Yellow Green Mechanical

八神きみどりが文章を書くブログです。主に読んだ本や、観たアニメや映画の感想を備忘録として綴ります。

2018 11/18(日)の気持ち

なんか昨日労働でむしゃくしゃすることがあって、それ以来そこそこ良くない気分を引き摺っていてなんか良くない。

ここ最近はそういうこともあんまり無くて、そういうストレスの感じ方ってあんまり無かったんだけど、まぁ人間が仕事をするのだから失敗が起こるときは普通に失敗するし、それを完全に無くすということも不可能だ。こういうこと書くと自己弁護のために言葉を労しているように見えるかもしれないが、人間には作業なり機転なりを完全再現する能力が備わっていないので仕方が無い問題だ。特に僕みたいに低スペックな人間がやる仕事なんかまぁ信用出来ない。だから基本的にはしょうがないものだとは思っていても、失敗をすれば普通にへこむし、それが自分が原因ではない理不尽なものであれば普通にイライラするしむしゃくしゃもする。そういう気分を払拭したくて周防パトラさんのアーカイブをめちゃくちゃ観たりしていたのだが、そのアーカイブなりリアルタイムの配信なり、観たそれが神回であれば神回であるだけ観終わった後に落ち着いて冷静になった時の反動も大きいもので、なんか気分転換も上手くいかねーなぁみたいな感じになっていたのでここに何かしらを書くことで改めて気分転換していこうという所存だ。

 

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2018 11/12(火)の気持ち

期間を空けたとはいえ、ハニーストラップに関する記事を立て続けに書いて、結局ハニーストラップの記事は4件書いているんだけど、なんかこう本来想定していたこのブログの使い方から逸脱しているような気もしているので、何でも無い記事を書いて中和しておこうと思う。

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2018 11/11(月)の、周防パトラさんのASMR配信に対する気持ち

季節もすっかり秋めいてきていて、そういえばここ数年は秋とかゆう季節があったようで無かったようで無かったな……とか思っていたが、なんか日々の寒暖差が激しすぎて(今日は秋っぽいな)とか思っていたら翌日は(いや、これはまだ夏なのでわ!?)とか思ったり忙しい感じの気候になっているので体調管理には気を付けていきたいと思っています、八神きみどりという者です(挨拶)。

僕はなんでも良いけどグラフ的なものが見れるサイトやツールを使っているとそれを日々確認してしまうという(特にアクセス数などが見られるサイトに於いては)身体が作られる前に既に承認欲求が存在していたかのようなムーブをしてしまう悪い性質を持って生まれてきてしまったので、新しい記事を書いてはいなかったがアクセス数のグラフはちょいちょい確認していて、なんか日々の日記を書いていた時の比ではないくらいのひとたちが僕の記事を読みに来ていることを知って驚くなどしていた。

好き勝手書いてしまったのでなんか今更になって焦るような気持ちを抱いてはいるものの、今日は記事タイトルにこういったことを書くと宣言しているため、これについて書いていこうと思っている。怒られたら取り下げるなどしようとは思っている。別に怒られるようなこと書いた覚えは無いのだが。

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2018 10/30(月)の、ハニーストラップに対する気持ち

ちょっとリアルの方が立て込んでしまっていて、やりたいことにリソースが割けない1週間を過ごしてしまった。そろそろこれを読んでいる方から「お前のリソースとやらは雀の涙以下なのか」とお叱りの言葉を頂いてもおかしくない頃合いかとは思っているが、こう、肉体疲労がしんどい時って普通にしんどくて、しんどいじゃないですか。休日を最大限に活かすために万全の状態で長時間睡眠して備えよう!と思って、確か前回の記事にそんなようなことを書いた覚えがあったのでそれをしていこうとは思っていたものの、土曜日の夜に帰ってきて座椅子を倒して1時間だけ仮眠……とか思いながらハニーストラップのよっぱっぱお姉さんこと西園寺メアリさんのASMR1時間たっぷり耳かき配信のアーカイブを聴き始めて、耳かきが始まる前に入眠するという最高の出だしから始まって、1時間して強烈な尿意で目覚めて、なんだか腑に落ちなかったのでもう一度同じアーカイブを再生して、今度は耳かきまで辿り着いたものの14時間座椅子で寝るという自分の身体を極限まで限界に近付けるかのような所行を行ってしまったので(合計で15時間座椅子で寝たことになる)、なんというかこう、最高の休日になってしまった。

そんなこんななので翌日はアズールレーンのイベントをひたすら回しながらハニストのアーカイブを聴き漁ることで1日を潰すくらいの余力しか無く、睡眠時間だけは人並み以上に取ってしまったので遅くまで寝付けることも出来ず、まぁ先週とほぼほぼ同じような感じで過ごしてしまったので虚無だった。今週1週間はだいたいそんな感じの立て込みが続き、来週は珍しく予定が入っていたりと不安を抱いているが、まぁやれることをやっていかなければならないとは思っている。いい加減腰を上げないと今年終わっちゃいますからね。平成最後の1年は爆速で過ぎ去ってゆき、その間にあったことのスカスカさに驚くようなことは出来るなら避けたい。避けたいなら行動をしなければならないが、その辺の自分の信用の出来無さは上記したエピソードが如実に語っていることなので、ホントに何とかしていきたいですね。ここに懺悔したところで出来るようにならないみたいですからね、難儀な性分ですね、ホントに……。

 

そういった感じなので、Vの者との距離感を適切に保っていきたいという意識が、ここ最近少し曖昧な感じになってきている、という問題に直面している。

蒼月エリさんの配信をメインで聴きながら、他に気に入ってるVの者をちょいちょい追いつつ~みたいな感じでやっていこうと思ったものの、いつぞや記事に書いたパトエリお泊まりバイノーラルコラボを聴いてから周防パトラさんの配信を追い掛け始めるようになり、2人観てるんだったら3人も5人も一緒だろ、ということになり(3人と5人は残念ながら一緒では無い)、西園寺メアリさんを観て、昨日今日辺りからは堰代ミコちゃんのアーカイブも掘り始め、ここから島村シャルロットちゃんのアーカイブを掘り始めるのは既に時間の問題になりつつある。蒼月エリさんの紹介記事を書いたときに僕は語気強く「僕はハニスト箱推し勢では無い」とか書いた覚えがあるが、今や立派なハニスト箱推しおじさんとしてこの世に顕現しようとしている。どうしてこうなってしまったんだろう。そんなこんなで(どんなこんなだ)今週末(11/4の日曜日)にパトエリお泊まり配信が再び行われるようなのだが、僕はこれを本当に楽しみというか、ハッキリ言ってしまえば生きる糧にしているので、それに辿り着くために生きていこうとは思っている。どうしてこうなってしまったんだろう。問い掛けは虚しく、答えてくれる者は残念ながら誰もいない……。

