に僕は自分が過去の自分を八つ裂きにしたいと常々思っている、といったようなことを書いた覚えがあるが、今回の件もそういった動機によって成されている可能性が強くなってきたことに気付いた時、僕は戦慄した。上記した理由は確かに自分の中では理路整然……とまではいかないかもしれないが、それなりに納得出来る理由だと僕は思っているが、だがそれはケータイからパソコンに執筆環境を移した自分が無意識の内に、より良い環境になったと思い込むがために構築していたかもしれない理由だったのだとしたら、その偏見は多少なりともほぐしたいと思ったのでこういう記事を書き始めた次第だ。

まぁ別に、改めてケータイで小説を書こうと思っているわけじゃない。前述した理由が、持論として僕の中で確立しているのは確かだ。情報制御が困難な状況で小説なんか書きたくない。ケータイは出先でも小説が書けるし実際便利だという意見もあるかもしれないが、無数に他人がいて自分の思考の妨げになるようなものが無数に存在するおそとなんて環境で小説を書きたいなんて僕はこれっぽっちも思わない。集中力が散漫だからこそ、集中できる環境は大事にしたいのだ。まぁ、パソコンというツールはそのHDDなりSSDの中、あるいは無線有線の先に繋がるインータネットの先に大量の誘惑を秘めたものでもあるから、それ自体が集中を妨げるものであるという意見には100億回頷いて同意するが、ともあれ、このブログを書いているような状態で小説を書くべきだと僕は考えている。それはたぶん揺らがない。実績もある。

だが、設定や世界観、ネタ出し作業においてはどうだろう、と思ったのだ。

僕の中の基準なのだけど、それは恐らく、必ずしもこのブログを書いているような環境でやる必要の無いことだ。むしろお布団に横になってもっとリラックスした状態の方が良いものが出てくるんじゃないかとは思っている。わからんが。まぁ、一文一文に気を遣わなくて良いのは確かだ。本文執筆よりも、ある意味においては精密な行為というわけではないような気がしている。

別にそれを実践してきたことが丸きり無いわけではないのだけど、あんまり長続きしてこなかったのだな。まぁそもそもあまり設定を煮詰めてから書き始めるタイプでもないというのもあるが、でもしっかり用意するに越したことは無いとはさすがに思っている。それは出来ないからやらない、というよりは、何が必要になるのかマジでわからないから都度その場で考えるようにしている、というのが実情だ。必要にならないかもしれないものに思考リソースは割きたくないし、お話の展開によっては当初の設定を否定しなきゃいけないような場面もまぁ訪れる。別にイタコ型の、キャラが勝手に動くタイプの書き手でも無いが、キャラの動きってまぁ基本的には必然よね。プロット通りに誘導するにしても、軌道修正が必要な部分ってのはどうしても出てくる。それを設定というか、プロットをガチガチに固めた状態で、それ以外の動きは許さない、というような作り方をすると破綻が起きやすいような気がしているし、端的に言えばキャラがブレるとも思っている。

というような先入観があることも、これを書きながらわかってきた。

一度自分の中に作り上げてしまった方法論を否定するのは、とても勇気がいる行為に思える。別に否定まではしなくても良いんだけど、もうちょっと柔軟な考え方をしたいなぁと思ってこういう記事を書いてみた。今僕のアイピョーン8+は、せっかく無駄に大きな画面を備えていてパソコンと手軽に同期出来るテキストアプリを入れているにも関わらず、アズールレーン専用機になっているのでそれもマズイよなぁ……と思ったので、もう少し有効活用したいと思ったのだ。何より季節の変わり目で座椅子に座ってるだけでマジでつらい状況とかもままあるので、お布団に寝転がりながらクリエイティビティを発揮出来たらさいつよなのでは!?と思ってこうして考えてみた。気付くのが遅いという向きはあるかもしれないが、まぁ、何事も遅すぎるということは無いのだ……。そう自分に言い聞かせて、そろそろ筆を置かせて頂こうと思う。また5000文字も書いてしまったが、こう、もっと端的な物言いが出来ないものかね、きみどりくんや……。

ケータイでネタ出しをしてみよう。

僕は基本ネタ出しを脳内だけでやるんだけど、脳内だけでやると、取りこぼしてるものは沢山あるんだよな……。