こう、あんまりこういう言い方はするべきじゃないんだろうなぁというのはあるのだけど、何というか、これまで数々のVの者にハマってきた経験が、当然ながらチャンネル登録しているだけのVの者に対してあるわけだが、ハニーストラップというグループに対して今抱いている気持ちは、そのいずれもの体験とは異なる次元のものとして僕の中にあるらしい、というのは薄々気付いているのだな。

別にそれは過去にハマってきたVの者を貶めて言うことではないので、彼ら彼女らに対して特別不満があるとかそういうのではないのだけど、こう、ハニストの彼女たちの配信を観るようになってから、僕の視聴意識の方が明確にアップデートされてしまったようで、何だろう、それ以外の方々の配信が1時間あるとして、それを最後まで観ることが出来なくなってしまった。本当に不誠実な態度なのだが、20分から30分で切り上げるようになってしまったのだな。これには本当に自分でも驚いている、割と愕然としているところだ。

僕の悪いクセについては過去の記事にも書いた。配信者がチャンネル登録者数の節目を迎えるなり、配信内容がルーチン化とでも言うのだろうか、目新しさが無くなってしまうタイミングで大体追うのをやめてしまう。ライバーが行うのは生配信なのだから、その配信内容が以前の配信内容とまったく同じになるということは絶対に無いのだが、まぁ同じような構成に落ち着く、というのは確かにある。あとは配信者も人間なのだから(こういう言い方をVの者に対してするのは不誠実の極みという気もするが)、披露出来るエピソードやトークの流れというのもどうしても固定化してしまうものだ。あとはチャットを飛ばすリスナーとライバーとの関わり方とかも結構重要だよね。それはどうしても逃れられない流れというか、そうなってくると僕もそのVの者の配信は他のVの者とのコラボ配信だけを観るようになり、次第にそれさえも観なくなる、というような流れになることがどうしても多かった。何が悪いというわけではないし、敢えて言うなら僕の性分が悪いという感じなのだが、それがハニストと出会って、彼女たちの配信を観るようになって、もしかして彼女たちはそういう流れとは別次元の場所にいるライバーなのかもしれないと、今薄々思っている状態だ。

最近薄らと考えていることがある。

こう、Vの者というのは何らかのキャラクターを被って、そのキャラクターをロールプレイすることで配信を行っているわけだ。このシステムがアニメやマンガが好きな2次元オタクとでも言うか、そういう層に、今までユーチューバーという存在に苦手意識を持っていた連中に刺さったという面は確かにあるとは思っている。僕もニコ生主やリアルユーチューバーにはどうしても苦手意識を持っていて、巷でどれだけ彼ら彼女らが人気を博していても、なぜ彼ら彼女らがだらだら喋っていたりアホなことに真剣になってる姿を観なければならないんだ!俺は2次元や2.5次元MMDなどの3D)の美少女だけを観ていたいんだ!という気持ちは強く抱いていて、だから美男美女、美少年美少女のガワを被っており(必ずしもこの例に当てはまらないVの者も沢山いるが)、オタクの耳に心地よい声で喋る彼ら彼女らのトークなら安心して聴けている、という面は別に改めて取り上げなくとも周知の事実として存在しているものと思っている。

で、2次元のキャラクターを演じるうえで漏れなく選択肢として挙がってくるのが、学生、生徒だ。にじさんじ1期生のJK組を筆頭に(それ以前のスタンダードでもあったような気がしているが、わかりやすさを重視する)、以降の、特に企業系のVの者のスタンダードは学生、生徒設定を付与されている方々が多いような気がしている。

中身である魂の方々が実際に今、学生として生活しているかどうかを我々リスナーが知ることは出来ないし、その舞台裏を知ることがあらゆる意味で、必ずしも良いことではないというのはあるが、実際に学生ではないのなら、そのロールプレイはライバーを縛り付ける意味合いを強く持っているのではないかと、僕は薄ら考え始めている。

例えば、そのロールプレイを厳守していくなら、トークの幅は限りなく狭まる。実際に学校であったことを話したり、友人との出来事や部活での出来事などを話すかどうかは微妙なところだが、まぁ仮に選んで話すそれらエピソードは実際の今には起きていない過去のことなのだから、どうしても引っ張ってくるエピソードにも限界がある。実際には社会に出て働いていたり、専業でVの者として活動している中で得たオンオフ限らないあらゆるエピソードというのは、どうしてもそのままの状態ではリスナーには提供出来ない。当然ながら、学生や生徒としてのエピソードとは食い違ってしまうからだ。まぁ、それら日常の出来事が必ずしも彩り溢れている方というのも大概少ないというのはあるかもしれないが、それを話せないのだったら生配信で話すトークというのは大抵その場で思い付いたことやリスナー頼みになる傾向にある気もしている。おうたやゲームなどの配信も、必然的に多くなるだろう。そういった配信が続くと、どうしてもマンネリ化してしまうもので、特に企業系のVの者はそうだな……、チャンネル登録者数が5万人を越えたあたりで企業案件などもちらほら舞い込んできて、チャンネル登録者数をガムシャラに伸ばすために毎日配信していた頃のような動きは出来なくなるし、企業同士が関わる案件では当然尖った配信も行えなくなる。僕は大体この辺りでそのVの者を追うのを完全にやめてしまう。まぁ、めんどくさいオタク特有のオタクしぐさが大概発揮されためんどくさい心理状態であることは、賢明な読者諸氏には言わずもわかることだとは思うが……。

そこでハニストの話に戻ってくる。

そう、ハニストはメンバーの全員が成人していることがあらかじめ明らかになっている(メンバーは8000歳の悪魔の女王という設定だが、まぁこれは良いだろう……)。お酒も提供する夜の喫茶店というコンセプトなのだから、そこで働く彼女たちが未成年設定というのはさすがに無理があるだろうし、だから彼女たちは配信中にお酒を飲んだりする。で、ハニストで働いているという設定なのだから、当然働いていない時間帯も存在するわけだ。学生や生徒もそうじゃん?って感じだが、未成年と成人している人間のオフの動き方はまったく違う。主に金銭面に始まり、それ以外での行動の制約というのがほぼほぼ常識的な範囲で無いに等しいわけだ。学生設定のVの者が平日の夜中に配信を行うのは常識的ではない。まぁ配信時間などに関しては事前に雇用側と打ち合わせているだろうことなので、そもそもそういう想定をしているかどうかという問題もあるが、そういった不自然な動きが制約されているというのは難しさがありそうだとは思っている。ゴールデンタイムに大型コラボや大型企画の裏で細々配信する選択肢しかないのと、それが終わったタイミングや、大方の人間の寝る前のあれこれが済んだ空いてる時間に何か観ようかと迷っているリスナーを取り合うのでは、やはり違うものだ(極端な話かもしれないが)。

そういった緩いロールプレイで制約がほぼほぼ無い状態で配信する彼女たちは、披露するエピソードも大きなものから小さなものまで彩りに溢れている。

 


【珍事件発生?!】珍味食べながら珍事件語った結果・・!?【周防パトラ / ハニスト】


【雑談枠】正体ばれました【周防パトラ / ハニスト】

 

このあたり、最近観たやつを貼っておく。

ハニストの中でも、特に周防パトラさんはドラマ性の権化のようなVの者なので、基本的に雑談配信がだらだら行われるということが無い。このひとは本当に話題に事欠かない。一歩外に出たら何かしらの事件を起こしたり、事件に巻き込まれる。し、それを惜しみなくリスナーである「俺くん」たちに披露する。おうちの中でも事件が起こる。配信中でも起こる。それは俗に「パトる」という言葉で表されたりもするが、それが本当に周防パトラさんという存在から目が離せなくなる一因として機能しているし(と言ったらさすがに怒られるかもしれないが)、それがめちゃくちゃ面白いというのもあるので、周防パトラさんをこれから観ようと思っているあなたはめちゃくちゃあるアーカイブのどれから観てもそれはある種の神回なので安心して開いてほしい。

 


【10分で分かる】周防パトラー新人ぶいちゅっば編ー【 ハニスト公式】

 

この辺りから観ると尚良いかもしれない。これは周防パトラさん本人が作った選り抜き動画なのだが、こういったことが各生配信の中で一度は起こるので本当に生まれながらのエンターテイナーだな、という感じがしますね。

 


【ASMR】眠りを誘うとろける耳かき♥赤ちゃん綿棒♥whispering&Ear Cleaning 【周防パトラ / ハニスト】

 

あと、周防パトラさんはASMR配信という音フェチ配信に命を賭けていると本人が仰っているのだけど、僕もここ最近はこういう音フェチ音声にハマりかけていていよいよオタクとしてのステージを一段上ってしまったという感じもするのだが、このアーカイブは本当にめちゃくちゃすごいのでASMR音声に興味があるのなら是非一聴して頂きたいという次第だ。

ホントにね、某ダウンロード販売サイトでお金払って買うようなレベルのアーカイブなので、マジで……。

唯一難点を挙げるなら、周防パトラさんは1日に2度3度と配信を行ったりもする配信ジャンキーなVの者なので、その全てを追うのがやや難しいというところだろうか。ゴールデンタイムにアーカイブ観てたら配信が行われたりしますからね。そういうときってどうしたら良いんでしょうね。教えてください偉いひと。

 

 


【ASMR】だいすきなママとねんねしようね。癒しの耳かき Ear Cleaning/Ear Blowing/Whispering【西園寺メアリ / ハニスト】

 

ASMRといったらメアリのことも忘れてはならない。

周防パトラさんのASMRが「作品」としての完成度を追求しているとするなら、西園寺メアリさんのASMRは「日常」としての完成度を追求しているのではと僕は思っている。

なんだろう、年上のお姉さん(このアーカイブのタイトルにはママと書いてあるが)と添い寝している臨場感とでも言うのだろうか。なんだろうなぁ、生々しいんだよな。普段、西園寺メアリさんは紙パックの1.8リットルの梅酒を抱えて飲みながら強烈な個性を振り撒いているヤベェお姉様という感じが無きにしも非ずという感じだが、このASMRのメアリお姉様はちょっと照れたりしながらリスナーと砕けた感じで話してくれてこのギャップがまずヤバイ。僕はギャップに弱いオタクなのでそういう面を見せられるともうヤバイ。上に貼ったアーカイブは数あるASMRのアーカイブの中でも特にヤバさがヤバかったやつなので貼った。何を言っているかわからないと思うが俺にもさっぱりわからない。とんでもねぇメアリの片鱗を見せられたぜ……。興味がある方は是非一聴してみてほしい。抜け出せなくなる前に帰ってこいよな……。

 


【コラボ】メアリを救いたい【西園寺メアリ / ハニスト】


【スナックメアリ】パンディを救いたい。ふふっ【西園寺メアリ / ハニスト】【パンディ】

 

普段のメアリお姉様を知りたい方はこちらを観れば良いのではないでしょうか。

僕もまだアーカイブを掘っているところなので十全にオススメ出来なくて申し訳ないのだが、救いたいシリーズは本当にヤバかったです(語彙力消失オタク並みの感想)。

 


【初めての歌ってみた】ぶいちゅっばの歌【堰代ミコ / ハニスト】

 

本当にハニストはメンバー全員が違う個性と技術を持っていて、全員が全員何かしらに特化していて本当に凄いと思うんだけど、ミコミコは演技力と、メアリお姉様とはまた違った種類の癒やしぢからを持っていて本当に脳にイイ。

これは彼女の初めての歌ってみた動画、作曲作詞を周防パトラさんがつとめた(通称、秋元パトラさん)『ぶいちゅっばの歌』。この歌声が脳にイイと思ったあなたは安心して次に進んでほしい。

 


【生放送】お昼のはなうた放送【堰代ミコ / ハニスト】

 

ミコミコのアーカイブを観たのはこれが初めてなのだが、これがね、脳にイイ。堰代ミコちゃんは七色の声帯を持っているので本当に色々なパターンのお声が出せるし演技力もガチでそれを勉強してきたひとのそれなのだけど、そういった技術を持っていながらもふにゃふにゃしながらマイペースに気まぐれにお歌を歌っていくこのミコミコは本当に脳に良さしかない。

 


【方言縛り!?】悪魔二人で以心伝心ゲーム【堰代ミコ / ハニスト】

 

それでね、これですわ。

僕は多くを語らないオタクなので、多くは語らない(トートロジー)。

最後の「愛してるよゲーム」まで聴きなさいね。

 

あとは演技に特化したアーカイブも聴きたいと思っている。どんどん掘っていきたい気持ちを宥めつつ、自分の中でのコンテンツ消費加速度を抑えている段階なのでゆっくり聴いていこうと思っています。何かオススメがあったら教えてほしいですね。教えてくれるようなひとがこの記事を読んでいるのかどうかは定かではないですがね……。

 

さて、ここで島村シャルロットちゃんのアーカイブを出せないのが本当に心苦しい感じだ。僕はまだ島村シャルロットちゃんが何に特化した子なのかをよく知らない。メンバー内コラボで喋っているところをチラっと聴いたり、上記した4人のくちから語られる「天使だ」という印象通りのような気もするし、彼女がずっと続けているマインクラフトシリーズ、通称シャルクラが寝落ちに最適という話を耳にしたくらいだが、これからじっくり聴いていこうと思っている。こちらもオススメがあれば是非教えてほしいですね、切実に。

 

色々なアーカイブを連打するように貼ってきて、賢明なハニスト箱推し諸兄は気付いている頃合いだと思う。

 

「お前、もしかして先日のハニスト飲み会を観ていないな……ッ!?」

 

その余りにも切れ味鋭い問いに、僕は深く項垂れることしか出来ない……。

終盤30分くらいはリアルタイムで聴いてたんですけどね。ちょっとあまりにも密度が濃そうなアーカイブだし2時間半もあるのでちょっと寝かせている最中なんです。これから聴きます。休みの日にでも……。こんな感じのガタガタな生活をしていると2時間半って結構大きな時間なのでなかなか捻出するのが難しくてですね……。まぁこれ書いてる時間で観れば良いという向きもあるとは思うんですけど、ひとが喋ってるの聴きながら文章書くのとかホントに無理ですからね……。集中して観たいので、そうですね……、パトエリお泊まりコラボリバイバルまでには観たいですね……。観ていこうと思います。がんばっていきたいとおもっております、はい。

 

さて、また今日も長々と書いてしまったが、割と僕の中でハニストというグループが存在感強く在ることに書きながら気付いてしまって驚いているというのもある。

実際、蒼月エリさんを追い始めるようになってどれくらい経つだろうか。1ヶ月半くらいだろうか。まだそれだけしか経っていないという気持ちの方が強いが、その間こうしてハニストというグループに対する興味が強くなり続けているという状況は、Vの者を追うようになって、その気持ちが半分くらいマンネリ化していた中ではあまり無かったような気持ちなので、やはり驚くに値する状況だ。

まぁ、別に僕がこんな記事を書いたり書かなかったりしたところで彼女たちは日々チャンネル登録者数を順調に伸ばしているし、応援するのであればもっと手堅い方法もあるのだが、これは日記なので、自分がその時何にハマってどういう気持ちを抱いていたのかということを記すことに意味がある行為なので、そのように見て頂ければ僕としても幸いだ。

まだまだ伸び盛りの彼女たちが、これからもこの業界で活躍していくのを見守っていきたい。不誠実で不義理なリスナーではあるが、この気持ちは嘘偽りの無い本当だ。

 

 

さて、最後にこの動画を貼っておく。

MirekさんがRemixされた蒼月エリさんの『なんでもないや』。

ここにはエモの全てが詰まっている。最初聴いたとき、あまりにも完璧過ぎて半泣きになりながら震えてしまったので、皆さんも是非聴いてほしいですね……。

2018 10/22(月)の気持ち

今日はしっかりとあれこれやっていきたいという気持ちがあったものの、起きたら行き付けのチェーンの定食屋のラストオーダーの時間が近づいていてやべぇやべぇと思いながらメシを食いに行って帰ってきたら日付が回るくらいの時間になってて、それからまったくやる気も湧かずにうだうだうだうだしていたところこんなような時間になってしまったので定時報告というか、ここにあれこれ書くようなことだけはしておこうと思った。生活破綻者なのでそういったリズムで生活している。多少は直さなければとは思っているが、日曜日(というか月曜日の午前中)のどのタイミングで寝るかに月曜日の全てが掛かっているので、まぁこんな結果になってしまったことからもわかる通り、生活リズムを完全にしくじってしまったワケだった。

起きた瞬間に由来するメンタルコントロールってめちゃくちゃ難しいですよね。別にテンション高く誰とも会わない休日を過ごすなんてことはここ数年殆ど無かったわけだけど(独りで勝手にテンション高いヤツがそもそもヤバイという話は置いておく)、起きた瞬間に感じる「あ、今日無理かも」とでも言うような、その決め付けがその日1日を完全に支配する感じが割と結構久しぶりで、まぁ起きた時間が時間だったし明日の(今日の)予定というかルーチンもあるわけだから今更今日を充実した1日にするなんてことも難しいわけだから、そういった諦念みたいなものも結構あるわけだけど、なんだろう、ここ数日熱心に本を読んでいたにも関わらず「本読むのもだるいわ」みたいなコンディションだったので流石に驚いたのだ。まぁ自分に鞭打って(鞭打つと言って良いのか微妙だが)新しい本開いて30ページくらい読むなどしたわけだが、これを「読書した」と呼んで良いものかはかなり微妙だ。割と気に入ってる方の作家の本なので結構面白そうだったし先は楽しみだ。基本的には開いた本はその日で読了してしまいたいとは思っているタチなのだが、まぁそういうこともある。ここ最近読んでた本は結構ヘヴィな本が多かったので、そのタチがあまり発揮されていなかったのも自分に甘くなっている原因だろうか。

やろうやろうと思っていた、ここ最近読んだ本の感想でも垂れ流しておくか。そうすることにしよう。

 

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

「このひとの薦める本は間違いが無い」というひとが数年前にオススメ……と言うか、名前を挙げていた本。アンナ・カヴァンの『氷』。知るひとぞ知る小説というか、なんかそういう界隈でカルト的な人気を誇っているような印象を持っているが、復刊された時に買うのを渋ったら(ちくま文庫高いんですよね)書店で新刊を見付けるのが割と難しいような状況になっていて(大型書店に行けば見付かると思うが)、そんな折に行き付けのブックオフに行ったらたまたま置いてあったので喜び勇んで買った。それももういつのことだか忘れたが(ここ1年以内の話だとは思うが)、部屋に転がってたこの本を、翻訳小説も読んでいかなければ、と思って引っ張り出してきて読んだのが先月、9/17の話だ。

某所に感想を載せたのだが、なんだろう、とにかくすげぇ小説だった。

アンナ・カヴァンという作家に特別詳しいわけではないのだが、ウィキペディアなどを見ればこの作家がどういう作家かは多少なりとも知ることが出来る。『氷』は彼女の晩年、と言うか亡くなる1年前に発表された小説だ。有名なのは彼女がヘロイン常用者だった、ということだろうか。たぶんそのエピソードと強く紐付けられて語られることもあるのだとは思うが、それはあまり鋭く無い読みではないかと、僕はこの小説を読みながら考えていた。

何がすごいって、描写がめちゃくちゃ繊細なんですよね。まずここでラリラリになったひとが書いた文章では無いと思った。でも、にも関わらず作中で起こっていることが全部嘘っぽい。めちゃくちゃ丁寧に組み立てられた記述から読み取れる全ての出来事が、語り手の脳内の中だけで起きている状況のようだと、僕は感じた。この辺は確かにラリラリっぽいが。それは登場人物に名前が無かったり(基本的には私と少女と長官という3人の人物が登場して、彼らは始まりから終わりまで固有の名前で呼ばれることが無い)、翻訳者だったか序文に寄稿したクリストファー・プリーストだったかが言及していた通りプロットが用意されずに書かれたかのような(あるいは用意されていたが、基本的な物語運びとは違った意図で組み立てられたのかもしれない)右往左往した物語運びに由縁するものだったり、タイトルにもある「氷」が一貫して作中では世界の終焉にまつわる重要なファクターとして登場しているにも関わらず、それに明確な説明が成されないということも関係しているのかもしれないし、主人公である「私」の言動が本当に脈絡が無かったり、それら全てが複雑に絡み合って、僕にそういう印象を抱かせた。本当に不思議な小説だった。

僕は基本的には綿密な作品が好きで、重厚なプロットを元にアップテンポに組み立てられためちゃくちゃ熱いクライマックスを迎える小説がドストライクに来やすいタチなんだけど、でもこの小説はめちゃくちゃ読後が良かったんですよ。それは真に迫る筆致だったり、状況だけ見れば本当にどうしようも無いのに、にも関わらずある種の爽やかさを伴ったあのラストシーンが大きな割合を占めるのはそうなんだけど、そのラストシーンに辿り着くためだけにこの小説を読むのをオススメしたいという気にさえなった。もちろんそのためだけにこの本を布教して回りたいかと言うと、そんなことは一切無い。正直途中は読むのがつらかった。し、納得が出来るラストでもないとは思う。綿密な小説がドストライクだけど別にそれだけがドストライクなわけではないので、これは読み手の好みにも大きく関わってくる話だとは思う。なので、プロットが明確ではない迷路のような小説に抵抗感が無い方は手に取ってみてほしい。唯一無二の読書体験を約束する。

ところで『氷』がちくま文庫から復刊される前に、サンリオSF文庫とかバジリコ?という出版社から出版されていたみたいで、まぁ絶版になって長らくこの本が手に入らない期間が続いていたようなのだが、僕は見付かるはずが無いそれらをまぁ思い出した時に探すようにしていたのだが、そのタイミングで単行本が出版された『アサイラム・ピース』という短編集が新刊で出ていたのを見付けたんだけど、それが2500円くらいだしハードカバーだしで買うの諦めたんですよね。読みたいのは『氷』だったし。で、今それ手に入れようとすると(具体的にはAmazonマケプレだが)倍以上の値段払わないと手に入らないみたいなんですよね。

……つくづくこういう本は新刊で見付けたタイミングで即買いしておかないと後々面倒なことになるのだなぁと思いました。『アサイラム・ピース』の新刊置いてある書店情報は随時募集しておりますのでよろしくお願い致します。

 

 

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 

みんな大好きチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』。

知り合いがこの小説の話をしてくれたのをずっと覚えていて、でもその時に「誤訳がひどすぎる」という話をされて、なら『ペルディート・ストリート・ステーション』から読むかなと思ってそちらを手に入れてから読み始めたもののあまりに読み進めるのが大変そうだったので、単巻で完結してるこちらからやはり読んでいこうと思って読み終えた。ゆうて500ページ越えてたが。

一応読む前に誤訳の件を軽く調べてみるなどした。するとAmazonのレビューにそういったことが書き連ねられていたものを発見した。が、他には見付からなかった。件のレビューも「誤訳がひどすぎる!」とは散々のように書いているものの、具体的にどういった箇所がどういう風に誤訳されていたのかは一切言及されていなかった。ネタバレに配慮してくれたのだろうか。自分のレビューの正当性をほったらかしにしてまでネタバレに配慮してくれるなんてまったく頭が下がる思いだが(実際問題ネタバレされるのは嫌だしね)、それを信じるべきか信じないべきか原書を読めないクソ雑魚英語力の僕には確認のしようが無いことなので、まぁ、という思いだ。思えば他のひとが書いたレビューに「原書で読めば面白いですよ」とかなんとかコメントしまくってたひともいたような覚えがある。訳者に親でも殺されたのだろうか。僕には窺い知れないことではあるのだが。

ともあれ、『都市と都市』。基本的には最初に起こる殺人事件を刑事の主人公が捜査していくというミステリや警察小説の体裁で進んでいくこの現代を舞台にした小説がなぜハヤカワSF文庫で出ているのか、という疑問は散々色々な方や巻末の解説で言及されていることではあるが、敢えて僕からも言わせて欲しい。これはれっきとしたSF小説だ。

この小説を他人に紹介する際に、この小説の舞台の説明をまず綿密に行わなければならないのだが、それはまぁ不可能だ。読んでくれとしか言えない。殺人事件が起こる冒頭から順を追って不親切ながらに説明されていくそれは、恐らくこの小説を読み進めることでしか理解出来ない。僕がここに「これこれこういうことで……」と早口オタクを披露して言葉を重ねたところで説明されるあなたはまったく飲み込むことが出来ないだろうことは簡単に予見出来る。それは購入を検討するためのあらすじを読んでも同じことが言える。正直この小説の舞台がどうなっているのかを、そこから正確に読み取ることは出来ない。その殺人事件を取り巻いている特異な状況、その異常性についても同じことが言える。

だが、どこかしらのタイミングで、その状況や異常性について、ストンと飲み込むことが出来るようになるはずだ。だいたい1章の後半くらいだろうか。残念ながらこの小説のレビューや感想を漁ると「意味がわからない」「納得が出来ない」など読解力が至らない方々の声がめちゃくちゃ出てくるので保証は出来かねるが、そうなってからは読むのが止まらなくなるはずだ。チャイナ・ミエヴィルという作家の脳内がどうなっているのか、その想像力や構築力に恐れおののいて読み進めましょう。

色々な方々が言及されている通り、と言うかそもそもミエヴィルはミステリ作家ではないのでその辺りに不満が無いかと言えばあるのだが、それはそれでこれはこれ。この作品を形作る上で絶対に欠かすことの出来ない『都市と都市』という舞台を想像し、構築し、カタチにしたそれを目にするだけでもこの本を読む絶対的な価値がある。

「ブリーチするとブリーチが現れてブリーチされる」

こうとしか説明の出来ない事象について、読んだ方と文脈を共有したいですね。

 

 

おいおい八神ィ、今更『ソラリス』かぁ!?と言われるのを承知でここに感想を書く。

僕は結構SF小説を読むんだけど、なんだろう、ラノベ作家進出以降のハヤカワJA作品は結構読んでるんだけど、こう、往年の名作というか、読んでおくべき古典というか、そういうのはからっきしなペラッペラな読書遍歴を持つニワカSF読みだ。クラークの『幼年期の終わり』とかホーガンの『星を継ぐもの』とかキイスの『アルジャーノンに花束を』だとか、たぶんそれくらいしか読んだことが無い。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』やハインラインの『夏への扉』、ギブスンの『ニューロマンサー』あたりは途中まで読んで投げた。なんだろう、古典の全てがそうだとは言わないんだけど、古くさい雰囲気が本当に苦手なんですよね(『ニューロマンサー』に関しては事情が異なるが)。特にこの前ヴァーリィの『逆行の夏』の表題作だけ読んだんですけど、あの60年代とか70年代SFの、銀色で、流線型で、とにかく宇宙を目指して、みたいな、当時のアメリカSF的というのだろうか、セピア色のフィルターを掛けて粗いフィルム映画のような絵面で想像されるそういう雰囲気がもうそれだけでダメなのだ。僕は食にしても作品摂取にしても食わず嫌いがめちゃくちゃひどいので、読んでみればまた変わるとは思うのだが、まぁ、徐々に改善していこうとは思っている。だってアシモフを1冊も読んでないなんてたぶんお外に出て大きな声で言えることじゃないと思うんですよね……。知らんけど……。

さて、先日KindleでハヤカワSFの半額セールがありましたね。よーしいっちょ小川一水先生の著作でもまとめ買いしますか!と思って開いたらハヤカワSFのセールなのだからハヤカワJAの作品が対象作に含まれているはずもなく、まぁでもハヤカワSFは文庫といえど結構値が張るし、ここらで5冊くらいまとめ買いしておきますか、ということで選んだ内の一作が今作、レムの『ソラリス』だった(前述した『逆行の夏』も一緒に買った)。

ブックオフの海外小説コーナーにて、いつも手に取っては戻す小説ってあるよね。だいたい僕は『ソラリス』とブラッドベリの『華氏451度』、イーガンの『祈りの海』や『ディアスポラ』あたりを手に取っては棚に戻すなどを繰り返してきたのだけど、ようやく買うことが出来たカタチだ。

SFマガジンか何かを立ち読みしたときに、年代別読者のオールタイムベストみたいなランキングを見たことがあって、その時40代以上(曖昧な記憶に依る情報なので間違っている可能性大)の読者から圧倒的な支持を受けていたのが『ソラリス』(あるいは『ソラリスの陽のもとに』)だった。ならば読んでみるに越したことは無い古典だろう、と思ったのがこの作品を知るキッカケだったわけだ。

いやぁ、すごい小説だった……(語彙力消失オタク並みの鳴き声)。

異星人とのファーストコンタクトものという事前知識はあったのだけど、ファーストコンタクトする相手が異星人かこれ!?というところにまず驚いた。それに関して並べ立てられる情報、情報、情報。巻末に訳者と作者両方の解説が載っていてその意図に関しては改めて僕が書くようなことでも無いのだが、その、なんだろう……。こう、漠然と思っているわけじゃないですか。ファーストコンタクトものに対する印象って。『幼年期の終わり』にしてもチャンの『あなたの人生の物語』にしても、コンタクトする相手って基本的には相互理解とまではいかなくても、コミュニケーションが成り立つ存在という前提がどうしても刷り込まれているわけじゃないですか。そうじゃないと小説というか、物語として成り立たないくらいなことは思っているわけじゃないですか。そういう思い込みを完全に破壊されました。し、それを60年近くも前に試みて、こうしてカタチにして、年代別のオールタイムベストに選ばれるくらい大勢に読まれて親しまれている、という状況に愕然としたよね。別に60年近くも前の小説なのだから、僕が義務教育受けてるときに読んだからって全然早いわけじゃないし、なんだろう、遅かれ早かれという問題でも無いんだけど。もっと早くに読みたかったと思ったよね……。大体往年の名作とか古典とかって読んだ後そういう印象抱きがちだよね。まぁ、僕は大概アホなガキだったので(今も大概アホだ)その時読んだからって血肉になっていたとは到底思えないけど。

コミュニケーションとはどういうことなのかについて結構考えさせられた。まだ噛み砕けていない部分は多々あるし、もう何度か要点に絞って読み返すなどしたいとは思っている。

ところでこの小説をラブロマンスとして消費している層なんて本当にいるんですかね。ソダーバーグだっけ。映画化の2作目はだいぶそういった方向に特化して映像化されてレムの機嫌を大変損ねたみたいなことが解説に書かれていたけど、そういった、商業的な戦略とは別の部分でこの作品をそういう風に見なしているひとがいるのなら、僕はそういうひとの話を結構真剣に聞いてみたいと結構真面目に思っている。

あとどうでも良いけど惑星ソラリスについての記述を読めば読むほどクトゥルフ神話のアザトースのことを考えてしまった。今アザトースのウィキペディア記事を読んで大概的外れな想像だったなと自戒しているが、なんかこう、白痴の神、みたいな想像をしてしまったんだよな。本当にどうでも良い話を繰り広げてしまったね。

 

 

クロニスタ 戦争人類学者 (ハヤカワ文庫JA)
 

みんな大好き『ハーモニー』以降について。

3作続けて翻訳小説について感想というか所感を書いて、まぁそれで終わらせても良かったんだけど、『ソラリス』について書いてたら興が乗ってきてしまったのでこの小説についても書いておく。

柴田勝家先生の小説は『ニルヤの島』を読んでいて、まぁ何かしら思ったことはあるんだとは思うけどその記憶は思ったより不鮮明でどういう終わり方した小説なのかあまりよく覚えていないんだけど、まぁ『伊藤計劃トリビュート』だね。それにこの小説の1章が丸々載せられていて、後に完結させてハヤカワ書房から出版されるということが書かれていたので、この小説は発刊されるのが結構楽しみだったと記憶している。発売されてから結構早い内に確保したはずだ。読むのが2年後になってしまったのは……、まぁ、愛嬌だ。愛嬌では無い。買った小説は読もう。

南十字星』というタイトルで『伊藤計劃トリビュート』に載っていた1章を読んで、僕は割と衝撃を受けたんだよね。伴名練先生と長谷敏司先生の作品とこの『南十字星』が特に気に入って、この作品が完結した暁には伊藤計劃にまつわる流れにある種の決着が付くのではないかとさえ思っていた。

『ハーモニー』世界以降の世界にて、『虐殺器官』に登場する虐殺の文法を、限定的な状況とはいえ方法論としてしっかり説明して登場させたことに衝撃を受けないはずがない、と言ったら大袈裟に聞こえるだろうか。

人間の「意識」に関する『ハーモニー』以降の流れというか、僕も大概読書歴が浅い内に『ハーモニー』を読んでしまってめちゃくちゃ感化されてしまってその流れを追おうみたいな感じになってあれこれ読んだりしたのだが、まぁあまり手応えを得られない読書体験をおくっていた。

結果的に言えば、物語作品として、『クロニスタ 戦争人類学者』は僕を満足させる小説足り得なかった。この感想が感想として正当かどうかは微妙なところだが、結局、故伊藤計劃に対する追悼小説だったな、というのが最後までこの小説を読んだ僕の所感だ。それは『屍者の帝国』で、円城塔先生が既にやったことだと、僕は思った。盟友である円城塔先生がやったことを改めて他の作家がすることに、たぶんその作家以外に働きかけるちからは無いように思った。まぁ初出が『伊藤計劃トリビュート』という、公式アンソロジーだ。ならば意義的に間違っているとも思えないと思い直したが、ともあれ、内容に関しても一辺倒な展開が立て続いたり、ページ数を稼ぐ以上の意図が読み取れないシーンが多かったりで、前述したような感じで終わってしまったので、もうちょっと頑張って欲しかったな……と思ったのがこの作品に対する感想だった。

ただ、「意識」に関する定義問題に関しては収穫があったと感じた。

言語的な思考やそれに由来した認知が生み出しているのが人間の意識であり、動物や昆虫がその脳内で繰り広げるものは人間が言語的に読み取れないものであるから意識とは定義づけられない。人間が定義づけられないものだから人間としての意識ではない(逆説的に、その脳内に生み出されているものは人間が定義づけられないだけで、決して意識ではないとは断定していない)。というような風に僕は読み取った。読み取りとして甘いということはあるだろうし、そもそも作中でこれが詭弁であることは示されているが、「意識が無い」という状態が、我々が共有する言語を由来とした意識活動の類に当てはまらない状態=我々が認識出来ないだけの状態=「意識が無い」わけでは無い、かもしれない。という可能性を提示してくれたのは面白いと感じた。意図的に作中システムを除外した読み取りなので筋が外れてしまっているかもしれないし自信が無いが、まぁ作中のヒユラミールちゃんの変化や変遷からしてそう見当外れな読みでは無いようにも思う。

WatchMeによって意識を無くしたトァンたちは、ただ我々の想像も付かない見地に到達しただけなのかもしれない。何もかもが自明の世界に葛藤は無いかもしれないが、彼女たちはそれでも意義を見出して生きているのかもしれない。想像もつかないけど、きっと素敵な感じなのかもしれない。僕にはわからないことだけど。

 

こんな感じだろうか。

結構時間を費やしてあれこれ書いてしまったが、たぶんこれを残しておくことは僕にとって意義のあることなので、また本読んで思うことがあったら書いていこうと思う。読む方々にとって意義のあることなのかはわからない。まぁ、あまり無いんじゃないかなとは思っているが。

2018 10/16(火)の気持ち

この場所に普段悶々と考えていることを出力し始めてから、なんかこう、精神の調子が良くなってきているように感じる。

別にそれが身長が10cm伸びたり恋人が出来たり宝くじの1等前後賞が当たって人生マジで変わりました!というような自意識や人生の転換が行われたということはこれっぽっちも無いが、なんとなくこう、思考の捌け口を手に入れたことで自らを安定させる術を身に付けられた、という感じがする。

僕が日々の中で起きる大概ちっぽけなことに都度蹴躓いて自分の状態を良くない方良くない方へと押しやっている、というようなことは以前のどこかの記事に書いた覚えがある。これでも数年前に比べて全然マシになってはきている、というようなことも書いた覚えがある。数年前の僕は本当に酷くて、おそとで起きた大概ちっぽけなアクシデントをわざわざおうちに持ち帰って、答えも出ないし解決もしないそれについて延々悶々と勝手に脳が思考し、本当に調子が悪くなる、というようなサイクルを結構な頻度で行っていた。それがどれだけ非効率的で不必要な行いであるかについては自覚的であったものの、脳が勝手にする思考を閉ざせるワケも無く、そういう性質だからと諦めていたし、その性質が実際良い創作意欲として出力されていた経験もある以上何とも言えないことではあるのだが、まぁどこかしらのタイミングで人間関係とか公共の場での振る舞いに対する考え方を改めるようなことがあったのだとは思うが、そうなってからはおうちの玄関をくぐれば大概のちっぽけなアクシデントに対するお気持ちなどは払われるようになり、こうして暢気にインターネットに思考を垂れ流すことでよりフラットな状態に移行することが出来るようになっている気がする。これに関しての賛否に関しては今考えている。負の感情でしか良質なクリエイティビティを発揮出来ない性質は是か非か。まぁ、フラットなお気持ちというのは実際精神の階層の中でも表面上のものでしか無いようにも思うので、また違う話なのかもしれないとか今考えているが。別にそういうこと考えても大概ロクでも無いとは思うのだけど、まぁ自分をコントロールするためには必要なことかもしれないとは考えている。別の機会に考えようとも思う。

 

さて、ブログの管理画面にある「記事の管理」とかいう項目を見ると、割と定期的な頻度で僕が新しい記事を書いていることが確認出来る。ここ3記事は週1のペースだ。この記事をアップロードすることでその周期は乱れるが、果たしてここに思考やお気持ちを垂れ流すことが自分にどのような作用をもたらしているのか、ということについて思いを馳せてしまったのだ。

長らく、本当に長らく使っているソーシャルネットワーキングサービスがあるのだが、最近それに対して色々な感情を抱くようになっている、ということに気付いた。

気に入った著名人の生活や思想を覗けるもの。好意的な感情を抱いている友人知人と気軽にやり取り出来る場所。それに当て嵌まらない例外もあるかと思うが、そこに、割と僕はここに書き殴っているようなクソデカ感情を気軽に持ち込んで垂れ流すなどをしていた。僕は基本的には他人からどう思われても構わないとは思っているが、自分のそういった意識はまぁ置いておくとはしても、それを垂れ流すことで見る相手に色々な感情を想起させてしまうかもしれない(どんなリスクもリスクとしては付きまとう。どんな可能性も基本的には僅かでも起き得るものとして存在する)、ということを考えたときに、そういったことはしないに越したことは無いんじゃないかという意識が芽生え始めたのが、割とここ最近のお気持ちの変化だ。

僕がクソデカ感情をそこに垂れ流すスタンスは、まず「基本的に僕の感情は他者に興味を湧かせない」というもの、「ゆえに誰も反応を返してこない」というもの、「ここは僕の感情の肥溜めだ」というものだ。かなり利己的で独善的なものとしてその場所を活用していた自覚はある。だが、基本的にその場所は情報を得に行く場所ではなく、情報が勝手に流れてくる場所だ。リスクの話は前述した。基本的にはその他者に興味はあるが、その他者の全てに興味があるわけではなく、その情報の中でも取り分け興味をそそるものがあるという理由で繋がりを得る、あるいは片方向的な読者となる、ということは別にそう珍しくない動機だろう。まぁ、端的に言ってしまえば、僕はその仕分け作業のノイズとして機能してしまっているんじゃないかと思ったのだ。僕がそもそもノイズとなってしまっているケースもあるだろう。まぁなら向こうからアクションしてくれるだろう、という向きもあるかもしれないが、そういう手間を掛けさせてしまうこともそれはそれで問題なのかもしれないとは思う。これはこれで自意識過剰な想定だ。僕は基本的に、自分が特定他者や不特定他者に対して正負どちらかの感情を抱かせる多少関わらないあらゆる意味で特別な存在である、と考えるのは傲慢だと考えている。「俺がいないと」だとか「私が皆の邪魔をしている」だとか、だ。正負どちらに関わらず自分が誰かしらにとって意味のある存在だと考えるその思考そのものが自意識という小さな檻に閉じ込められた、自分中心の世界の出来事しか捉えられていない視野の狭い発想だと、割と本気で信じている。皆そこまであんたに(あるいは僕に)興味無いよと思うのだ。べつにそこに限らず大概が狭いコミュニティの中でその内側に肥大した自意識を満たすためだけの振る舞いに一生懸命になってどうするのだ、と、思ってしまうのだよな(もちろんあらゆる場面でそう思っているわけではないが)。だから僕はあまり他者からどう思われるかに構わず振る舞っていた。誰も見ていないという前提、というか心構えは、まぁ簡単に用意出来る。そう振る舞うことも容易い。だが、基本的には衆人環視なのよな。だとしたらそれを想定した振る舞いを無意識に行ってしまう。誰だって自分を取り繕おうとするし、弱みは見せたくないと思っている。僕がどれだけそう思っていないような振る舞いに終始したところで、誰も見ていないと信じていたところで、誰かしらが見られる環境なら誰かしらは確実に見ているものだし、そもそもそういう場なのだから前提から破綻した態度なのよな、ということにようやく思い至った。そう思ってから、その場をここに移した。いや、移すように心掛けている。

誰も見ていないし誰も反応を返してはこない、とは思っているものの、そういった折に実際に反応が返ってくると本当に困る、というのもある。それが気軽に出来る場所なのだからそういう想定はそもそもしておくべきものなのだが、まぁ、基本的に思考リソースって限られてるし、僕はそのリソースが随分手狭だと認識しているということもあるので、まぁ反応が返ってこないと思っているものに返ってくる反応に対してまで考えを回して行動することはとても難しい。実際それが出来るんだったらなぜそんなに迂遠なことをしているのか問い詰めたくなる。まぁ、それが実際僕の精神に負荷を掛けるような本末転倒なことにも容易になり得るということも、理由としては挙がるのだろうか。まぁ、他人のせいにしたいんだろう。それが一番楽だし、自分に正当性を与えられる簡単な方法であることは言うまでもない。

 

で、実際にここに気持ちを書くようになって、その身軽さに本当に驚いている。

実際、ここ数日定期的にひとは訪れているが、誰が訪れているのかは本当にわからない。僕の知人友人かもしれないし、まったく関係無い赤の他人かもしれない。僕はここに僕のお気持ちを書いていることを、基本的には誰にも知らせていない。一応は公開ブログだし、外に対して開けた場所ではあるのだが、こんな誰かもわからんしヤバイやつかもしれない輩が自分の思考や感情の整理してますよ~なんて書き殴った記事を好きこのんで探し当ててやってくるやつがいるとは到底思えない。まぁ僕がどっかしらに公開した小説を読んで僕自身に興味を抱いて頂けたり(可能性の一つとして挙げているだけです)、話題になっているものに触れた記事を書いたりもしたので、それ経由でやってきて「このひと他に何書いているんだろう~」とか思って最新記事開いてこんなの読まされたひとには本当に謝りたい。僕は僕の書きたいことを書いてるだけなのであなたを満足させることが目的じゃないんですよ、とは再三書いておくべきなのかもしれないし、ブログあらすじみたいなあのブログ名の下に書いてあるやつも更新するべきかもしれない。まぁ、ブログという媒体の特性上、その記事を読んでどういう感情を抱いたって記事を開いて読もうと思ったあなたのワンクリックという能動的な行動が招いた結果なので自己責任ですよ、としか本心では思っていないが、そうは言ったって自分が過去に自分の意思で開いて読もうと思って読んだもので悪感情浮かべさせられて憤った経験が無いとは言えないので、まぁ……、という感じだ。ごめんなさいね、本当に。

 

自分がこの場所に感情や思考を垂れ流すサイクルを把握しておきたかった。

把握したそれが理由として挙がるかはさておき、幸いにも創作意欲は高まり続けている。創作意欲の高まりが創作行為に直結しない性質ではあるので、その組み立てを未だ脳の外には移せてはいないし、だからダメなんだとは自分でもほとほと思っていることだが、まぁ良い言い方をすれば頃合いを見計らっているのだ。前回の記事で言語化することについて触れた。これは本当に気を遣っていることなのだが、しっかり作ろうと思っている創作物を闇雲に言語化してしまうのは本当に危ういと思っている。早々な方向性のキメ打ちで難産したり早産してしまった経験が多いからそう思うのかもしれない。先日僕の敬愛する先生が「小説を書くのは(好きで)気安いことだと思っている」と仰っていて、それは決して大変ではないということではないとも仰っていたのだけれど、そう思えるようになりたいなぁと切に思った。人間って身体能力は別にしても、自分の限界って案外伸ばせるものだと思っていて、真剣に試みてもいないことに対して「出来ない」の烙印を押して諦めるのは本当に愚かな諦念だと僕は思っているのだけど、だとしたら出来るのは、するべきは、黙って真剣に試みていくことだけなんだよなぁ、というのもわかっていることなんだけどね。気安く出来たらなぁって、本当に思うんだよ。だって失敗するのって本当に怖いじゃんね。失敗を前提に考えたくはないし、失敗したから小説を二度と書けなくなる、というわけでもないけれど、それがもたらす本震と余震は本当に大きい。それは今の僕が身を以て体現していることなので、余計にそう思うんだよね。

小説を書くことが好きか、嫌いか、ね。『ガーデン・ロスト』の三章『echo』でオズに対してエイ兄が言うじゃん。「(ベースが好きか嫌いかなんて)考えたことねぇよ」って。もう初読から7年8年も経っているし、僕って読んだ小説の台詞とか一文とか本当に印象に残らない薄情な読者なんだけど、この一文だけ(『ガーデン・ロスト』に関してはこれ“だけ”では無いのだが)はずっと、ずっとずっとこころに残っている。いや、普通は考えるでしょ、とは思うのだ。創作物における登場人物特有の飛躍した思考や、それに類するある種超人の域にあるものだとは思っている。でも、そう在れたらどれだけしあわせか、とも思うのだ。好きか嫌いかを考える必要も無くただそれだけにひたすら真摯に向きあえたらどれだけしあわせか。

僕にはもうわからない。小説を書くことが好きか嫌いかの二元論なんかでは到底語れない。ただ、これしか無いとは思っている。僕が出来るのは、本当にこれしか無いと、書けない期間が続けば続くほどその期間に反比例するようにそう思えてきて仕方が無い。なんたる皮肉かと、自分でも笑ってしまう。書けていないのにこれしか無いとはどんな冗談なのか。でも、本当にそう思うのだ。好きか嫌いか、無理矢理どちらかに当て嵌めるなら当然好きだ。でも、あんなに苦しい思いをして書いて、誰かに読んで貰うために書いているのに苦しすぎて書けなくなって、誰にも読まれることなくハードディスクの中で眠ってる未完のあの小説やこの小説、脳の中で未だカタチにならないこの小説未満を産み出すことが本当に「好き」とか「嫌い」とかで片付けて良いのかは、本当に、本当にわからない。

書くつもりなど無かった気持ちを書いてしまって、若干自己嫌悪に陥っている。でも書かなければいけないことだと思ったので、消さずに残して公開しようと思う。綺麗事を言っているなとも思う。他者に対して何らか働きかけるように書いているなとますます自己嫌悪に陥る。僕は創作物における登場人物ではない。だから文面に起こしていない場所に打算や計算は存在するだろう。それが嫌だよね。せめて、創る物語の中にはそういったものを持ち込まないようにはしたい。物語にだけは誠意ある態度を心掛けたいと思う。願わくば早産してしまわないように。

 

また性懲りも無く5000字も書いてしまった。こういう記事を書くことで、感情や思考を消費することで創作意欲の妨げになるようだったら、こういうことはもうやめようとは思っている。

現状は上手く働いているような気もする。わからないけど。何事も試していくべきだとは思う。それが創作行為であれば最良、なんだけどねぇ……。